水, 04/08/2020 - 21:38

何事にも時があり 天の下の出来事には

すべて定められtた時がある

 

 2020年四旬節の教皇メッセージには、次の趣旨が示されています。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 イエスの死と復活という偉大な神秘を新たな心で記念するために、備えるのにふさわしい季節を、主は今年もまた、私たちに与えておられます。この神秘こそが、個人、共同体としてのキリスト者の礎です。

 私たちは心と思いを尽くして、絶えずその神秘に立ち返らなければなりません。私たちがその霊的な力にすすんで関わり、広い心で自由に応えて受け入れるほど、その神秘は私たちのうちで広がり続けます。」

 初めは、このメッセージの二点を中心に考えてみようと思っていました。

1.イエスの死と復活の神秘は、キリスト者の生活の礎です。

2.私たちは心と思いを尽くして、絶えずその神秘に立ち返らなければなりません。

 しかし、出来上がった原稿を送ろうとした時、自分の不注意で突然に原稿が消えてしまいました!そこでもう一度、この二つの課題に取り組もうと思った時に、ちょうど日本の社会環境が急に変わってしまったので、改めて新しい状況に基づいて考えてみたいと思います。

 復活祭は、イエス・キリストの死と復活を記念するイベントですが、毎週日曜日のミサ聖祭との連携で一年間のキリスト者の歩みを支えてくれる「オアシス」になります。イエス・キリストの洗礼を受けた者は、「イエスの死に葬られ、キリストとともに復活する」とパウロが説明してくれます。

 毎週日曜日のミサに与ることは、詩篇22に歌うように、良い牧者である主キリストが一人ひとりの世話を絶え間なくしてくれます。イエス・キリストの言葉と体をいただけることによって養われ、癒され、そして、日用の必要な糧を受けることができます。

 しかし、今しばらくの間、ミサ聖祭に与ることも、皆で集まることもできなくなったことは、とても残念です。信徒の兄弟の一人ひとりがどんな影響を受けているでしょうか。その反面、私たちがいざという時、試練を受けている時、どんな工夫をすれば良いでしょうか。皆でできなくなったことがあったとしても、一人でもできることがまだまだあるでしょう。

 できることがあれば、それはどんなことでしょうか。一日のスケジュールを考え直しながら、例えば、詩篇を祈ったり、神の御言葉を読んだり、ロザリオ、十字架の道行を祈ることは一人でもできます。兄弟との集会ができなくなったら、寂しいことですが、お互いに連絡したり、情報交換したりすることぐらいはできます。教会は建物よりも「キリストの体」であるとパウロがおっしゃるように、地域社会のあちこちに住んでいるキリストの体の一部(メンバー)である私たちが、体全体のために何ができるでしょうか。5班に分かれているキリストの体にはどんな役割があるのでしょうか。

 今どうしても考えなければならないのは、二点目の回心であります。今こそ、その時期が迫っているのではないかという気がします。今私たちが立ち向かっているこの特別な時期は「危機」とも呼ばれ、転換期でもあると思います。印象的であるパウロの回心を参考にして考えてみたいと思います。灰の水曜日の儀式を思えば、頭の上に灰を受けながら「回心して、福音を信じなさい」と響いてくる言葉がよく聞こえてくるでしょう。教皇メッセージの言葉通り「私たちは、心と思いを尽くして、絶えずその神秘(死と復活)に立ち返らなければなりません」と。ダマスコの道でキリストと出会ったパウロが、キリストに向かって叫びました:「主よ、あなたはどなたですか」と。聞いているパウロにキリストは「わたしはお前が迫害しているイエスである」と。パウロの心の中に何が起こったのか、本人自らは「わたしはこう判断しています。すべての人のために一人の人が死んでくれたということです。現に生きている人たちも、もはや自分で生きるのではなく、自分たちのために死んでかつ身を起された方のおかげで生きているということです」と。(第二コリント5、14-15)

 明日どうなるのか誰もわかりません。しかし、明日に向かってイエス・キリストと兄弟とともに生きようとする私たちには、このような異常事態を避けたいという強い気持ちが誰にもあります。しかし、その反面、全世界の被造物の存在まで取り消そうという目に見えない敵に向かって、皆一つになって、全面的に止めなければならない緊急時です。専門学者、医療機関、国民全体などの力を合わせて立ち向かっていかなければなりません。いざという時、キリスト信者が教会としても、個人としても何ができるのかと考えさせるための危機ではないでしょうか。人災と自然災害の多い国には、心の準備ができているのではないでしょうか。

水, 04/08/2020 - 22:56

親愛なる友である皆さん、こんばんは。

 今夜はいつもとは違うかたちで皆さんのお宅にお邪魔します。この困難と苦しみのときに、よろしければ少し話をさせていただきたいと思います。皆さんの家庭では、感染を避けるために通常とは異なる生活を送っていることでしょう。外に出れず、学校にも行けず、普段通りの生活ができない活発な子供や若者のことを、わたしは考えます。そして、すべての家庭を心に留めます。とくに愛する人が病気になってしまったご家庭、不幸なことに新型コロナウイルスや他の原因のために家族が亡くなり、その死を悼んでいるご家庭です。こうした日々のただ中で、わたしは現状に対処することがもっとも困難な一人暮らしのかたがたにとりわけ思いを寄せます。そして、大切なご高齢のかたがたのことを特に考えます。

 新型コロナウイルスに感染し発病した人、病院に入院している人のことを忘れることはできません。このパンデミックを収束させるために、または社会にとって不可欠なサービスを確かに届けるために、身を危険にさらしている人の惜しみない行いを、わたしは心に留めます。毎日、毎時、どれほど多くのヒーローが活躍していることでしょう。わたしは、経済的に苦境に立たされ、雇用や未来に不安を抱いている大勢の人のことも思い起こします。刑務所に収容されている人にも思いを寄せます。彼らの苦しみは、自分自身や最愛の人が感染するのではないかという恐れによってさらに増しています。わたしは、守ってくれる家もないホームレスのかたがたに思いを寄せます。

 今は誰にとっても苦しいときです。多くの人にとっては、もっとも苦しいときです。教皇であるわたしは、そのことを知っています。そして、このことばを通して、わたしが皆さんに寄り添い、愛情を注いでいることをお伝えしようと思います。もしできれば、このときを活かすよう努力しましょう。寛容になりましょう。困っている近隣の人を助けましょう。独りぼっちになった人を、電話やソーシャルメディアを使ってでも、気遣いましょう。イタリアや世界で苦しんでいる人のために、主に祈りましょう。たとえ、隔離されていても、わたしたちの思いと心を、愛の創意工夫によって、遠くに届けることができます。愛の創意工夫こそが、わたしたちが今、必要としているものです。今、わたしたちに求められているもの、それは愛の創意工夫です。

 わたしたちは、福音のメッセージ、神の限りない愛のメッセージを示し、集約している聖週間を、例年とは全く異なるかたちで記念します。静まりかえったわたしたちの町に、復活祭の福音が響き渡るでしょう。聖パウロは言っています。「その一人のかたはすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが。もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(二コリント5・15)。 復活したイエスにおいて、いのちが死を打ち負かしました。この過越の信仰は、わたしたちの希望をはぐくみます。わたしはこのことを、皆さんとともに今夜、分かち合いたいと思います。それはよりよい時への希望です。そのとき、わたしたちは悪とこのパンデミックからようやく解放され、よりよい状態にあることでしょう。希望、それは決して期待を裏切らない希望です。幻想ではありません。希望です。

 こうした日々を過ごす間、互いに寄り添い合いながら、愛と忍耐力をもって、よりよいときのために備えましょう。皆さんのお宅にお邪魔させてくださり、ありがとうございます。苦しんでいる人、子ども、ご高齢のかたに優しく接してください。主がこの悪からすべての人をすぐに開放してくださるよう、教皇が彼らに寄り添いながら祈っているとお伝えください。そして、わたしのために祈ってください。

土, 04/04/2020 - 10:01

アダム神父様からのビデオメッセージをお送りいたします。

概要

・医療に携わる人、苦しんでいる人のために祈りましょう

・教会に来られなくても、家庭でロウソクと十字架を用意して祈りましょう

・聖木曜日・聖金曜日の意義について(今回はミサについても「断食」となりその意味を噛み締めましょう)

・今訪れてみる聖書の箇所
(出エジプト記14章、イザヤの預言、ローマ人への手紙6章)

下記をクリックし、動画をダウンロード下さい。(内容は約13分。ダウンロードには2分ほどかかります。)

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月, 08/14/2017 - 22:13

 

人生を中で、悲しい涙、悔しい涙をを流したことやひどい目にあったこと、そして、痛みを味わったことががない人はいるのでしょうか。また、危機に臨んだことがない人はだれ一人もいないと思います。

 

わたしたちは知っています。過去もそうだったし、わたしたちに開かれている未来も、逆境を取り除くことができないことを。

 

このような、真実を知っている人なら、神様に祈る時に、現在、自分が担いでいる十字架を取り除いてくださいと祈るよりは、むしろ次のように祈るでしょう。

 

「主よ、わたしは人生の中で、上り坂だけではなく、下り坂もあるし、光と同時に闇も存在していることを知っております。ですから、上り坂と光の瞬間にはそれに相応しい恵みを、下り坂と闇の時にはまた、それを乗り越える恵みをください」と。

 

今日の福音の個所でペトロが最初、水の上に立てられたのは、イエス様に目を合わせるころができた瞬間でしたもちろん、その瞬間も強い風が吹いていて、急に風が静かに沈んだわけでなかったのです。周りの状況が変わったわけではなく、その状況に対するペトロの視線(態度)が変わったことに注目しましょう。強い風(逆境)の中で、わたしたちの目線をイエス様にあわせればイエス様はペトロにお話になったように、「わたしだ」「安心しなさい」「恐れることはない」と言われるでしょう。

 

 

 

わたしたちはイエス様を救い主、神の子として信じいているものです。つまり、わたしを救ってくださる方だし、救いの道へ導きてくださる方です。ですから、これからの生活のなかで、重い十字架がわたしの肩を押さえつけるときに、自分一人ではなく、イエス様がともにいてくださることを思い出しましょう。そして、十字架に直面する新しい態度(目線、価値観)を持つようにしましょう。すなわち、怖くて脅威的な状況が自分をよけて通りことを願うのではなく、その状況にあっても主の目を見つめることができる恵みを願いましょう。そうすると、どのような状況の中でもわたしたちは一歩一歩、前に進むことができ、必ずイエス様がわたしを御父のもとへ導いてくださることを信じながら。

 

日, 06/25/2017 - 15:54

マタイ10章1-4節: シモンペトロ、シモンの兄弟アンデレア、ゼベダイの子ヤコブ、ゼベダイの子ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブ、タダイ、カナ二アン シモン、イスカリオテのユダ。

マタイ、マルコ、ルカによる福音書の中で、マタイによる福音書で唯一、12弟子たちのうち、職業が書かれている人がいます。 それは福音書を書いたマタイ、本人でした。

マタイは福音書を書きながら、自ら、自分が徴税人であることと明らかにしておきました。これは確かに、意図的です。 なぜなら、マタイは、師匠であるイエス・キリストが自分を12弟子の一人として選んだこと自体が福音宣教の本質(その意味を現していると)と考えたからです。

そのマタイの意図(こころ)を知るためには、徴税人に対する当時のユダヤ人の考え方を知る必要があります。

徴税人はユダヤの社会で皆から嫌われていた者、敵でした。その時代、誰かの悪口を言うときには、「この徴税人のような奴」と言うほど、ひどい言葉はなかったといいます。 徴税人はその存在は自体が罪だから、法廷で証言する資格を持たされなかったのです。聖書においても、徴税人は罪びとという単語と並べて使われています(「徴税人と罪びと」(マタイ9,10;ルカ15,1)、など)。 このように、徴税人は当時のユダヤ社会で道徳的・宗教的に受け入れられない存在であり、ユダヤ人の間では徴税人は殺人者、強盗のように扱われていました。

このようなユダヤ人の文化と歴史観に染まった人であれば、マタイは弟子として絶対に受け入れられない人でした。しかし、イエス様はマタイを自分の弟子として呼ばれました。 イエス様は憎まれていた、軽べつされていた人を弟子としてよばれたことによって、ご自分がこの世に来られた目的が何かを明確にしました。 「医者を必要とするのは、健康な人ではんく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5,31-32)。 マタイのような徴税人もイエス様の12人の弟子の一員として、呼ばれたということを自ら述べ伝えて、イエス様の福音宣教が赦し、愛、救いであることを強く訴えているのです。

マタイという言葉はヘブライ語で「主のプレゼント」という意味です。 イエス様がマタイを呼びかける場面を振り返って読んでみましょう。

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った(マタイ9,9)。

イエスから呼びかけられたマタイすぐ、立ち上がって、すべてを捨ててイエスに従いました。徴税人の頭であったマタイ。そのポストをすべてを捨てなければならなかったということは、他の弟子よりハードルが高かったのだと思います。マタイにとって冒険でした。漁師という手に職があるアンデレやペトロと違って、もう復職はできないのです。

