アダム神父様インタビュー(3)

アダム神父様インタビュー(取材・再構成:北川恵)

-今週もお時間いただきありがとうございます。緊急事態宣言も39県で解除されるなど、少しずつ事態は改善しているようで何よりです。

「いいことですね、まだ安心はできないけれども。私のこのマスク、似合いますか?ちょっと顔が大きいので、ある信者さんがわざわざ作ってくれました。」

「フランスでも100km以内の移動は許されるようになりました。一方、ミサは依然としてインターネット中継・配信によるものがほとんどです。保土ヶ谷教会でも、31日の『聖霊降臨』ミサを動画配信しようとしてますね。」

「インターネットでミサを見る時に、大事なこととして、私達はそのミサにどう関わるのか、ということがあります。単なる傍観者として見ているのか、それとも本当の意味でイエスの道を歩み、本当の『聖霊』の恵みにあずかっているのか、そんなことなどを今日はお話ししたいです。」

-はい、よろしくお願いいたします。今日の福音(ヨハネ14章15-21)では以下のようでした。

私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。

しかしあなた方はこの霊を知っている。

これはまさに「聖霊」のことですよね?

私達信者は皆、「聖霊の息吹」をいただいているというふうに習っているのですが...。私を含めてなかなか実感できなかったり、時には信徒同士のいさかいを見たりしますと、聖霊の働きなどあるのかなと思ってしまいます。

「それはまず、カトリックの『秘跡』をどうとらえるか、というところから理解する必要があります。カトリックには7つの秘跡があるのはご存じですよね?(注.洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚)最初に来るものが洗礼で、『父と子と聖霊』により神の道を歩むことを誓い、神の家族の一員となることです。」

「日本には、長い伝統があり、その中の思想として『穢れを祓い清める』という考えがあります。水を被り、汚れを落とすようなイメージですが、これとは異なります。」

-なるほど「洗礼」を受けたから大丈夫、という訳ではないのですね。

「そう。大人として洗礼を受ける時、あるいは幼児洗礼者が堅信を受ける時、なぜわざわざキリスト者としての道を選ぶのか、それをよく考えることが大事です。」

「自分の生きる意味は何なのか、人生の目的とは、自分は本当は何を求めているのかなど、人生はわからないことばかりです。これに対してイエス様は明快に私達が歩む道を身をもって示してくださり、ご自身が切り開いたその道についてくるようにと、優しく私達を招いて下さっています。」

「そして、復活後イエス様が天にお帰りになる時に、私達が不安になり『みなしご』のような気持ちにならないように、『聖霊』を私達ひとりひとり、洗礼を受けた者すべてに遣わしてくださったのです。そして『聖霊』は私達が人生の岐路にさしかかるたびに現れ、助けてくださるのです。」

-やっぱり聖霊が困った時に助けてくれるのですね。

「先ほどのヨハネ福音書で『世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない』とありますが、私達自身も『聖霊』を感じようとしているのでしょうか?」

「ここでいう『世』というのは、普通に私達が暮らしている人間俗世のことを言います。先週お話ししたように、放っておけば欲望のみに支配され、弱肉強食によりお互いに傷つけあってしまいがちな世界です。このような世界ではたとえ物質的には満たされていても、真の心の平安と充足を得ることは難しく、絶えず予期できない出来事に振り回され、しばしば生きる意味を見失うことになります。」

「そうした俗世の価値観から離れ、キリストの価値観に従って生きていくことにより、真の生命を生きようとすることが、洗礼を受けた人の日々です。」

「しかし私もあなたもそうであるように、アタマ(理屈)でそう思ってもハート(心)でそのように意思決定することはなかなか難しいです。例えば、ある人を許すべきだとアタマで思っても、心からそう思いそのような行動をとれるには何年もかかったりします。アタマとハートは20センチも離れていないのに、伝わるのに何年もかかったりするのです(笑)。」

「キリスト者として生きたい、しかし俗世の価値観と合わず苦しい、そのような時こそ、聖霊が現れ、私たちにそっと勇気を与えてくれるのです。」

-失礼しました。少しだけわかってきたような気がいたします。

「そう、洗礼は綺麗な服や勲章みたいなものではなく、信徒の道を歩めるようになったということ。そういう意味なので、実際に歩いてみましょう。その歩みは、先週お話ししたように十字架を背負っていくものですから、厳しい時もあります。そのために毎週ミサにあずかり、イエス様の死(『俗世の価値観』からの離脱)と復活(イエスの道)を確かめ、勇気づけられたり、うまくイエスの道を歩けなかった自分を反省したり、イエス様と相談したりするのでしょう。そのような日々を過ごすうちに、『聖霊』も身近に感じられるようになります。

-何も考えず習慣的にミサに出ている自分が恥ずかしくなってきました。もう少し『聖霊』を身近に感じられるためにはどうすべきでしょうか。

「恥ずかしいことは何も無いよ。折角のお恵みを全部いただきましょう、ということですよ。まず、祈りの心を持って聖書を読む、ということをお勧めします。」

「そして信徒の生き方は、教会がその中心にあるものなので、そうしましょう。では教会とは、共同体とは、どのようなものでしょうか。使徒行録に書かれている、初代教会から続く3つのポイントがあります。」

-「ではひとつずつ、教えていただけませんか?」

「まず、最初は信仰を伝えるということです。弟子たちが生前イエスと過ごし、またさらに復活後ひと月イエスと過ごした出来事を人々に伝え、共有するということです。具体的には、聖書を読み理解するということですが、これにより『俗世の価値観』から『イエスの価値観』に変わっていくことも意味します。」

「次に、『イエスの価値観』を保ち育てるために、共に祈るということがあります。パウロの時代ミサはまだ無く、アンティオケアでユダヤ今日から離れ『キリスト者』と言われるようになるころから、ミサは始まりました。イエスの記憶を失わないように、イエスが自分の人生の中心であり続けるために、そして迫害に耐え自らを強めるために、できていったのです。」

-迫害があった初代教会のころは一致団結していたのですね?

「確かに今は表立った迫害はありませんが、『俗世の価値観』により本質を見失ってしまう『ファリサイ人』は昔も今も多いです。また初代教会においても、信徒たちのいさかいはありました。しかし見せかけの、世間に向けての飾りではなく、本当にイエスと一致したいと願う人々が共に祈るのであれば、許し合いと相互理解、一致が必ずあるはずです。」

「気の合った人たちだけが集まり、慰め合い、情報交換する、そんなクラブのような集まりは俗世にたくさんあります。教会もそのような性格をもっていてもちろん良いのですが、それだけではなく、『俗世の価値観』を持ち込まず『イエスの価値観』をもって、隣人同士、人として愛し合い助け合う、ところであるはずです。」

「最後、3点目としてそのような場所でキリスト者たちが行うことは、初代教会も今も、『わかちあい』(初代教会では『施し』と表現)です。物質的な支援だけでなく、損得を離れて、自分とは異なる考えであっても、隣人の気持ちに寄り添う、ということが重要です。」

-「3点目は人助け、ということでわかり易いですが、実際問題、自分と大きく考えが異なる人と関わるのは怖い気もします。」

「わたくしが宣教師としてフランスから東南アジアに派遣されるときに、マラリアをはじめいろいろな予防注射を受け、さまざまな衛生上の注意や訓練を受けました。そこで口酸っぱく言われたことは、「人を救おうとして、あなた自身が病魔に倒れたら、あなたの使命は完遂できない」でした。どんなことでも、最初に自己の心身の健康・安全をまず考え、その範囲の中で、焦らずあきらめず関わり続けることが良いと思います。」