2008年7月20日 年間第15主日(A年) 宮内神学生

福音:マタイ13:24−43、13:24−30
第一:知恵12:13、16−19
第二:ローマ8:26−27

私たちはそれぞれ、色々なグループ、集団、共同体に属して生きています。そしてその中には必ずと言っていい程、苦手な人や好きになれない人、一緒にいることが苦痛になるような人がいるものです。そのような人の存在は、私たちにとって「毒麦」のようであると言えるのではないでしょうか。そして、私たちは、その人さえいなければ、あるいはその人が変わってくれさえすれば、自分にとっても他の人にとっても、もっと良いのに、と考えてしまいがちです。
しかし、もし私たちが、そのような人を何らかの形でそのグループや集団から除こうとしたり、その人を変えてしまおうとしてしまうならば、それは神様の御心ではありません。たとえ自分にとって「毒麦」のように思える人であっても、神様にとってその人はその人のままで大事な存在なのです。
また、その人が「毒麦」に思えるのは、その人の問題ではなくて、私たち自身の問題である可能性もあります。私たちがその人のいい面を見ていないだけなのかもしれません。
さらに言えば、人間は常に成長し、変化していく可能性を持っているのですから、万が一、その人が本当に「毒麦のような人」であったとしても、神様の恵みによって変えられる可能性もあるわけです。
仮に、そのグループを良くしようと思って実際にその人を取り除こうとしたり、あるいはその人を私たちの思うように変えようとして努力してみても、かえって自分自身や、グループ内の他のメンバーに悪い影響が起こるかもしれないと思います。なぜなら、人間同士はつながっているからです。
しかし、無理をして、その人と付き合っていく必要もないでしょう。福音にあるように「刈り入れまで育つままにしてお」けばよいのだと思います。もちろん、現実はもっと難しく、もっと切実であることは確かです。それでも神様は、その人が除かれたり、無理に変えられたりすることをお望みにはならないと思います。

ところで、私たちは自分自身の中、特に自分の性格の中にも「毒麦」があるように、考えているのではないでしょうか。たとえば、これが無ければ自分はもっといい人間になるのにとか、これがあるから自分は人との関係がうまくいかない、などと私たちはしばしば自分自身のことで悩んでしまいます。
しかし、そういう自分の中の「毒麦」に思える部分を刈り取ったり、無くそうとすることもやはり神様の御心ではないと思います。もちろん努力によって、ある程度改善できる場合もあるでしょうし、改善する努力は必要かもしれません。でも、そういう部分を完全に無くすことは出来ないのです。本当に無くそうとするならば、それは自分を壊すことにもなりかねなません。なぜなら、そのような部分も私たちの一部だからです。
もし、そういう部分を完全に変えることが出来るとすれば、それは神様のお恵みによる場合だけだと思います。むしろ、そうした「毒麦」のような部分こそが自分の力、自分の強さへと変えられていくのではないでしょうか。
今日の第一朗読で言われていたように、神様は本当に寛容な方です。そして、私たち一人ひとりに回心の恵みを豊かに与えてくださる方です。だからこそ「毒麦」も育つままにしておかれるのです。そして、何でもお出来になる神様は、「毒麦」を良い麦に変えてしまうことさえもお出来になるのだと思います。
聖パウロの勧めに従い、聖霊の働きに信頼して、私たちの心を変えていただく恵みを、神様が与えてくださるように、ご一緒に祈り求めていましょう。