さて、古代伝承の中でマタイがイエスに従う時に一つ、捨てなかったことがあると聞いています。それは、「ペン(鉛筆)」でした。税務の仕事をしていたマタイは優れた情報収集能力や数値感覚、会計知識など、その能力を生かしてマタイ福音書を記録しました。 イエス様に呼ばれる前には税金を取り立てて、同族を苦しめたマタイでしたが、イエス様の弟子になってからは同族のために、命の福音書を書いたのです。 徴税人には法廷で真実を証言する資格がありません。そのような人が福音書を書いて、救いの真理を全世界に伝える人になったということは、誰でもキリスト・イエスによって、新しく生まれ変わることができるという大きな大きな恵み、そわたしたちに希望をもたらすよい知らせ、を意味しているのです。

月, 05/22/2017 - 21:15

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」

今日の第1朗読から福音まで、一貫しているメッセージとは「神の愛」です。その愛をわたし(わたしたち)にしめしてくださったものが今日イエス様が福音の中で約束してくださった「弁護者」と訳された「パラクレ―トス」、聖霊です(そばによばれたという意味)

人生の一人旅と言われる、一人ぼっちのようなこの世の中で、同伴者がそばにいることはどんなに力になるでしょう。その同伴者(聖霊)をわたしたちのそばに送り、わたしたちを見守ってくださるという大きな約束です。

一昨日、病者の秘跡(臨終の秘跡)のために、東京の亀有という町へ行ってきました。

ミカエルという方ですが、まだ60歳にもなってない、お父さん。妻も、結婚もしてない二人の子供がいます。しかし、末期がんで、医者さんから、1週間も生きていられないという。

何回も訪問したけれども、特に今回は息が苦しくて、まるで消えつつあるロウソクのような、命を感じられました。

しかし、そのミカエルという方が最後の願いとして、自分の葬儀は必ず教会で、やってもらいたいとおっしゃったのです。なぜなら、信仰をもってない、妻と子供のために、自分の葬儀に出てもらい、神様のことを気づいて欲しいということでした。

人間はいつか、死んでいまう存在で生まれているのですが、皆さんは、自分がこの世を去っていく時に、愛する家族に、周りの人々に何を残したいのですか。

ミカエルさんは信仰でした。そして、イエス・キリストがわたしたちに与えてくださったのは聖霊でした。

アフリカのある部族では、息子がある程度大きくなって、成人式を迎える時期が来たら、お父さんは息子を、しっこくの闇(まっくろのジャングル)へ連れていき、刀一口(かたなひとくち)たげを与えて、一日夜を過ごせるらしいです。

何も見えない危険なジャングルでたった刀だけに頼りにして、野獣の鳴き声とか自分を見つめていている猛獣(もうじゅう)目、草虫の音など、恐怖(きょうふ)に襲われて、まんじりともせず一夜を明かすことになるのです。

しかし、夜が明けて、周りが見えるようになったら、息子は今まで、感じたこともない父の愛に直面することになります。

暗闇の中で、ただ一人が戦っていたと思っていた息子は、自分との離れたところで、重武装をして息子を見守っている父の姿を見かけることになるからです。

この体験をした息子の人生は変わります。この世の中で、かならず自分を助けてくれる父(ある存在)がそばにいることを信じで、ジャングルで一人前の男として暮らしていくのです。

わたしには聖霊がともにおられるます。

わたしの中であられる聖霊の助けと働きをを信じましょう。そして、相手の中でおられる聖霊の働き、助けをも信じましょう。そして、不安や寂しさ、苦難を恐れずに、わたしと共におられる聖霊を信じて、「互いに愛しあいなさい」というイエス様の掟を守り、実行していきましょう。その中で、聖霊の実りが、すなわち神の喜び、平和、柔和が芽生えてくるはずです。

土, 04/29/2017 - 21:01

つい三日前には、弟子たち皆がユダヤ人を恐れ、自分たちの家の戸に鍵をかけていました。そんな仲間たちの雰囲気が急にかわり、「わたしたちは主を見た」と喜びながら自分に話すようになりました。そのような仲間をどのように理解すればよいでしょうか。

もしかして、トマスはイエス様が亡くなる前に三回もわたって、ご自分の受難と死そして復活の予告をしたので, まさか師が言われたそのことが本当に起きたのかと思ったかもしれません。しかし、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは、決して信じない」といったのです。

私は、トマスはあえて信じないと言った気がします。自分だけが排除された、いじめられた、見捨てられたという寂しさ、悔しさがあったのではないでしょうか。

さて、八日の後、イエス様は弟子たちがいる場所に再び現れて、真ん中にたち、「あなたがたに平和があるように」と祝福をしてくださいました。このイエス様の出現は「トマス」のため、またイエス様の復活を見ることができない、体験することができないわたしたち、一人一人のためにイエス様が特別に表れたと思うことしか考えられません。なぜなら、イエス様は平和の祝福をしてから、すぐにトマスに話しかけられたからです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手をみなさい。また、あなたの手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じないものではなく、信じる者になりなさい。」

皆さん、わたしたちが信じているキリスト教という宗教は、「わたしは主を見た」ではなく、「わたしたちは主を見た」という「わたしたち」(キリスト教の共同体)基礎の上に建てられた信仰です。

はっきり、言わせていただきますと、ここにいるわたしたちの中で、イエス様の復活を目撃、体験した人は誰一人もいません。わたしたちの信仰はイエスの復活を体験したイエス様の弟子からキリスト教の共同体から伝え受けた信仰です。ですから、イエス様は今日の福音を通して、自ら「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのです。

結論的に言えば「決して信じない」と言ったトマスはイエス様に対して「わたしの主、わたしの神よ」とへ信じる者になりました。さらに、この信仰告白こそ、ヨハネによる福音書が書きしるされた目的であり、最終的にはわたしたち、一人一人が誓うべき、信仰告白です。

キリストの洗礼によって生まれかわり、救いの約束をいただいたわたしたちは日々の生活の中で、共同体の中で、復活され、わたしたちと共におられるイエス様に出会うことができます。そして、その中でイエス様はわたしたちを永遠の命に導いてくださいます。この大きな喜びを復活ロウソクの光が暗闇の中で輝いているように、わたしたちも日常生活中で広げていくことができますように。 アーメン。

 

土, 04/29/2017 - 21:17

今日の福音の中でイエス様「すでに全身を洗ったものは、全身清いのだから足だけ洗えばよい。あなたがたは清いだから、皆が清いわけではない」(ヨハネ13, )と言われました。

お風呂に入り全身を洗ったあと、食事をするのに、わざわざ、再び手を洗ったり、足を洗ったり、する必要はありません。

今日のイエス様は弟子たちに、あなたがたはすでに全身清いのだからと言いながら、また弟子たちの足を洗おうとしておられます。そして、「たしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」

さて、全身が清いという意味と足を洗うという意味は何でしょうか。この質問の答えを『聖霊の息吹を受けて』という故溝部司教様の本の一部を引用させていただきます。

 

さて、今日の第一朗読の中で「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる」という言葉が使われます。エジプトで、子羊の血を鴨居(かもい)に塗った家を天使たちが過ぎ越していきました。ここから、過越と呼ばれています。天使が過ぎ越して行った家のお供は殺されませんでした。過越して行ったということは、その人が救われたということを表しております

天使は鴨居にある「しるし」を見て過越して行きました。

現代の「しるし」というのは洗礼です。

洗礼を受けた私たちを天使は過越して行きます。水という「しるし」を受けましたので、

天使が過越して行ってわたしたちを約束の地に導きます。これが救いです。

 

第一の朗読で言っております。エジプトを出るとき、イスラエルの民はパンを食べます。

イエス様も過越の祭りにパンを()いて食べました。パンと羊の血、これが過越際の二つの「しるし」です。今私たちにはパンとそれから血と、この二つが与えられます。パンを食べ、血を飲む人はそれによって救われます。約束の地に導かれます。現代の「しるし」過越は、ミサの中で供えられるパンです。このパンをたべるたびごとに、わたしたちは何を思い出すのでしょう。「このパンをたべ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(コリンⅡ1126)

洗礼によって清められて、パンによって養われたわしたちは今救いの道を歩んでいます。

それでは、救いの道を歩むというのはどういうことでしょう。イエスは食事が終わって弟子たちの足を洗います。救いの道を歩むというのは、お互いに足を洗うことです。

パンを食べ、洗礼の水を受けた私たちは、救いの道を歩むためには、この隣の人の足を洗わなければなりません。自分の好きな人たちとだけ、自分の仲間とだけいる、こういう見方ではありません。

自分が正しいと思い込んで人を裁いていれば、まず自分自身を正さなければなりません。だれもこの教会の場所で人を裁いてはいけません。

イエスが私たちのために神から遣わされたこと、わたしたちのために死んだこと、これらを考えたら、わたしたちが何をしなければならないかという問題が提起されていることに気づくはずです。きょう、あした、明後日と三日間にわたって、光と(やみ)について考えるように促しています。神の恵みによって生きる自分の正しさ、こんなことを考える三日間にいたしましょう。

土, 04/29/2017 - 21:23

今日はペトロについてお話したいと思います。

「イエスは彼を見つめて、あなたはヨハネの子シモンであるがケファと呼ぶことになる」(ヨハネ142) ‘ケファ’という意味はアラム語で「岩」という意味です。(ペトロはラテン語、ギリシア語ではΠέτροςといいます)。聖書の中で、神様によって名前が変わった人は他にもアブラム(アブラハムへ)、サライ(サラへ)、ヤコブ(イスラエルへ)などがいます。

さて、シモンはペトロに改名されて、成熟した人間に変わったのでしょうか。私は、岩のようにたくましいイメージとは違うと思います。あえてペトロを岩のイメージとつなげれば、むしろグラグラするり岩ではないでしょうか。次の聖書の箇所を読んでみましょう。

 「湖の上を歩く」(マタイ14,2831)、「イエスの姿が変わる」(マル8,30329,56)、「最後の晩さん」(マル13,89)、ペトロの離反(りはん)・ペトロ、イエスを知らないと言う(マル14,293114,6672)などなど、ペトロの人間的な動揺、迷いは何度も聖書に描かれています。むしろ新約聖書で出ている弟子たちのミスのほとんどがペトロが引き起こしたかのようです。

 しかし、もしペトロが慎重で賢い、完璧な人であったら、どうであったでしょうか。もしそうであったならば、教会は罪びとの共同体ではなく、律法学者やファリサイ派の教会、罪を犯した人を裁く息が詰まるほど重苦しいファリサイ派の人々の集いになってしまったでしょう。

 イエスは失敗だらけで、不足だらけの人間、さらに裏切りものであったペトロを「岩」として立たせ、彼を教会の礎として成らせました。ですのでキリスト教会はできた時から貧しく謙遜なのです。そして失敗した、挫折した人の励ましの場であり、そういった人日の教会になろうと追求すべきなのです。

 イエス様がシモン・ペトロを見つめていたという故事は、その人の心の奥まで見つめたということを意味しているのです。人は他人の短所を見やすいが、イエスはペトロの内的可能性・潜在する指導者としての可能性を見つめたのだと思います。同じようにイエスがわたしたち、一人ひとりを見つめる時、否定的、短所ばかり見るのではなく、ペトロのようにわたしたちの内面の奥にある可能性を見るです。だからわたしたちもイエス様に見習って、そのように他人や自分を見るように努力・練習する必要があります

 ペトロは、イエスを知らないと裏切りました。聖書によれば、鶏が泣く前、ペトロは三度、イエス様を裏切ったのです。シモン・ペトロは火にあたっていた。「お前もあの男の弟子のひとりではないのか」と言われると、ペトロは打ち消して、「違う」と言った(ヨハネ1825)その時に鶏が鳴いた。ヨハネ181525では下役にたちは、寒かったので、炭火をおこし、そこにたって火にあたっていた。ペトロもかれらと一緒にたって、火にあたっていた(ヨハネ1818)

 ぺトロが教会の柱として、イエス様のふところに戻ってきた一番大きな理由は、復活の体験、何度も許された許しの体験があります。家族に対して失敗する、しかし許されて、励まされて、信頼関係が芽生える、といったことです。そして、自分が見捨てられていない存在であることが分かったのです。そう、頭で「わかる」というよりも、体と心の全体で非常に強く感じられたのです。

火, 02/14/2017 - 20:40

日本語を勉強していた頃に、単語や文法が覚えられなくて、頭に円形脱毛症が出てしまうほど、苦労した時期がありました。けれども不思議に、「バカ」などの汚い言葉はすぐ覚えられたのです。また、聞き取りも点数が悪く悩んでいましたが、わたしにたいする悪口や陰口はすぐに聞き取ることができました。

兄弟に「バカ」とか「おろかなもの」という言葉を言わなかった人は一人もいないと思います。しかし、イエス様は今日の福音でその人に対して、「最高法院にひきわたされ」「火の地獄(じごく)に投げ込まれる」と言うのです。

