2008年8月3日 第18主日 (A年)

私達人間は私達自身の体である「肉」は見たり触ったりすることはできますが、自分の魂や精神、心といったものは、触ることも見ることもできません。私達の体は容易に飢えたり渇いたりしますが、これは食べたり飲んだりすることで簡単にいやすことが出来ます。けれども私達の魂や精神が感じる飢えや渇きに対してはしばしば無関心であったり、むしろ抑圧したりするのです。では、これらの飢えや渇きはどのようにすれば満たされるのでしょうか。

若き日の聖アウグスチヌスは母親の信仰を拒絶し、快楽、金儲け、自分自身の名誉を追い求める日々をおくりました。ある時彼は演説の仕方を学ぶために、ミラノのアンブローズ司教の説教を聴きに行きました。しかし聖アウグスチヌスはアンブローズ司教の説教の核心に触れ、彼の心は大きく揺さぶられたのです。人の心の欲求の全てを満たすものは、神以外にない、ということに気がついたのです。33歳にして彼は洗礼を受けました。彼はこのように書いています。
「主神よ、あなたは私達人間の心ををあなたに向う者としておつくりになりました。ですから私達の心はあなたのうちに憩うまで安らぎを得ることが出来ないのです。」

しかし、それではここでいう「神」とは何でしょうか? どのような方なのでしょうか? 人間としてのイエスの中に、私達は神の心を見ることができます。今日の福音を見てみましょう。イエスのいとこであり友人である洗者ヨハネは殺害されました。イエスはこの死を深く悼みました。神は私達の悲しみをわかってくださいます。神ご自身も人間として、人間の悲しみを経験なさっているからです。そしてイエスは群集を見て、「深く憐れまれた」のです。イエスは人々の心の飢えと渇きがよくわかったのです。この「深く憐れむ」という動詞は、ギリシア語では「スプランキニゾマイ」というのですが、とても強い感情を表す動詞で、イエスは9度使っています。

これは深い内なる衝動、震度7級の感動、愛の洪水を意味します。この神のとてつもなく深い、私達への愛情こそが、私達人間の心の渇きを癒してくれるものなのです。
聖アウグスチヌスのように、神の中で安らぎましょう。神からの、心のための祝宴への誘いに、応えましょう。