2010年2月21日 四旬節第1主日   (C年)

 四旬節に入りました!あなたにとって四旬節とは甘いもの、お酒、チョコや砂糖、あるいは映画などを我慢するようなことでしょうか? 物質的なものは心や精神的なものに比べれば実に価値がないということを実感するようになるという意味で、このような犠牲を捧げることは良いことです。しかし「モノを我慢する」ことに過度に重きをおかないようにしましょう。私たちの宗教が、単なる否定的なうわべだけの宗教になりかねないからです。この四旬節に(捧げものをしつつも)私たちは、神が私たち一人ひとりをありのままで愛してくださっていると実感できるように、自分の心を神に解き放ちましょう。神は私に愛と理解と慈しみをくださいます。それは私が神にあげることのできるちっぽけなものに比べればはるかに重要なものです。実際のところ、神の愛の深さを実感し、それに応えようとすることの方が、私たちはより多くのものを神に捧げることが出来るのです。

今日の第一朗読をうけて私たちは皆、「主は私の声を聞き、私のみじめさ、私の労苦、抑圧された私を見て、そして私を助けてくれる」と言うことができます。それが神の私への愛です。 詩編91の中で私たちも「神は、わたしの逃れ場、わたしの砦、私は神に寄り頼む」と祈ることができます。主は「私はあなたと共にいる。私は苦境にあるあなたを助ける。」と言っているのです。

灰の水曜日に私たちは、「悔い改めて福音を信じなさい。」との言葉とともに額に灰を塗られます。「福音」は、神が無条件に私たち一人ひとりを愛してくださるという嬉しい知らせです。先程の祈りによって、この素晴らしい知らせを考えましょう。この祈りの言葉は、「あなたがたは塵から造られ、そしてまた塵に還っていくことを忘れるな」とともに語られるのです。この言葉は悲観的に聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
私たちはみないずれ死にます。この事実から逃避して生きて行くことは健全ではありません。死ななければならないという事実を抑圧しようとするかもしれませんが、死は必ず存在し、心の暗い底に潜んでいます。福音とカトリック教会(そして多くの現代の精神科医)は人の死に向き合うことは健康的なことであると考えています。聖書は死はすべての終わりではないと言っています。実際には、死は神との新しく素晴らしい暮らしの始まりなのです。死は決して終着駅などではなく、単に乗換駅にすぎません。四旬節において、私たちは天国の神との新しい暮らしを固く信じて死と向かい合います。(第二朗読はイエスと私たち自身の復活を強調しています。)
もし私たちが神の愛に包まれていることを真に信じていれば、天の神の元に戻ることは喜びとなります。イエスは誘惑、苦痛、拒絶、裏切りを経験しました。彼は私たちの側に立って人生の道を歩まれたのです。何を恐がることがあるでしょう?
「恐れるな、私はあなたと共に居る。」