さて、ブーメラン効果という言葉があります。空に投げたブーメランはくるっと曲がって自分のところに戻ってきます。自分が投げたスピードや力かげにあわせて、ブーメランはその速さと力で自分に戻ってくるのです。

今日のイエス様が教えられている戒めは、すべて他人に対する掟だけではなく、実はそれは自分の自我、エゴにも深い関係があるのではないかと思います。

相手に怒りをはき、怒っている人は、悪口をしている人は、自分にたいしてもそのように思っている人が多いと思います。

しかし、わたしが本当に聞きたい、言葉はなんでしょうか。相手に、愛する人に、家族から聞きたい言葉。

イエス様はその言葉を兄弟姉妹より、まず自分自身に話しなさいと、おっしゃっていると思います。今週から一日一回でも、自分が他人から聞きたい言葉を自分に話しましょう。

そうすると、自分の生活が、家族の関係が、共同体の関係が少しずつ変わってくることでしょう。

 

木, 01/19/2017 - 20:32

今日の福音で描かれた洗礼者ヨハネの姿をみますと、旧約聖書の預言者、サムエルが思い浮かびます。二人の共通点は、非常にれた目、すなわち霊的な分別力があったことです。

サムエル記上16章を開きますと、サムエルは神様から使命を受け、イスラエル王になる人を選ぶためにエッサイの家を訪れます。その時、サムエルはだれもが注目していなかった小柄で子だったダビデが、神様がお選びになった将来のイスラエル王であることに気づきました。

今日の福音で描かれているヨハネも、ヨルダン川で洗礼を受けていた大勢の人々の中からイエス・キリストを見つけたのです。

実は洗礼者ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と告白しています。ただし、次の箇所で「しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が『“霊”が降って、ある人に留まるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」と言われています(ヨハネ1,3032)

イエス様を知らなかった洗礼者ヨハネがなぜ大勢の人々の中で、普通の青年を見て、その人がイエス・キリストだと分かったのか?

それは洗礼者ヨハネは日常生活の中で神様のみ言葉に耳を傾けて、そのみ言葉を信じ、そして自分に与えられた使命を尽くしながら暮らしていた結果だと思います。

さて、降誕祭の時、示されたイエス様の名前は(インマヌエル、「神は我々とともにおられる」)(マタイ1,23)です。すなわち、イエス・キリストは今もわたしの心に、隣にいる兄弟の中に、また共同体ともにおられる方です。

今年はサムエルと洗礼者ヨハネのように、日常生活におられるイエス様を見分けることができる優れた目を願いたいです。そのためにはサムエルとヨハネのようにみ言葉に耳を傾けて、そのみ言葉を信じ、そして日常生活の中でわたしちに与えられた使命を尽くしていくことが求められているでしょう。

 

金, 11/04/2016 - 20:54

今日の福音はルカによるザアカイとイエス様の話です。

 

ルカという福音記者は医者として知られるほど、繊細な人で、聖書に登場する人の病状(症状)は勿論、心理描写にたけた人でした。

ルカが語るザアカイという人は徴税人の頭で、金持ちで、背が低い人でした。

しかし、ルカはザアカイが行った行動にも注目しました。

「イエスを見るために、走って先回りし、いちじくの木に登った」(ルカ19,4)

その理由は(背が低かっので)群衆られて見ることができなかった、とあります。

この箇所で、背が低いということは、自尊心が低く、自分を愛することが難しいという意味もあるでしょう。群衆にられた、ということは皆からいじめられたり、無視されていた人だということでしょう。

ザアカイのようにいくら金持ちであっても、孤独は耐えられないほどつらいものですが、彼が幸せになった瞬間をルカはこのように記しています。

「ザアカイ、急いで、降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19,5)

「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた(ルカ19,6)

 

彼はイエス様に出会って、イエス様の話を聞いた瞬間、誰かからまことに愛される・ゆるされることを実感し、喜びにあふれました。それで自分のように、寂しい思いを覚えている人、いじめらえられている人々と、自分がイエス様から受けた喜びを分かちあう人になったのです。ですから彼は「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と言ったのです。

 

今の時代にザアカイとは誰のことを意味するのでしょうか。寂しい思いをし、いじめられている人とは誰のことでしょうか。

 

もしかして、病床に寝たきりになっている私たちの両親かもしれませんし、夫や妻、あるいは自分の子供かもしれません。

 

その人に声をかけること、世話してあげることは、今日のイエス様がザアカイに声をかけて、ザアカイの家を訪れることではないでしょうか。なぜならばイエス様は、「二人・三人集まるところに私もいる」、とおっしゃっているのです。

 

最近、寝たきりの親の介護をめぐり、兄弟間でトラブルが多いと聞きます。しかし、親とは、生まれて一人で何もできなかったごろ、少なくても三年間は自分のために、乳を飲まし、おむつをとりかえて、面倒をみてくれた人間です。ですから、少なくても両親の人生の最後の三年はわたしたちが面倒みてるのは当たり前ではないかと思います。ザアカイってだれか。寂しくて困っている人に声をかけること、手を伸ばすこと、それがわたしを通して、イエス様の訪れが今ここで現れる神秘、神から与えられた愛の分かち合いのです。

 

 

 

土, 10/08/2016 - 22:31
マルコによる福音書3,14-15節には、イエス様が弟子たちを選んだ理由が書かれています。「彼らを自分の①そばに置くため、また、②派遣して宣教させ、③悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」と。   この個所から、イエス様の弟子とは何であるかを知ることができます。すなわち、イエス様から派遣されて宣教し、福音を伝え、また、イエス様のそばにもどる者です。実はマルコ福音書で訳された「(イエス様が彼らを)そばに置くため」という日本語聖書の翻訳は主語がイエス様になっていますが、本来の意味は主語が弟子たちで、すなわち、派遣された、離れていた弟子たちが自ら、イエス様のそばに戻り、そばにとどまるためという意味です。すなわち、弟子というものはイエス様に派遣され、離れて去っても、自分の意志で師匠であるイエス様のもとに立ち戻れるものです。 さて今日の福音の中で登場する10名の病者は、イエス様が自分たちをいやしてくださることを信じて、「遠くの方に立ち止まったまま」イエス様に頼みました。それを聞いたイエス様は「祭司たちのところに行って、体を見せなさい(派遣)」と命じられました。 彼らは体がまだ治ってなかったにもかかわらず、イエス様のお話しを信じて祭司に体を見せるため行ったのです(信じていた)。彼らが行く途中、変化が起きました。 自分の体に新しい肌が出てきてきれいになり、彼らは元気になったのです。 彼らは祭司に自分の体を見せ、健康であることを明確に宣言されてから、できるだけ早く、自分たちの家族や職場のところに戻りたい、普段の生活に戻りたがったので、全力で自分の家に帰ったと思われます。 その癒された10名の中でだった一人だけが、大声で神を賛美しながらイエス様のところに戻ってきて、イエス様の足元にひれ伏して感謝を現しました。 イエス様が彼に次のように言われました。 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 イエスに出会った、10名の病者は病を癒してもらいましたが イエス様のところに戻ってきた一人は、より大切なもの、つまり、救いを頂きました。 体がきれいになった9人は、直ちに、自分の家族や仕事、また自分の生活を求めましたが その内一人は救い主であり、永遠の命であるイエス・キリストを尋ねてきたのです。 今日の福音の核心はここにあります。 罪(あるいは病)はいつも、私たちをおん父から断ち切ろうとしています。 その時、今日の10人の病者のようにわたしたちがイエス様に助けを求めると、イエス様は必ず私たちをいつくしんでくださる方です。しかし、それからがより重要なのです。 イエス様は病気であれ、元気であれ、わたしたちとより深い関係を結ぶ、ご自分のそばにとどまることを望んでおられるからです。その意味で、今日の福音でイエス様に戻ってきたサマリア人は私たちに真の弟子の姿(生き方)を見せてくれました。 このごミサはイエス様を囲み、イエス様のそばで、神を賛美する神の民の集いです。 どんな罪の中でも私たちがイエス様のそばに戻ってくることは神様の恵みであり、イエスさまがわたしたちを呼ばれた理由です。 「この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか」(マルコ17,18) 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マルコ17,19)
月, 09/26/2016 - 22:07

年間第二六主日
末吉町教会 協力司祭 張 ウォンヨン

保土ヶ谷教会の主任神父、イ・ビョンホン神父が教区の国際ミサとフェスタの委員長として出張中のため、今週はわたくしがミサを司式いたします。


今日は陰におられる神様について話したいと思います。
神様はわたしたちの目には見えないかもしれませんが、ご自分が造られた万物の中におられる神様です。
だから、山や海、そして自然などを通して、また、音楽のような芸術を通してわたしたちは神を感じることができます。
しかし、神様は特に4つの陰の中でいらっしゃいます。1つ目はご聖体の陰におられる神です。ご聖体については、皆さんがご存知なので、他の説明が要らないと思われます。
二つ目は聖書です。聖書は神の行跡と、み言葉を含んでいます。だから、聖書を読むことは聖書の陰におられる神に出会うための旅ではないでしょうか。
しかし、聖書は解釈が必要な旅です。自分の勝手に解釈しないでください。このような話があります。毎朝、聖書を一度広げて、まず最初に目に入ってくる聖句をその日の占いとする人がいました。
ある日、聖書を開いて見ると、「ユダは首を絞めて死んだ」という個所が目に入ってしまいました。聖書の教えによると、この人はどうすれば良いでしょうか。
彼は迷いながら、もう一度、聖書を広げて、その日の運を見ようとしました。
再び広げて見ると「お前も行ってそうしなさい」という聖句が出ました。悩みに陥ったこの人は三回目聖書を広げて、その日の本当の運に決定しようと思いました。

第三番目の聖書の個所は「お前がしたいことをすぐに実践しなさい」という聖句が出ました。
この人のように、聖書を自分の主観的解釈することは危険性があるのです。

三つ目は兄弟です。兄弟たちの陰に神様はおられます。ここで兄弟というのは、一つの 信仰の中にある兄弟を指します。
したがって、民族と肌の色、理念を越えて人間の生命の源は神であるという事実を認識していることから、兄弟の中におられる神を発見することができます。
今日の国際ミサも信仰の中に同じ兄弟であることを確認するイベントになるように共に祈りましょう。

最後に、神様は貧しい人々の陰におられます。
今日の福音に出てくる金持ちは、この世の目で見れば、悪い人ではありませんでした。
すなわち、他人に被害を与えることもなく、自分のお金で楽しい人生を過ごしてきたただ一人の人間でした。
しかしながら、神の目から見ると、彼はラザロと共におられる神を見ることができない人でした。その兄弟の陰におられる神様を見つけることができなくて、彼は死んだ後に苦しみを受けたかもしれません。

今日の福音では、この金持ちは、アブラハムに、自分が受けている苦しみについて世の中に残っている兄弟たちにラザロを送って知らせることをお願いしています。
この金持ちの切実な頼(たの)みは、世の中に残っている自分の兄弟たちだけではなく、多分、信仰の中に、同じ兄弟である私たちに向けて頼むのではないでしょうか。

水, 09/07/2016 - 22:43

司祭であると様々な年齢層の様々な方々と話す機会がありますが、わたしにとって話の相手となるのに一番苦手な人がいます。
それはわたしの両親です。
なぜかというと、親にはつい言いたい放題、やりたい放題、そして感情のコントロールが難しくなってしまいます。話しをするうちに互いに傷ついて会話がなくなる、昔の子供に戻ってしまうようなことになりかねないのです。
今年の夏休みで帰国した際、長く付き合っていた仲良い先輩神父さんから、「あなたさ、あなたはまだまだ、両親を自分の親だと思われているのか。今からは、自分の親ではなく、他人のご両親だと思い、付き合ってあげなさい。そうじゃないと、絶対後悔する日がくるから」と言われて、鞭で打たれたような気持になりました。

両親とわたしとの、(精神的な)関係を切ること、距離を置くこと。つまり、いつまでもあなたの子供ではなく、(精神的に・肉体的に)独立すること。それぞれの人格を持つ人間として付き合うことが人間の成長と繋がっていると思います。さらに、これは親の関係だけではなく、家族の関係、夫婦の関係、友人の関係、すべての人間関係に当てはまるのではないでしょうか。

今日の福音でイエス様が「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹をさらに自分の命あろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14,26)。同じように、自分の持ち物を一切、捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない(ルカ14,33)と言われたのです。
「捨てる」「憎む」ことは何でしょうか。


