2010年1月3日 主の公現   (C年)

公現の古代のお祝いは、神がすべての国民と民族の前に、ご自身を現したということを意味しています。イエスはあらゆる人々、あらゆる時代のためにおられま す。イエスのところに最初に来て礼拝したのは、ユダヤ人の羊飼いたちでした。そして次にイエスを拝みに来たのは、ユダヤ教ではない3人の博士たちでした。 これは明確に聖書学的に意味を持つ教え、キリストは全ての人々のためにおられる、ということです。
3人の博士たちは星によって導かれてやって きたのですが、なおイエスを探さなければなりませんでした。私たちも日常の暮らしにおいて、導きの星があります。それはキリストご自身です。しかし私たち も彼を祈りによって探さなければならないのです。そのために、静かな時間や導きの星であるキリストに対して私たちが敏感になれるように、静かな心を持つ必 要があります。そのような導きは私たちの日常に意味と味わいを与えてくれます。
公現は美しい祝祭ではありますが、厳しい一面もあります。私た ちはみな、キリストの神に受け入れられています。私たちは、自分とは異なった人々、つまり違う国、違う宗教、違う性格、違う趣味、違う考えといったものを 受け入れることができるのかと問われているのです。                                                                                    3人の博士たちはイエスに贈り物を捧げました。私たちもイエスに贈り物、私たち 自身を捧げましょう。イエスに静かな祈りの中で、価値ある時間を捧げましょう。人を助けるための時間を捧げましょう。イエスご自身がそうしなさいと言って いるので、安心してイエスに私たちのストレス、疲れ、痛み、空虚さ、寂しさを捧げましょう。そしてイエスに私たちができる最大の贈り物を捧げましょう。そ れは私たちを傷つけた人を許すことです。それがたとえ実行不可能なほど大きなものであっても、少なくとも、許すことができるように神の賜物をキリストに乞 いましょう。(これが私たちを傷つけた人を許す最初の一歩です。)
キリスト教に限らず多くの宗教で、神に対して贈り物をするのは習慣となって います。多くはお金やモノです。しかしそのような贈り物は私たち自身(心、思い、体)の贈り物の外面に過ぎないということは十分認識しておくべきです。神 に対しては、心の贈り物がより大切なのです。