2017年6月25日 年間第12主日(A年)

マタイ10章1-4節: シモンペトロ、シモンの兄弟アンデレア、ゼベダイの子ヤコブ、ゼベダイの子ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブ、タダイ、カナ二アン シモン、イスカリオテのユダ。

マタイ、マルコ、ルカによる福音書の中で、マタイによる福音書で唯一、12弟子たちのうち、職業が書かれている人がいます。 それは福音書を書いたマタイ、本人でした。

マタイは福音書を書きながら、自ら、自分が徴税人であることと明らかにしておきました。これは確かに、意図的です。 なぜなら、マタイは、師匠であるイエス・キリストが自分を12弟子の一人として選んだこと自体が福音宣教の本質(その意味を現していると)と考えたからです。

そのマタイの意図(こころ)を知るためには、徴税人に対する当時のユダヤ人の考え方を知る必要があります。

徴税人はユダヤの社会で皆から嫌われていた者、敵でした。その時代、誰かの悪口を言うときには、「この徴税人のような奴」と言うほど、ひどい言葉はなかったといいます。 徴税人はその存在は自体が罪だから、法廷で証言する資格を持たされなかったのです。聖書においても、徴税人は罪びとという単語と並べて使われています(「徴税人と罪びと」(マタイ9,10;ルカ15,1)、など)。 このように、徴税人は当時のユダヤ社会で道徳的・宗教的に受け入れられない存在であり、ユダヤ人の間では徴税人は殺人者、強盗のように扱われていました。

このようなユダヤ人の文化と歴史観に染まった人であれば、マタイは弟子として絶対に受け入れられない人でした。しかし、イエス様はマタイを自分の弟子として呼ばれました。 イエス様は憎まれていた、軽べつされていた人を弟子としてよばれたことによって、ご自分がこの世に来られた目的が何かを明確にしました。 「医者を必要とするのは、健康な人ではんく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5,31-32)。 マタイのような徴税人もイエス様の12人の弟子の一員として、呼ばれたということを自ら述べ伝えて、イエス様の福音宣教が赦し、愛、救いであることを強く訴えているのです。

マタイという言葉はヘブライ語で「主のプレゼント」という意味です。 イエス様がマタイを呼びかける場面を振り返って読んでみましょう。

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った(マタイ9,9)。

イエスから呼びかけられたマタイすぐ、立ち上がって、すべてを捨ててイエスに従いました。徴税人の頭であったマタイ。そのポストをすべてを捨てなければならなかったということは、他の弟子よりハードルが高かったのだと思います。マタイにとって冒険でした。漁師という手に職があるアンデレやペトロと違って、もう復職はできないのです。

さて、古代伝承の中でマタイがイエスに従う時に一つ、捨てなかったことがあると聞いています。それは、「ペン(鉛筆)」でした。税務の仕事をしていたマタイは優れた情報収集能力や数値感覚、会計知識など、その能力を生かしてマタイ福音書を記録しました。 イエス様に呼ばれる前には税金を取り立てて、同族を苦しめたマタイでしたが、イエス様の弟子になってからは同族のために、命の福音書を書いたのです。 徴税人には法廷で真実を証言する資格がありません。そのような人が福音書を書いて、救いの真理を全世界に伝える人になったということは、誰でもキリスト・イエスによって、新しく生まれ変わることができるという大きな大きな恵み、そわたしたちに希望をもたらすよい知らせ、を意味しているのです。