わたくしは、これは精神的に肉体的に相手から独立すること、なおかつ、それは相手に期待するのをやめる、ことではないかと思っています。親に、夫に、妻に、子供に期待(依存)するのではなく、相手を相手としてそのまま認めることだと思います。相手をまことに愛するために、お互いに距離をおくこと。それは決して、無関心ではなく、見守ってあげながら、むしろ相手と深い関係を持つことでしょう。
皆さん、何かを捨てることは、最終的・究極的に何かを手に入れるためです。今日の福音のイエス様は「塔を建てようとすると、まず、腰をすえて計算しないものがいるだろうか」また、「王と戦いに行こうとする時に、勝つかどうかまず、腰をすえて考えてみないだろうか」と言われました(ルカ14,28)。
何かを実行する前に、まずそれができるかどうか、成し遂げられるかどうか「まず腰をすえて(2回も)」考えてみるはずです。ここで「腰をすえる」という言葉は何を指しているのでしょうか。
信仰を持つものから考えてみれば、それは「お祈り」「相手話を聞く」という意味だと思います。祈りをすることによって、相手(エゴ)を客観的にみることができます。自分の息子だからではなく、一人の人間として、相手に必要なものが何かなど。
真に神様を愛するためにはまず(腰をすえて)、神様の声に耳を傾けます。そして話し合う。
同じように、自分を真に愛するためにはまず(腰をすえて)自分の心に向き合います(自分の声に耳を傾けます)。
妻、夫そして子供を真に愛するためにはまず(腰をすえて)妻、夫、子供の声に耳を傾けます。
共同体、兄弟・姉妹を真に愛するためには「まず腰をすえて」相手の話を聞くことから愛は始まります。

火, 08/30/2016 - 21:52

箴言25章6-7節では「王の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな。高貴な人の前で下座に落とされるよりも上座に着くように言われる方がよい」と書かれています。
この箴言のみ言葉についてユダヤ教のラビ(先生)はこのように解説しています。“食事あるいは集い、会議に出る場合、自分に相応く思わる席よりも、常に三つの下の席に座りなさい”という。

ただし、良く考えて見るとこのようなすべてのものは「謙遜」というものではなく、ただ政治的、上下関係、人と人の関係づくりのテクニック、あるいは知恵に関するものだと思います。

今日の福音で、イエス様が‘上席にすわるな’と言われたことは、わたしたちに人間関係づくりやマナーなどを教えるためではありません。

み言葉を通してイエス様がわたしたちに教えようとしていることは「食事会(婚宴)」とは神様の無償の宴であること。また、その宴にわたしたち一人一人皆が招かれていることです。
ですからわたしたち皆は、「命」という一番大きな神様のプレゼントを頂いて、毎日、この世の宴に参加しているものです。

特に今日のたとえは、パーティー(宴)を催した主人(神様)がどのようなおもい(考えて)でわたしたちを招いているかがうかがわれます。

「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の自由な人、目の見えない人招きなさい」(ルカ14、13)

天のおん父は、お返しができない人々、すなわち飢えた人、渇いている人、悲しんで、今泣いている人、その一人一人を訪れて、彼らをご自分の傍に呼び集めておられます。

毎日、神の無償の宴に招かれている者ですが、わたしたちがおん父が望んでおられる道に進み、歩んでいるかどうかを見分ける基準があります。それは日々の生活の中で、お返しができない人々、つまり(心)貧しい人(病んでいる人)、体の不自由な人(淋しい思いをしている人)、足の不自由な人(孤独な人)、目の見えない人(悩んでいる人)、そのような人々と共に過ごしているのか。また、その人々に手を伸ばして仲間に入れようよしているかどうかです。

皆さんは現在、どのような道を歩んでいるのですか。

「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。
正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(ルカ14,14)

金, 08/12/2016 - 07:23

「起きて半畳(はんじょう)、寝て一畳(いちじょう)」というむかしの言葉があります。 人が生きるのに必要なスペース、また食欲を満たす量は限られているということです。

トルストイの話の中で「人にはどれほどの土地がいるか」という物語があります。 この話の背景はロシアの農民で、主人公のパホームは小作農民でしたが、他の商人などより安定した生活をしていることに満足していました。 しかし、パホームは「ただひとつ弱るのは、地面の足りないことだ!」 その彼にチャンスが訪れます。 あるきっかけで、王様(悪魔)から「1日歩いただけの土地を与えよう。但し、日没までに、ここに戻ってこないといけないが。」という提案が与えられます。 彼は遠くまで歩いて行くのですが、日没に間に合うように必死で戻ったせいか、帰るなり、血を吐いて死んでしまいます。 下男(僕)は、穴を掘って彼を埋葬します。その穴の大きさの土地だけが、彼に必要な土地のすべてだったということです。彼に最後に残された(必要な)土地は、彼の身長分のお墓だけだったのです。

勿論、自分の夢のために、自分の力を尽くして果たすことは素晴らしいことです。けれども、その日々の中で変らない忘れてはいけない、大切なものがあると思います。

今日の福音の中で、イエス様は「小さいものよ」という言葉でわたしたちを呼ばれています。→ このイエス様の呼びかけはまるで親が自分の子供を心配しながら、何度も何度も大切なことを教えるために話しかけているように聞こえます。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マルコ8:36-37)

今週は特に日本カトリック教会では世界の平和旬間です。 最近、平和とか、愛、そして信仰ということを話しますとバカのような扱いをされる場合もありますが(時代遅れ)、人間の真の命のために、幸せのために、平和のために、欠かせないものです。

「勝ち組」「負け組」のような言葉があるのが悲しいですが、このような世の中だからこそ、和わたしちはイエス様が言われた価値を大切し、この世に広げる使命を託されているのではないでしょうか。

日, 07/24/2016 - 14:03

ジャン神父(末吉町教会より)御説教

お久しぶりです。

保土ヶ谷教会は来日して最初に暮らしたところでもあり、私にとってまるで里帰りしたような気持になるところです。

さて皆さま、孔子の有名な教え「十五にして学を志す」で始まる教えをご存じの方も多いと思います。 『子いわく、我十五にして学に志す。 三十にして立つ 四十にして惑わず 五十にして天命を知る 六十にして耳したがう 七十にして心の欲するところに従いて 矩(のり)をこえず』(論語為政二)

この教えの裏を返せば、実際に人間というものは孔子が言われた通りになることはなかなか難しいということです。ですからある年に至ると、孔子が言われたような人間になれるように努めなさい、という意味ではないでしょうか。

つまり、30歳にして自立することはなかなか難しく、40歳になると誘惑に陥りやすく、50歳になるとみ旨に従うよりは自分の意志やこだわりが強くなってしまう、ということです。さらに60歳になると気にくわない人の話を聞かなくなり、70歳になると欲望が多くなり自己中心的になりがちになってしまう、ということまで言っているのです。ですから、そうならないように、その年齢にふさわしい目標を示してくださっているのでは、と思います。

さて、今日の福音は「主の祈り」です。「主の祈り」も私たちが主のみ言葉通りに生きることが難しくても、イエス様が私たちが目指すべき、生き方を提示しているのです。

「主の祈り」は私たちがよく知っている内容ですが、お祈りをただ唱えるだけでなく、その教えに対して、果たして自分がどのような生き方をしているか、お考えいただければと思います。

*ゴンソラタ宣教会の黙想集に紹介された「主の祈り」について自省の祈り*

・「天におられる」と言ってはいけません ~ 世間のことばかり考えているのですから。

・「わたしたち」と言ってはいけません ~ 自分のことだけを思っているのですから。

・「父」と言ってはいけません ~ 息子、娘として暮らしていないのですから。

・「み名が聖とされますように」と言ってはいけません ~ 自分の名誉のためだけにに尽力しているのですから。

・「み国が来ますように」と言ってはいけません ~ 物質万能を望んでいるのですから。

・「みこころが天に行われる通り、地にも行われるように」と言ってはいけません ~ 自分の思い通りになることを祈っているのですから。

・「日ごとの糧を今日お与えください」と言ってはいけません ~貧しい人に知らん顔をしているのですから。

・「わたしたちの罪をお許しください。わたしたちも人を許します」と言ってはいけません ~ 誰かにまだ恨みを抱いているのですから。

・「誘惑に陥らせず」と言ってはいけません ~ いつも罪を犯すチャンスを探し回っているのですから。

・「悪からお救いください」と言ってはいけません ~ 悪を見ても良心の声を聞かないのですから。

・「アーメン」と言ってはいけません ~ 主の祈りを真の自分の祈りとして捧げていないのですから。

月, 07/18/2016 - 08:04

梅村司教御説教(要旨)

みなさん、保土ヶ谷教会に来るのは3年ぶりで、懐かしい皆さまにお会いできてとても嬉しく思います。

さて、今日の福音(ルカ10・38-42)は有名なベタニアのマルタとマリアのお話しです。 マルタとマリアはイエス様が客として招かれた家の姉妹でありましたが、イエスに対して対照的な行動をとります。 マルタは、当時の一般の常識に基づき、イエスをもてなすために裏方で精一杯働きました。 一方マリアは、イエス様のそばで説話に聞き入って働こうとはしませんでした。 ついにマルタはイエス様に、マリアが自分を手伝うよう命じてください、と言うようになります。

このお話について二つのことがあります。 まず、2千年前のユダヤ社会は徹底した男尊女卑で、女性はシナゴーグ(ユダヤの礼拝所)の中に入ることも許されず、男女が共に祈ることはありませんでした。 こうした中、イエスは女性にも男性と同じように接していました。イエスに従う人たちの中には、炊事などの奉仕を行う女性がいました。イエスが十字架上で死に、弟子たちがちりじりに逃げたあと、最後に残ったのはこのような女性達だったのです。そしてこの女性たちがイエスの復活を最初に知ることとなったのです。このようにイエスは、神とのかかわり方は男女に違いはなく、教会における女性の役割を重く見ていたと思われます。 さて今日、どの小教区を見ても、女性の活躍によって教会運営がなりたっているといえる状況で、この状況を見てイエス様はさぞ喜んでいらっしゃると思います。

このようなイエス様ですので、マリアが他の男性列席者に交じって熱心にご自分の話に聞き入ることは、裏で食事の準備をしてくれることよりも、はるかに嬉しいことだったことでしょう。しかしマルタはこれを理解できず、また自分の努力を認めてもらいたい一心で、イエス様に「直訴」してしまうのです。マルタは頑張り屋さんでしたが、「あなたの話を聞くよりも、私の仕事を手伝うほうが重要」とイエス様に言っていることに気づかないほど、自己中心的だったのです。 しかし、そんなマルタをイエス様は一方的に断罪することはなく、実にやさしく諭します。「マルタ、マルタ。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と。 聖書の中、イエス様が人の名前を二度呼びかけることは滅多にありません。他には二例だけで、それは「ヨハネの子、シモン、わたしを愛しているか」(ヨハネ21:15)と「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」(使徒9:4)だけです。前者は、その後自分を「知らない」と裏切る第一の弟子ペトロに対する呼びかけ、後者は自分を殺害に来る正義漢パウロに対する呼びかけです。どちらも自分に対して大層ひどいことをする者に対し、イエス様は人間の弱さをわかったうえで、やさしく、愛情深くさとしてくださるのです。

わたくしが神学生時代であったときのことです。時々遅刻をしていたある神学生が、「ごミサへの出席は義務ですか?」と指導の神父様に質問しました。わたくしはどうなることかとハラハラしましたが、神父様は怒ることなく、優しく「それでは、あなたは神父になりたいと言う。それは義務ですか?」と尋ねました。その神学生はすべてを悟ったようでした。わたくしはそのとき、「ああ、このような教えだったら、ついていける」と思ったのです。

木, 06/30/2016 - 21:33
キリスト教と言われる宗教の一番大きな特徴は「啓示」です。 すなわち、神、ご自分がこの世に姿を現れ、あらゆる形を通してご自身を示し、真の真理を教えてくださったのです。 啓示のもう一つの特徴は、イエス様が「わたしに従いなさい」と言われた呼びかけです。イエス様の「わたしに従いなさい」という言葉はキリスト教の本質です。他のどの宗教の創始者も「わたしに従いなさい」とは言っていません。 すなわち、わたしたちがどいう経緯であれ、キリスト者になっていることは、信仰を持つ立場から考えてみますと、この道は自分自身が選んだ道ではなく、神から選ばれた者であるのです。 神から呼ばれたこと、これは本当に大きな恵みです。同時に、それに対するわたしたちの使命(召命)があります。 無論、この召命はわたしたちだけではなく、イエス様にもありました。特に、今日の福音ではイエス様がどのような姿勢を持って、ご自分の使命を果たしてこられたか、また、他の3人への呼びかけが紹介されています。 「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、 エルサレム(イエス様の死ぬ場所)に向かう決意を固められた。」(ルカ9,51) 「村人はイエスを歓迎しなかった。」(ルカ9,53) まず、「決意を固められた」「歓迎しなかった」という言葉から、イエス様の生涯は、毎日が(死ぬ目前まで)決して、平らではなかったことが分かります。従って、イエス様の弟子として呼ばれたわたしたちにとっても、この世をイエス様の弟子として生活するのは簡単ではなくこの世の嵐からぶれないためにはイエス様のように毎日、決意を固めなければいられないことが分かります。 このようなわたのためにイエス様は今日の福音で、わたしのポジションを教えてくださいました。それは「わたしに従いなさい」という。ギリシャの言葉で「従いなさい」というのは私の後ろについて来なさいという意味です。この言葉から弟子であるわたしの過ごし方が分かります。  キリスト者はイエス様の後ろについていく者として呼ばれて、この意味はイエス様とともにしながらイエス様を見て、お話を聞いて、その行いを学びながら→イエス様との人格的な関わり、ふれあいを持ちながらご自分の後ろについて来なさいという意味です。 なぜながら、イエス様は神でありながらも、人格を持つ、真の人間だからです。ですからわたしたちがイエス様とのかかわりを持ってば持つほど、わたしたちの信仰は成長していくのです。   イエス・キリストこそ、真理であり、道であり、命であるからです(ヨハネ14,6)。 神から選ばれて、イエス様の弟子として過ごしている皆さん、 不安で、何かの心配で心が落ち着かなくていらいらとする場合があるでしょう。その時こそ神様がわたしをご自分との関りを持つように呼んでいるのです。忙しすぎる日常生活の中で、「わたしに従いなさい」と言われたイエス様のみ言葉を悟り、心を静かにして、イエス様のみ言葉を耳を傾けて、イエス様の呼びかけに答えるのはいかがでしょうか。   神は求める人には必ず応じてくださる方です。
月, 06/13/2016 - 22:24

