2008年10月19日  年間第29主日  (A年)

聖書にはユダヤの人々が徐々に真の神を知るようになっていったことが描かれています。 どの国にもそれぞれ自分達の神がいる、というのが3千年前の考え方でした。 エジプトで奴隷とされていた時には、エジプトのラー神が彼らの神より強く見えました! 奴隷から開放されると、神とは、自分達を解放してくれた神であると思いました。 荒れ野において、神は彼らを助けてくれたのです。 しかし、カナンの地に入るとバアル神、そしてバビロンにおいてはマードック神を崇拝したくなりました。 しかし彼らの神についてのイメージはだんだんハッキリしてきたのです。 今日の第一朗読は旧約聖書の中でも少し変わっています。 真の神がバビロンの異教の王シラスを平和と解放の使徒として用いたのです。 言い換えれば、唯一の、至高の神が存在していたということです。
そして最終的に、私達に神とは何かハッキリ示すために、神はイエスという人間になりました。 神は、「おとうちゃん」、父であり、私達は皆その愛する子供たちなのです。 神は私達ひとりひとりを、それぞれの名前で呼んでくださるのです。 私達がイエスの優しい、親切な心を見るとき、同時に私達は真の神の優しく親切な心をみるのです。
私が子供だった時、神のイメージは良いものでしたが、子供っぽいものでした。 若者になり、そのイメージは変わり、さらに大人になって変わりました。 さらに、30代、40代、50代、60代、70代と年をとるにつれ、私の神に対するイメージは変わり続けました。  このまま変わり続けることを望み、祈っています。 変わるということは、違ったものになる、ということではありません。 変わる、とは私の神に対するイメージがより深く、親しく、愛情深いものになる、ということなのです。 聖パウロはコリント人への第一の手紙(13:11)で「私が幼子だった頃は幼子らしく考えましたが、今や大人なので大人として考えます」と言っています。
私達が神をどのようにイメージするかということは、私達の日常の暮らしと祈りにとって大事なことです。 もし私達の神が厳格な、罰するような神であれば、私達の祈りは恐怖に満ち、私達の日々の暮らしも恐れに満ちたものになるでしょう。 もし神が優しい、愛情に満ち、いつでも私達を歓迎してくれる寛容な「おとうちゃん」であれば、私達の人生は喜び、希望、愛に満ちたものになるのです。
生きている声で、「おとうちゃん」は言います。
「あなたは、私の子だ。私はあなたを、名前で呼ぶ。」
今日は宣教の主日です。神の優しさを他の人々と分かち合いましょう。

追伸:福音では「良いキリスト教徒は、同時に良い市民でなければならない」と言っています。