今日、ルカによる福音書7章36節-50節(罪深い女を赦す)に登場している「罪深い女」とはだれでしょう。町の人々から当然のように「罪深い女」と見られたので、娼婦のような女性と考えられています。
その罪深い女が持ってきてイエス様の足をぬらし、髪の毛でぬぐった(ルカ7,44)‘香油’というものはお葬式や亡くなった人を塗り洗う時、そして王様などが尊敬を示す時に使われたものです。さらに、香りが良いので、女が男を誘惑する時にも使われていました。すなわち、「罪深い女」として、彼女が、仕事するのに欠かせないものでした。
ヨハネによる福音12章で香油でマリアがイエスの足を洗った時、イスカリオテのユダが「なぜ、この香油を3百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言う場面があります。一デナリオンが労働者の一日の給料とすると、300デナリオンというものは彼女がおよそ300日間働いて、もらう金額です。つまり彼女の一年間の給料でした。その香油が入った石膏のつぼを破り、イエス様の足を洗ったというのは、彼女が言葉では言えなかったのですが、その行為を通して、今までの人生と違ってこれからはあなたの弟子になりますという悔い改めのしるしだったのです。

さて、ユダヤの言葉の中では「感謝する」とか「ありがとう」という言葉がありません。そのかわりに「祝福します。祝福がありますように。」という言葉を使います。
今日の聖書の中ではイエス様は「金貸し」のたとえを通して、神様に感謝することは「愛する」ことであることを教えました。
「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか(感謝するだろうか)」(ルカ7,42)。
また、イエス様は「罪深い女」の行為に対して、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛(感謝)の大きさで分かる。…あなたの罪は赦された」(ルカ7,47-48)と言われました。

今日の福音において、『愛』『感謝』『赦する』という言葉が同じ意味で使われていることに着目しましょう。ミサというもは主の食卓を囲む食事会(宴)です。さらに、より深い恵みが含まれています。
その大きなメッセージは「ゆるし」であります。わたしたちを許してくださるおん父、その方から招かれて、わたしたちが今主の食卓を囲み、キリストのおんからだをおん血を頂くのです。
その「ゆるし」は人間ではなく神から来るものです。

主の食卓に招かれている皆さん、神からゆるし(恵み)を受けた答えとして、わたしたちも兄弟・姉妹を許すことが神からゆるされたわたしが神様に感謝する、神様を愛することだとイエス様が言われているのではないでしょうか。自分の中で決して許せない人がいれば、まず、祈りの中で相手のために、また自分がその人を許せる人になりますように、やってみるのはいかがでしょうか。

木, 03/03/2016 - 19:41

「わたしである」(ヨハネ18,5)

 イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた(ヨハネ18,4-6)。

 イエス様を逮捕するために来た兵士たちの前でイエス様は堂々(どうどう)と「わたしである」と答えました。出エジプト記3,14で神様はモーセにご自分のみ名を「わたしはある。わたしはあるといいうもの」と示されました。ギリシャ語では「EGO EIMI HO ON」といいます。 ところで、新約聖書(特にヨハネによる福音書)でも神様がモーセにご自分を示したように、イエス様もご自分を「EGO EIMI」という言葉で表現したところが七つもあります。「わたは命のパンである」(ヨハネ6,35)、「わたしは世の光である」(ヨハネ8,12)、「わたしは羊の門である」(ヨハネ10,7)、「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10,11)、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14,6)、「わたしはぶうどの木である」(マルコ15,1)などです。このような表現はイエス・キリストは神と同じ方であることを表わすものです。当時、ギリシャ語で書かれた旧約聖書を読んでいた人々はイエス様の「EGO EIMI」という言葉を耳にした時に、イエス様が神であるという印象を強く受けられたと思います。

  現在、福音を朗読する時にわたしたちも、このような背景を十分留意しながら、福音を読む必要があります。特にイエス様が兵士たちや下役の前で「わたしである」、すなわち「EGO EIMI」と言われた時に、彼らは後(あと)ずさりして、地に倒れてしまいました。彼らは「松明(たいまつ)やともしびや武器」(ヨハネ18,3)を手にしていたにもかかわらず、イエス様の言葉に驚かされ、倒れてしまったのです。 すなわち、イエス様がご自分の姿を人々に表わすと、神様の前で微弱な存在である人間は大きな恐れを感じられるでしょう。 ところが、弟子たちが船に乗り、湖を渡ろうとした時に、イエス様が湖の上を歩いて来られた場面があります。その時に強い風が吹いて、弟子たちは恐れていました。その瞬間、イエス様が現れ「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ6,20)というご自分を示すと、彼らの恐れは消えました。イエス様を逮捕しに来た兵士たちは正反対の反応を見せたのです。つまり、イエス様を裏切るため、神様を忘れ、背を向ける人々には、「わたしだ」というイエス様のみ言葉が恐れで、恐怖ですが、神様を信じて、イエス様に従う人々にとっては「わたしだ」というみ言葉は人間が恐れに打ち勝つ慰めのみ言葉であります。まるで泣いている赤ちゃんに、「ママが来たよ」という言葉は慰めですが、大きな過ちを犯した子供にとってはその言葉は恐怖であるように。 わたしはどちらの方ですか。今、わたしの目の前にイエス様が現れて、「わたしだ」と言われると、そのみ言葉が「慰めの言葉」になるのか、それとも「恐怖」であるのか、考えてみましょう。

月, 02/15/2016 - 01:38
 今から、およそ2000年前、イエス様の時代、自称メシアだと名乗る人が結構いました。 自分がメシアであることを証明するためには、普通の人間と違う独特な能力を持つ人間であること(空を飛ぶこと)を証明する必要があったようで、実際に神殿の屋根から飛び降り、地に落ちて死んでしまった人が結構いたようです。   今日の福音は、イエス様が40日間荒れ野で悪魔から誘惑を受ける場面でした。 イエス様が受けた三つの誘惑は、 「パン」いわゆる→経済の誘惑 「権力」と「繁栄」いわゆる→政治的な誘惑 「神の助け」いわゆる→宗教的な誘惑でした。  この三つの点はイエス様がメシアとして、大変迷っていた、すなわち、イエス様は私たちを救うために人間の経済的な面の開放、政治的(ポリティカル)な面の開放、最後には宗教的な面の開放をしなければならなかったと考えられます。  しかし、イエス様はその人間的なやり方、悪魔の誘惑をすべて拒否しました。いえ、拒否したというよりは、それらから自由になるまで40日間荒れ野で祈ったのです。 イエスさまですら、自分の力ではなく、ご自分のやり方ではなく、み旨にしたがうために、40日間必死に荒れ野で祈ったのです。  そして、イエス様が選んだ道は、この世が待ち望んでいた経済的なメシアではなく、政治的なメシアでもなく、宗教的なメシアでもなく御父のみ旨にしたがい、わたしたちと変らない同じ人間として、自分の十字架の道(仕えられるものではなく、仕えるものとして)を歩んだのです。 そして、わたしたちより先頭に先立って十字架の道を歩み、復活の道へに導かれているのです。  そのイエス様を私たちはまことのメシアとして告白しています。  わたしたちもこの世で生きていくためには経済的な面をはじめ、様々なものが必要です。  しかし、神様との根本的な関係、わたしは神の子であり、わたしは神から守られている。という信頼、それを本当に信じているかどうか。わたしたちもこの四旬節40日間慎重に自分と向き合って考えてみましょう。 そして、40日の四旬節を終ったときには復活したイエス様とともに、まことの喜びを味わうことができますように。
月, 02/08/2016 - 01:29
神様はどうやってご自分の民、すなわち私たちを成長させるか(招かれるか)、その方法について、今日の第一、二朗読と福音を通して示されています。  今日の福音の中身を見てみますと、イエス様はシモン・ペトロに網が破れそうなほどたくさんの魚を取らせて、ペトロをはじめ、そこにともにいた仲間たちを驚かせました。ペトロにとっては驚きよりも自分の我を忘れるほど大きな衝撃、すなわち、自分の人生を丸ごとに変えてしまうほどの出来事だったでしょう。目の前に立っている人がメシアであることを分かる瞬間、それは神様と出会う場面だったと思います。  イエス様がシモンペトロに彼の持ち舟を使ってもいいかと聞いたところ、シモンは特に反対しませんでした。それで、イエス様がシモンの船に乗り、群衆を教えたので、ペトロは網を洗いながらずっとイエス様のお話しを聞いていたはずです。けれどもイエス様のお話しが終った後もシモンは特別な反応を見せてはいなかったのです。 そこで、イエス様はシモン・ペトロに衝撃的な一針を刺します。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5,4)。そのイエス様の命令に対するペトロは、「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」(ルカ5、5)と答えます。 しかし、シモンは網を降ろしました。結果、おびただしい魚がかかり、仲間に合図して、手を貸してもらわなければならないほど魚がとれたのです。  その直後、シモンは「主よ、わたしから離れてください。」と言いました。「わたしを手放してください。神であるあなたがわたしの船に乗るとはどいうことでしょう。これでわたしの人生も終わりだ」と思ったのでしょう。 しかし、イエス様は「恐れることはない」と言い返します。するとシモンの名前はペトロになり、イエス様のところに留まり、そして、すべてを捨ててイエス様に従い、旅立ちました。  この美しい話はペトロだけの話でしょうか。いいえ、違います。わたしたちの話でもあります。なぜなら、御父はご自分をわたしたちに現してくださる(示してくださる)方だからです。今日の第一朗読でイザヤも第2朗読でパウロもそれぞれの形で神様に出会った人物でした。 このような神様との出会いは、ペトロやパウロだけではなく、大勢の人々が神様との人格的な出会いを持ち、その出会いを通して、彼らの人生が根本から変っていくのです。  このような神様との出会いはこれから起こるかもしれないし、過去にあったかもしれません。でなければ、今、起きている進行中でしょう。 どのタイミングで、どこで神様に会うことができるでしょうか。  ペトロの夜通し苦労しましたという言葉を現代のわたしたちにあてはめてみると、人生の苦労や悲しみ、骨身にしみる寂しさや孤独、妻(家族)が癌にかかって闘病生活をした時、家族の問題など、神様に祈りたくなった時、その瞬間神様との出会いが成し遂げられたのです。  イエス様はわたしたちの家族です。ですからわたしたちの食卓の見えない家族として、常にわたしの苦労や悩みを聞いておられる方であります。 そのイエス様が今日のごミサの中で、あるいは一日の生活の中で、わたしにどのような話をしてくださるのか、またどのような形でご自分の姿を現してくださるのかを思いながら一週間を過ごすのはいかかでしょうか。
日, 02/07/2016 - 18:44
 今日の第1朗読から第2朗読そして福音を通して、教会は神様のはからいによって、この世に来られる救い主、メシアについて教えています。  神の約束によって、わたしたちを救うために来るべき方、救い主がイエス・キリストであることを、今日のマルコ福音記者はあらゆる場面で強調して示しています。  もう一つ、イエス様をメシアとして従っている使徒(弟子たち)の姿、すなわち、イエス様の弟子として、わたしたちはどのような生活を送るべきかについても考えさせられます。  まず、今日の第一朗読のエレミヤ預言書で気になる言葉があります。散らす⇔集めるという動詞です。  「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、…(よい牧者)このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。」(エレミヤ23、2-4)  イエス様は3年間の福音宣教活動を通して、弟子たちとともに生活をしながら彼らを育てることと同時に、弟子たちを派遣する(散らす)⇔(イエス様のそばに)集めことを繰り返しました。 しかし今日の福音書は、派遣された使徒(弟子)たちはイエスから呼び集められただけではなく、一歩進み、弟子たち自らがイエス様のところに(もとの牧場に)に集まってきたと伝えています。そして、「自分たちが行なったことを残らず報告しました(マルコ6,30)」のです。  今日の福音で見られるイエス様の姿は散らされた民を呼び集める、エレミヤ預言書に出ている救い主を思い出させるものですが、さらに、福音をよく読んでみると、群衆がイエス様に駆けつけている、追いかけている様子が描かれています。 救い主であるイエス様は失われた、散らされた羊を集めることだけではなく、それを超えて群衆が弟子たちが自らイエス様のところに集まってくるように育てていました。つまり、ご自分のそばにわたしたちが自ら寄っていくことを望んでいたし、それを弟子に教育していたということです。  真の弟子というものはイエス様から派遣され、イエス様のところに集まってきて、報告する、そして人里離れたところで休む(祈り、黙想)ことです(マルコ6、30-34)。 そしてわたしたちはまた派遣されます。これらのことは毎日・毎主日行なっています。  ミサが終わりますと司祭の「感謝の祭儀が終ります。行きましょう。主の平和のうちに。」ということばでわたしたちはこの世に、家族のところに、職場にイエス様の弟子として派遣されていくのです。また、そこでイエス様の弟子として過ぎし(働き)、そこからイエス様のところに(教会に)集まってきて、イエス様に報告します。そして人里はなれたところ(教会)でイエス様とともに休んで(祈り、黙想する)また派遣されて行きます。  今日もわたしたちは救い主であるイエスさまがら力と勇気を頂き、またそれぞれのところに派遣されていきます。わたしたちが今日、いただいた主の平和・喜び・救いを周りの人々にあかしすることができますように。また、わたしに呼びかけてくださっているイエス様の声に耳を傾け、自らイエス様のところに寄っていく、真の弟子になりますように。 .
日, 02/07/2016 - 19:05
 モーセの十戒第四の掟は「あなたの父母を敬え」(出エジプト20-12)であり、また「父と母とを敬いなさい」(レビ記19-3)とも戒められています。聖書では、「隣人を自分のように愛しなさい」「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とあるように、「愛しなさい」という言葉がよく使われています。しかしモーセの十戒では「あなたの父母を愛しなさい」ではなく「父母を敬え」と戒められているのは、何かわけがあるのでしょうか。 それは「父母を愛すること」は「隣人を自分のように愛しなさい」という掟の中に既に含まれているからです。父母はある意味では隣人であるのです。家族、特に自分の親は誰よりも親しい、身近な存在ですが、人間というものは自分の父母とは疎遠になる時があるものです。すなわち、自分の親なのに隣人よりも遠ざかって関係が薄くなる場合があります。財産・存続問題で喧嘩となり、連絡も行き来もしなくなってしまったり、あるいは心身の老いから疎遠になってしまったりなどさまざまです。それに対して、聖書は「父と母とを敬いなさい」と「尊敬する」ことを命じていますが、これは両親に対して無関心になったり目をそらしがちな私たちに対する指針となっています。 聖書は父母を敬うことは私たちの義務としています。聖書はその掟にともなう報いについてはほとんど沈黙していますが、珍しくこの父母を敬うことについての報いについては書いているのです。 「父を尊べば、お前の罪は償われ、同じく母を敬えば、富を蓄える。父を尊べば、いつの日か、子供たちがお前を幸せにしてくれる。主は必ず祈りを聞き入れてくださる。」(シラ書3-3~5) 私たちは皆、誰かの子供です。今週は先の聖書の言葉を心に刻み、父母に対して「愛しなさい」ではなく「敬え」と命じられている聖書の御心を改めて受け入れ、父母を敬うことができますように。
日, 02/07/2016 - 19:13
 最近ニュースやマスコミでは、難民問題が頻繁に報道されています。 命を懸けて、シリアからヨーロッパの各地に向かう行列を見るとなぜ、そのように多くの人が自分の家を捨てて国境を脱出しようとするのか疑問が浮かびます。  難民という言葉を調べると、「戦争、民族紛争、人種差別、宗教的迫害、思想的弾圧、政治的迫害、経済的困窮、自然災害、飢餓、伝染病などの理由によって居住区域(自国)を逃れた、あるいは強制的に追われた人々を指す。その多くは自身の生命を守るため、国外に脱し、他国の庇護と援助を求める。現在の国際法では、狭義の「政治難民(PoliticalRefugee)」を一般に難民と呼び、弾圧や迫害を受けて難民化した者に対する救済・支援が国際社会に義務付けられている」とあります。その理由は自分の命、家族の命を守るためなのです。  昔のイスラエルの民とモーセ、そしてマリア様を始め、ヨセフそしてイエス様も移住民(難民)でした。イスラエルの民はエジプトを脱出して、荒れ野を通して神様が約束してくださった土地に長い旅をしました。また、マリア様とヨセフはヘロデ王からイエス・キリストを守るためにエジプトに避難しなければなりませんでした。  聖家族を始め、イスラエル民は難民(移住民)の苦労そして、自分の命や家族の命が脅かされる、守られない不安をよく知っていたのです。  そして、イエス様は今日の福音を通して次のように言われました。 「わたしたちに逆らわないものは、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ず報いを受ける」(マルコ9)。わたしたちを「友」と呼ぶと言われたイエスさま、また、わたしたちは神の国の民として、皆が兄弟であり、平等です。また、わたしたち一人一人はイエス様がご自分の命をかけて守ろうとした大切な存在です。その一人一人に 「一杯の水を飲ませてくれる者は、必ず報いを受ける」ということになるでしょう。  聖フランシスコが弟子たちとともに山の奥で修道生活を送っていた時の話です。 ある日、一人の弟子だけが修道院の留守番をして、皆が外で働きに出かけた時に、悪名が高い山賊が修道院に押しかけてしまいました。彼らが修道院に来たのは聞くまでもなく、盗みを働くためでした。修道院に一人で残っていた弟子は怖かったのですが、心の中で祈りながら勇気を出して、山賊たちに「外の人たちは真面目に汗して働いているのに、あなたたちは人の者を盗んで食べようとするのか」と怒鳴りました。そうすると、山賊たちは胸が痛んだのかそのまま修道院を離れ去ったといいます。少ししてから、師匠であるフランシスコ聖人が戻ってきました。弟子たちは自慢話をひとくさりやりました。フランシスコは残念な口ぶりで「それはお前の間違いだ。今すぐ、このパンとぶどう酒を山賊に渡すために行ってきなさい。」と命令したのです。弟子たちは師匠の言うとおり、山賊を追いかけてパンとぶどう酒を渡しましたが、彼らはそれを食べようせずにその弟子について、修道院に戻り、悔い改めてフランシスコ会の修道士になったという話です。  愛は頭だけではなくて、実際に体を動かす、行なうものではないでしょうか。相手のためによく考えることも大切ですが、それで終わってしまうとそれは愛とはいえません。互いに助け合う、支え合う、その実際の行いを神様は私たちに求められているのです。  世界難民移住移動者の日を迎えた今週、特にわたしたちに助けを求める人々に神の愛を実践することができますように。 .
日, 02/07/2016 - 19:23
人間というものは体の飢えも霊的渇きも、どちらでも大切なものです。 ですから、イエス様は大人だけ5千の人にパンをたべさせる前に、御言葉を通して、彼らに教えを与えられ、彼らの霊的な飢えを満たしました。同時に、彼らにパンを食べさせて、皆の体が満腹してから、改めて、イエス様は、永遠のパンについて、教えているのです。 さて、日常生活の中で、淋しくなったり、わびしくなった時に、私たちは、友たちと遊んだり、ゲームをしたり、買い物などをしたりしてさびしさをまぎらわせようとしますが、心の奥にある根本的な欲求を満足させることはなかなかできないことです。すなわち、人間にとって食べ物は大切ですが、ただそれだけで幸せになれないことは確かです。人間の身体が飢えと渇きを覚えるように、私たちの内面も何かを求めているのです。 今日の第二朗読で使徒パウロは 物質的な満足で熱中しないで、救い主であるイエス・キリストに委託しなさいとのべ伝えています。つまり、イエス・キリストがわたしちの底にある、本質的な要求を満たしてくださるのは「命のパン」であることを教えているのです。 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるのもは決して渇くことがない」 今日の福音を読んでいるうちに、気になる個所がありました。 群衆がイエス様に聞きました。「神の業を行なうためには、何をしたらよいでしょうか」と。それに対してイエス様の応えは「神がお遣わしになったものを信じること、それが神の業である」と言われたのです。 えッ、神のみ業を行なうためにはただ、イエス様を信じることだけで、これで、本当に十分だろうか。とても簡単すぎるではないかと思ってしまいました。 しかし、イエス様を信じることは、イエス様のみ言葉を信じること、心の中にイエス様のみ言葉を受けとめることでもあります。イエス様が今日の福音で『わたしは天から降ってきた命のパンである』とお話しになりましたが、ミサの時にイエス様のおん体を『命のパン』として、「永遠の命の糧」として、受けいれ、感謝しながらいただいているのか。それを信じるつもりでありながらも、ただ習慣的な儀式としていただいている自分に気づきました。 イエス様のおん体とおん血が「永遠の糧」「命のパン」であることを深く信じるならば、ミサにのぞむ私たちの態度はかわるでしょう。 今週、本当にわたしはイエス様を「命のパン」として信じていて、ミサの時、ご聖体をいただいているのか黙想し、また、神様が招いてくださる天上の食卓であるミサに臨みましょう。
日, 02/07/2016 - 19:29
今日、イエス様のたとえ話を聞いた人なら、だれでも「なぜ最初に雇われた人と最後に来て一時間しか働かなかった人に同じ賃金が払われたのか」と疑問を抱くはずです。なぜ、五時ごろに雇われて一時間しか働いてなかったのに、その代価として、一日ずっと働いた人と同じ賃金を払ってやったのか。それは不公平ではないかと思われるかもしれません。その理由を神の立場から考えてみますと一日、ずっとぶどう園で(神のもと、神の国を示しています)で働いた人々に対し、外で「だれも雇ってくれないのです」と悔しく訴える人々は、たださぼっていた、遊んでいたわけではありません。彼らにも扶養家族があったので、きっといらいらしながら自分たちを雇ってくれる人を待っていた、待たされていたのでしょう。一時間だけしか働くことが出来なかった人にも家族があり、その家族が一日を生きるためには1デナリオンが必要でした。(1デナリオンといえば、普通の家族が一日に過ごすために必要な金額→およそ一万円)そういうわけで働いた時間と関係なく、家の主人は彼らに、一日の日当を払ってやったのです。これが神様の慈しみであり、さらに、わたしたちが最後の日、神の前に立てる時に神からいただく恵みであり、裁きの基準になるのです。この神様の考えは、賃金は労働の代価(代償)という意味だけではなく、労働者がその家族が一人の人間として人間らしく、生活ができるために必要な生活費であるという見方です。しかし、神様の公平性はそれよりもっと徹底しています。つまり、働けない人間にも生きる権利が、食べ! る権利があるという事実です。労働者の範疇にも入れない病者や体が不自由な人、お年寄り、また失業者など、つまり働きたい、しかし、それができない人々、今働いていない人にも食べる権利があり、人間らしく人間として生きる権利があるということです。それが神様の公正な分配であり、「神の国」の価値観であります。今私たちの周りには働いても正当な報酬をもらわずに労働搾取される人々や働きたがっているが働くことが出来ない人々、雇われてはいるが立場が弱い人々がいます。ですが、今日のイエス様のお話によると、神の国にはその人々が先に行けるかもしれません。私たちが後にならないように、今から互いに助け合い、神の御心をこの世に実現することができますように。
日, 02/07/2016 - 19:35
 今日の福音を読み、黙想する時にまず、わたしの心におられるイエス様、また相手の中に、そしてわたしたちとともにおられるイエス様を見抜くとこができない、また、隣の人を通して、ある信者さんを通して、預言者的な話をかけてくださる人に耳を防いでいる自分が盲人であることを認めなければなりませんでした。  バルティマイは目が見えない人でしたが、イエス様に出会うことができたのです。彼が道端で物乞いをしていた時に、「ナザレのイエスだと聞く」と彼はイエス様に会いたくて大声で叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と。目が見えない彼がイエス様を気づくことが出来たのは、聞いたからです。すなわち、目があっても、イエス様を見ることができないわたしがイエス様をわかることができるためには聞かなければなりません。聖書のみ言葉を通して、周りの人を通して、声をかけてくださる神様、確かに信仰というのは聞くことから始まるのです。  彼は、周りの人からイエス様がお呼びだと聞いて、自分の上着を脱ぎ捨て、踊りあがりました。彼によって、上着というものは全財産であり、自分を守る唯一の手段でした。この個所を読みますと、イエス様に従うためには、何かを捨てなければならないかなと圧迫感が感じられます。 捨てるということは何でしょうか。イエス様に従うために、自分が好きなこと、大切なことを捨てなければならないのでしょうか。  捨てるということはそのものから自由になることだと思います。自分を束縛して、奴隷にさせるあるものから自由になり、解放されること。それを脱ぎ捨ててイエス様の前に出てきたバルティマイにイエス様は言われています。「何をしてほしいのか」 イエス様は決して、わたしたちを無理やり自分のところに引っ張ろうとはしません。わたしたちの選択を判断を待ってるのです。そして、わたしが神様の前に立つ時にはイエス様は同じ言葉を語られるでしょう。「何をしてほしいのか」と。バルティマイは見えるようになりたいですとイエス様にはっきり願いました。この世の中でわたしと共におられるイエス様をはっきり分かるように、見ることができるようにしてくださいという願いでした。  今週、わたしと共におられるイエス様を見ることができるよう、まずみ言葉に、周りの兄弟姉妹の声に耳を傾けて聞きましょう。 そして、実際にイエス様の声に従って行なうことによって、イエス様とであうことができますように。
日, 02/07/2016 - 20:57
 子供の頃、母は玄米ご飯を炊いて、家族に食べさせました。私は玄米よりは白米が好きで、白米よりはインスタントラーメンやジャージャー麺が大好きな子供でした。しかし、物心がついてからは、玄米ご飯をもくもくとたべている私がいました。 おそらく、父が結婚する前から糖尿病を患っていましたし、玄米は大人にも子供にも体によいので、母は家族の健康のために、玄米を食べさせていたと思います。最初好きではなかった玄米の味が、すこしずつ分かってくるようになり、その味を味わえるようになりました。玄米の魅力と母の心を分かるまでに、かなりの時間がかかりましたが、今は玄米が好きで毎日、食べています。 さて、今日の福音でイエス様はご自分を「天から降って来た命のパンである」とさらに「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命がない」と言われました。 すなわち、このパンを食べるものは永遠の命を得るし、終わりの日に復活させるというイエス様の話ですが、逆にイエス様の体と血を食べたり、飲んだりしなければ、私には命はないということです。しかし、親と子どものように、イエス様は永遠の糧を私に与えようとしていますが、子供である私はなかなかそれを喜んでいただくのが難しそうです。  その味になれるまで、イエス様の御心を理解するまで、あきらめないで、その味が身につくまでに食べ続けることが大事でしょう。 今日の福音の中で、もう一つ大切なメッセージがあります。 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6、54) 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハネ5、56) イエス様の御体を食べ、御血を飲むものは「永遠の命を得、その人を終わりの日に復活させる」というイエス様の約束ですが、「永遠の命を得、その人を終わりの日に復活させる」というのは上の文脈によれば「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」ということです。すなわち、神様が約束してくださった、永遠の命・復活というものはこの世の終りの時にいただくものではなく、日常生活の中で、イエス様とともに暮らしている人々に神様から与えられた一番大きな賜物です。 子供が親心を理解するまでは時間がかかりますが、私たちが御心に耳を傾け、永遠の命をいただいた喜びを周りの人々に伝えていくことができますように、私たちとともにおられるイエス・キリストに祈り求めましょう。 .
日, 02/07/2016 - 21:07
最近俺俺詐欺の報道が跡を絶ちません。 何十万円から何百万円までその大きな金額もそうですが、なぜそのように簡単に大勢の人がだまされてしまうのか不思議に思えます。 しかしよく考えてみると、彼らが狙うのは限りない両親の愛情なのではないかと思います。 だれしも、親であれば子ともに対する、慈しみの心を持っているので、 ひどい目にあったとか、会社が潰れそうになったとか、あるいは財布をなくして困ったと言えば、お金を出すのにやぶさかではないのだと思います。 彼らはその親の心、愛を悪用して、今も詐欺を続けているのですから、おそらくこの世が終わるまで俺俺詐欺はなくならないかもしれません。ですから皆さん、気をつけてください。 さて、今日の説教は俺俺詐欺の恐ろしさについて話すつもりではありません。 わたしが強調したいことは「父母の愛」です。 今日、第一朗読では、神のみ旨がまるでわたしたちの親のように描かれています。 「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。…あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。… 彼らがわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」 俺俺詐欺にだまされる親のように、神は貧しい人や弱い人が叫ぶ時に、憐れみをもって聞いてくださるのです。 今日の福音で、イエス様が語る第一の掟とは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということでした。また、同じく「隣人を自分のように愛しなさい。」という掟も重要であると教えられています。 愛は下向きと言われるのでしょうか。すなわち、目上の人が目下の人に、親が子供に愛を施すことで目下の人が目上の人を愛することはまれであります。 親が子供を生んだ時に喜ぶのは自分のを世話してくれる人が生まれたから、恩返ししてもらう人ができたからではありません。理由はありません。ただ、自分の子供だから。身内だから。血族・肉親だからです。 父と呼ばれる大いなる神も同じではないでしょうか。 今日、イエス様が語られた「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という掟は神は私たちの父であることを悟りつつ、その信念を持って常に生活を過ごしなさいと聞こえます。 そして、その掟を実行する行いとして、自分を愛すること、隣人を愛することでしょう。 神はわたしたちからほめたたえられるため、恩返しをもらうためではなく、わたしの父だから無償で、無条件でわたしを愛し、造られたのです。 その神から親からいただいた愛の答えとして、自分を大切にすること、また、周りの人を大切に思い、お互いに愛し合うこと、難しいことですが、それが今、神から求められる愛の掟です。
日, 02/07/2016 - 21:15
 古今東西を問わず、人類の歴史の中で、堕落した君主(王様)が数えきれないほど、たくさんいました。民衆(民)が伝染病や飢えで死んでしまっても、彼らは華麗な宮殿をつくり、城壁を築き、自分の身を守るために、周りには兵士を置いて、国民との関係を断絶したのです。  もちろん、民衆のために力を尽くした優しくて立派な王様もいましたが、自分の権力を守るために、民の血と汗を要求したことは間違いありません。 それにもかかわらず、昔から民衆は自分の生活を、給料を経済をより豊かにしてくれる王様を求めてきたのですがこの世にはその人物はありません。  さて、王であるキリストの祭日を迎えたわたしたち、世間の否定的な王様のイメージとわたしたちが告白しているイエス様のイメージが同じではないことに皆さんはすぐ気がついたと思います。 キリストは政治家でもなかったし、自分の身を守るための軍隊や武器を持っていませんでした。ただし、アイロニカルですが私たちはイエス・キリストをこの世に再び来られる王として待ち望んでいるのです。私たちの王であるキリストは自由を踏みにじりもしなかったし、盲目的な服従を要求する独裁者でもありませんでした。イエス様は最後の晩さんの時、この世を救うために銃や爆弾など武器の造り方(使い方)を教えたのではなく、「愛」でこの世が救われる、「愛」ではなければこの世は変わらないことを述べ伝えたのです。  この世の価値観からみれば、まるでバカみたいな、一見ばかげた着想だ)だと思われるかもしれませんが、人類と教会の歴史を見ますと、その愛によって、数え切れない人々が回心して、支えあい、平和を守ることができたのです。このようにイエス様が言われた、その「愛」こそが人間の歴史を変えるものです。  先週、パリで起きた自爆テロを始め、今世界に起こっている事件事故も、結局、力では、復讐では、金では何も代わらなくて、ますます悪循環に陥っていくばかりです。  イエス様は銃や剣の代わりに愛と徳で武装している王様であり、宝石に飾られている冠ではなく、茨の冠を被っているものです。キリストはご自分を迫害した人々を祝福して、彼らのために祈りました。‘イエス様は右のほっぺを打たれたら、左のほっぺをも差し出しなさい’(マルコ5,39)ということまで言われたのです。  このようなイエス様をわたしたちは救い主として、王であるキリストとと告白しています。なぜならば、イエス・キリストは私たちを楽園(天国)に導いてくださる方だから(永遠の命を与えられる方だから)。 わたしを天国に導いている王様であるイエス・キリスト、私たちはその王様の教えに従い充実な弟子として過ごしているでしょうか。また、その王様の模範を見習いながら、生活を送っているでしょうか。
日, 02/07/2016 - 21:21
 中東はアジアの一部です。イスラエルは一年中気温が高くて、 衛生的な面からまた、 悪いウィルスや食中毒から健康を守るために、手をよく洗って料理したり、食事をすることが厳しく守られてきました。また、食べ物の中でも、豚肉は腐りやすい食べ物だったので、食べてはいけないなど、最初は日常生活の中で健康を守るための規則が少しずつ、祭儀的な清めを保つために、日常生活全般にまで広がり、人々にもそれをきちんと守るように要求されていったのです。  さらに、ユダヤ人たちにとっては、「食事」というものはただ生きるために食べる行為というだけではなく、神から選ばれた民として、彼らがいつか神の国で味わう宴の喜びをこの世で先取りとして、記念する宗教的な意味がより強かったのです。  ですから、異邦人とか、罪人とか天国に入ることがふさわしくない人々とは一緒に食事をすることが許されていませんでした。  しかし、イエス様がこの世に来られたのは健康な人ではなく、病者のため、正しい人ではなく罪びとのためであると言われています。そのとおりに、わたしたちすべての人間は神から招かれています。  今日の福音の中ではファリサイ派の人々や律法学者たちとイエスの価値観の差がはっきりと見られます。ファリサイ派の人々や律法学者たちは清めの規則、律法を守ることが、神の民として、神から救われる方法であると教えていました。しかし、イエス様は神様をおん父として、なおかつ、わたしたちはすでに神の国へ呼ばれている、招かれているということです。その答えとして、おん父への感謝のうちに、わたしたちは神様の子として、天国の国民としてルールを守るわけです。  神学校の時、いまは司教様になっていますが、先生が次のような話をしました。 この世は決して、平等ではない。お金持ちがいる反面、貧乏な人がいる。生まれつき、重い病気でそのまま死んでしまう人も、戦争や紛争で亡くなる人もいる。しかしながら、人間として平等であることが三つある。 一つは、人はいつか死んでしまうもの。 二つ目は、死ぬ時、何も持っていかない。ただ裸で生まれ、裸で帰る。 三つ目は、死んだ後は必ず、神様の前に立つことである。 という話でした。  わたしたちはすでに、神様から招かれて選ばれたものですが、そのことを感謝しながら生活をしていますか。その喜びを周りの人々ともに分かち合っていますか。いつか、わたしが神の前に立つ時に、神様と話し合う内容は神様からいただいた自分の人生をどういうふうに過ごしてきたのかについてではないかと思います。 .
日, 02/07/2016 - 21:29
今日の福音は「思い皮膚病」にかかっていた患者がイエス様から癒される個所です。 「重い皮膚病」とはハンセン病とは限りませんが、不浄なものとされ、共同体から隔離されました。レビ記13章45節以下には「重い皮膚病を患っている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「私は汚れたものです。汚れたものです。」と叫ばわらねばならないということでこの病状があるかぎり、その人は家族、共同体と離れ、一人で宿営の外に住まなければなりませんでした。もし、これらの規則を守らなければ石投げで殺されてもかまわないということで、いくら寂しくて家族が会いたくてもかつて誰もそのルールを破ろうとはしなかったでしょう。 さて、皆さん、病気にかかったことがありますか。 いくら小さな病気であっても、たとえ風邪をひいても、人間は体だけではなく、心も弱くなり、疲れで人と会うことさえ嫌になるという経験を覚えていると思います。 病気は体だけではなく、自分の心も、さらに人間関係にまで影響を及ぼすのです。 ですから、重い皮膚病にかかっているだけでもつらくて耐えられないのに、汚れたものとして、すなわち、「神からも、人からも断ち切られた人間として」見られ、罪人として過ごさなければならなかった人。しかし、イエスはそのような人を苦しみから解放しました。 私たちは元気そうに見えますが、心の重い皮膚病に患っているのではないでしょうか。 他人との関係の中でコンプレックスとかねたみで、怒りとか傷で、誰かをいじめたり、いじめられたりして、一人ぼっち、自ら仲間はずれになる道に進んだ経験はありませんか。 私は何となく顔には自信がありますが(冗談)、実は昔から大きなコンプレックスを持っていました。それは身長のコンプレックスです。中学生から背が伸びなかったため、ただ10センチだけ大きくなればいいのに…とか、ちょっと身長が大きくなったら人気もあるし、友だちも多くなるし幸せになるはずなのに…など 背が低いことに心を奪われてしまい、身が竦んでしまったり時々自信を失い、友だちと付き合うことも、ひかえたこともあります。もちろん、神からいただいた恵みがたくさんあったのにも関わらず、足りない所にだけ目が止まってしまったのです。 そのコンプレックスから完全に脱出したわけではないですが、ある程度自由になったのは「徴税人であるザアカイの話」、背が低かったザアカイがイエスと出会い、喜びながら木から下りてイエス様を自分の家に迎え入れたところを黙想してからです。イエス様に出会うと私たちは癒される。コンプレックスはイエス様に導いてくれる窓口のようなもの。 更に、もう一つ、今日の福音書の中で重い皮膚病にかかっていた患者は切られた関係を回復するためにイエス様のところへ、また群衆が集まっていたところに現れたことに注目しましょう。 そして、‘わたしを清くすることがおできになります’とイエス様に願いました。  イエス様は「深く憐れんで」捜し求める人を必ず助けました。これがイエス様の御心です(御父の御心、慈しみです)。そしてイエスさまは癒された彼に自分の体(肌,傷、弱さなど)を「祭司に見せる」ことが社会復帰のための条件でした。イエスはただ単に彼の肉体的な病をいやすだけでなく、彼と人々との絆を取り戻そうとしていると言うこともできるでしょう。 ここで、皆さん、今週は私たちも心の重い皮膚病から癒されるためにイエス様に進み出ましょう。自分に軽蔑感を感じたり、ひどくコンプレックスを抱いたりするなど、恥ずかしさのあまり身が竦んでしまう時、今日の福音でイエス様が治癒された人のようにイエス様に進み出て清くしてくださいと願うことができるように。
日, 02/07/2016 - 21:34
 「主において常に喜びなさい」という言葉で始まる今日のパウロのフィリピの教会への手紙はパウロが 紀元後(AD)56-7年の頃、エフェソで執筆されたとみられています。 パウロはエフェソで何をしながら、この手紙を書いていたのでしょうか。 実は、フィリピ書はパウロが牢に監禁されていた時期、自分の運命がどうなるか分からない時に書いた手紙なのです。 迫害の中で、苦難の中で、どうやってパウロは「喜びなさい」と呼びかけ、平和を保つことができたのでしょうか。  私たちは、人間というものは人生の中で、いつ、何が起こるか知りえません。しかし、確かなものはあります。人生の中で苦しみは必然的なものであること、その苦労から逃げたり避けたりすることはできませんが、その苦しさの中で私たちはやるべきことをしなければならないし、学ぶことを学ばなければなりません。  勝手に私が神様のみ旨を決めつけることはできませんが、今日の使徒パウロの手紙は私たちに、人生のそれぞれの十字架の苦しみから神様の恵みに目を向けるように案内しています。パウロはこの苦労の嵐の中で、神様が私を最後の最後まで、安全に導いてくださる、その堅い信仰と希望を持っていました。  さて、今日の福音書で登場している洗礼者ヨハネ、彼もヘロデ王により投獄され、パウロと同じく断首刑で最期を迎えますが、彼はどうすれば自分の生活の中で、喜びや平和を保つことができるのか、イエス様を迎え入れることができるかについて述べ伝えています。 その方法は「分かち合う」ことです。自分が持っているすべての物から自由になること。自分の時間、持っているもの、悩み、喜び、悲しみなどをすべてのことを分かちあうことができます。さらに、その分かち合う相手がいること、家族がいて、共同体がいること、仲間がいることはなんと大きなお恵みでしょう。  苦しみの中でも、私たちの喜びが勝っています。 神からいただいている恵みを忘れないでください。それに感謝し、その喜びも悲しみも分かち合うことができますように。 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4,4)
日, 02/07/2016 - 21:41
 ペトロは弟子たちの代表として、イエス様に対し、「あなたはメシア(キリスト)です」(マルコ8)と告白しました。すなわちイエス様を神の子として認め、告白したのです。  しかし、イエス様とペトロの間には、「メシア(救い主)」についての考え方がかなり違っていました。イエス様が言われる救い主とはこの世の権力ではなく、十字架であること。つまり、十字架を通して、今までは違う共同体を生み出すとお話しになったのですが、ペトロは政治的なメシア、つまり、ローマから解放してくださる救い主、また、経済の面では貧乏から脱け出すことができる豊かさを、権力的な面としてはイエス様が王座に付く時に、彼らは力を手にしようとしていました。  ですから、ペトロはイエス様が自分と違う考え方を持っているのに気づき、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めたのです。」一口で言えば、ペトロは足を引っ張るような、誘惑するものとして、イエス様を自分の方に引っ張ろうとしたのでイエス様は「サタン、引き下がれ、あなたは神の子とを思わず、人間のことを思っている」と言われました。  もしかすると、わたしがおよそ2000年前にペトロの代わりにイエス様と共にいたとすれば、今日のペトロのように、イエス様に同じ言葉を話したでしょう。 「主よ、家の子が進学できるようにどうか助けてください。」 「イエス様、家の夫の仕事がうまくいきますように見守り、わたしの両親の病を癒してください。年をとっている子ともがなるべく速く、良い配偶者と出会い、結婚ができるようにどうかしてください、など」  このような祈り、子供のために、家族のために、祈ることは勿論大切なことですが、ふと、この世界はなぜ、戦争が終わらないのか、罪もない子ともたちが殺され、飢え死にしているのか。また、平和が実現できていないし、より良い世界に向かって進んでいないようにも見えます。  そうしたら、わたしが信じている救い主であり、メシアであるイエスさまが、わたしたちにや与えてくださったこと、もたらしてくださったものは何でしょうか。  イエス様がわたしたちにもたらしてくだったものは「神様、おん父」です。 イエス様を通して、神の愛、慈しみ、神様のみ顔、そのものをすべてを示しました。神様がわたしの父であること、またわたしたちを見捨てられないことなど… そしてわたしが進むべき道、歩む道をしめし、そしてわたしたちが本当に目指すところを教えて、み国がどこにあるのかを教えてくださったのです。  神のみ業というのは死、苦痛に悩まされるような、苦しめられるように見えますがその中には永遠の命があり、サタンが砂漠でイエス様に見せた富貴栄華はいつか滅びしてしまうものでした。キリストの栄光は世々に至るまで続きます。  皆さん、イエスさまがわたしたちに十字架を通して教えてくださった救いの道を一歩一歩、イエス様とともに歩みましょう。 .
日, 02/07/2016 - 21:44
『イエスは十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際に、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほかは何も持たず、パンも、袋も、また帯の中には金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた』(マルコ福音書6,7-9) 今日の福音の中で、イエス様は弟子たちを派遣するにあたり、杖一本のほか何も持たないように命じられています。さらに、袋にはパンを買うお金は勿論、履物や下着なども二枚着てはならないと言われたのです。 このような険しい世の中に、‘イエス様は弟子たちを派遣するのに、何の準備もさせずにそのまま見送ることが出来たのだろうか。わたしが信じているイエス様はこのような無責任で何の計画もなくこのように仕事を推し進める方であろうか。’ このように疑問を抱くかもしれません。しかし、主であるイエス様が弟子たちに(わたしたちに)パンも袋には金も、持たないように言われたのは弟子たちに清貧の大切さ、心の貧しさを教えるためです。 すなわち、ここで言われる清貧(貧しい)というものは神を信じている人々の「価値観」を示しています。かつて、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4,1-11)と言われました。 人間にとって、パンやお金などつまり、物質と言われるものは人間の生活には欠かせないものですが、それが私たちの目標や人生のすべてではありません。具体的に言いますと、お金(物質)がわたしたちの楽な生活をある程度、保障するかもしれませんが、わたしたちに救いを与えることはできません。このような価値観を持っていたイエス様が弟子たちに強調したことは清貧(心の貧しさ)とは物質を放棄することではなく、人間を奴隷にする金の魔力(力)から自由になるため、金が与える安住(楽)の生活に注意しなさいということです。 従って、今日の福音で強調されている清貧とは、‘神がおられるので、お金にこだわらなくてもよく、お金によって兄弟を判断しなくてもよい、という価値観’ ということでしょう。 人間の真の力は金や権力からくるものではなく、神を信じ、御旨に従う時に与えられます。 人が財物や欲望そして、惰性に流されることなく、神に立ち戻る時、その人には神から驚くべき力があたえられます。わたしたちの中に隠されている福音の意味(イエス様の価値観)に従って家族とともに生活し、お金にあまりにもこだわることのないようにしましょう。 どんな壁にぶつかってもガッガリすることなく、神の助けを求める謙遜を求め、また神以外には、この世の中に頼るものはないことを悟らせてくださるようにと祈り求めましょう。まるで今日の福音でイエスさまから派遣される弟子たちのように。 「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。 主の御名はほめたたえられる」(ヨブ1,21)
日, 02/07/2016 - 22:37
 「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を守ろうとすると、必ず相手を許す、ゆるし合うということが必要になってきます。そのゆるしについて話をすると、私ばかりでなく皆が小さくなってしまいそうです。その理由はゆるすということがなかなかできないからではないでしょうか。 ですから、「隣人を自分のように愛しなさい」というイエス様の掟を聞くたびに自分の信仰生活が間違っているような気がしてしまいます。  今週の第一、第二朗読と福音書にあるように、私たちが兄弟として、互いに助け合うのに、ゆるすことも大切ですが、罪を犯したり、悪を行った者(兄弟姉妹)に対して、相手が悔い改めることができるように伝える責任も問われています。しかしその前提として、兄弟姉妹を失わないこと、共同体に再び兄弟姉妹として受け入れること、これがここでのテーマと言えます。  さて、今日の福音でイエス様は「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら兄弟を得たことになる。」(マタイ18:15)と言われましたが、「忠告」(15節)というのもゆるすことと同じく本当に難しいことだと思います。忠告されることは誰にとっても嫌なことで、忠告することによって、却ってその人が頑なになったり、恨みを買ったりすることもあります。それでもイエス様は「忠告しなさい」と言われます。改めてその忠告の前提となるのが、その兄弟姉妹を失わないこと、共同体へ再び兄弟姉妹として受け入れることです。  相手が犯した罪(過ち)は、私も犯す可能性が高いものです。なぜなら私たちはあまり変わりない人間ですから。  その罪、過ちに対して目をそらすのではなく広い心で、また、相手を共同体から放り出すためではなく、受け入れるための愛と努力が私たちに求められているのではないでしょうか。   昨日、この聖堂でギターとロシア民謡のひとときという演奏会がありました。遠藤さんと柴田さんの演奏に聞き入り、「このように素晴らしい演奏の裏には、どれほどの失敗と練習そして自分との戦いがあっただろうと気付かされました。そしてその演奏を聞いて感じられたのは、失敗と苦労を含み合わせる喜びでした。  運動選手がスポーツをするために自分の体力を鍛えることは基本です。ピッチャーは自分の腕を大事にしなければなりません。声楽家が自分の声を大事にせず、いい加減に使ってしまったりするとその能力は失われてしまうでしょう。  それでは、私たちがキリスト者として基本的に求められるものは何でしょうか。それはイエス様との信頼関係ではないかと思います。 私はイエス様から呼ばれた、救われた、癒された、絶対に捨てられないという信頼関係です。 そのイエス様と繋がりを持って過ごしましょう。そうすると私に罪を犯した相手を許すことまではできないかもしれませんが、これからどう歩むべきかというキリスト者としての歩み方が見えてきて、イエス様が教えてくださるでしょう。  二人、三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。(マタイ18:20)  
水, 08/27/2014 - 22:25

 イエス様は弟子たちに、「人々は人の子のことを何者だと言っているか?」とお尋ねになりました。

 弟子たちはまず、「洗礼者ヨハネだという人々がいます」と答えました。洗礼者ヨハネは偉大な禁欲主義者でありましたが、イエス様はファリサイ派の人々から、「見ろ、大食漢で大酒呑みだ」(マタイ11-19)と言われるほどで、禁欲主義者ではありませんでした。むろん、禁欲は信仰を深める一面がありますが、それが信仰のすべて、絶対的な要素ではありません。

 「エリヤだと言う人々もいます」という答えもありました。エリヤはとても厳しい形で信仰を守ろうと努力した預言者でした。その過程でバアルの預言者450人すべてを殺したのです(列王記18)。しかし、イエス様はご自分と違う考えを持つ人をなくすよりは、むしろ彼らが救いの道から離れないことを望んでおられ、エリアとは異なっていました。

 さらに、エレミヤだと考える人もいました。預言者エレミヤは受難の義人です。イエス様も受難の道(十字架の道)を歩みましたが、エレミヤのように苦労をすばらしいものとしてほめたたえるほどではありませんでした。イエス様は私たちが苦しみの中で住むよりは、幸せになることをお望みになりました。ただ、霊的な平和と喜びのために生活する中で遭遇する受難というものは、それを受け入れそして乗り越えるように、ご自分の生涯を通じて教えられたのです。

 それではイエス様は何者なのでしょうか。

 今日の福音で、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16-16)と言っています。死んだ神々とは違って、生きておられ、生命を造られる神であり、さらに人類の歴史の中で働く神である、という意味です。これは、当時のイスラエルの時代背景から見ると大きな意味を持ちます。当時イスラエルにおいては預言者が現れなくなって久しく、預言者の魂は失われていました。すなわち、神の声を聞くことはできなくなり、神が私たちとともにおられると感じる兆しが見えなくなっていた時代でした。そして厳格な律法は、貧しく弱い人々を厳しく束縛するばかりのもので人々は抑圧され疲弊していました。イエス様がこの世に来られたのは、イスラエルがこのような状況にある時でした。イエス様は、疲れ果てたイスラエルの群衆に、慈しみをもって、ある時には涙を流しながら、彼らの救いについて述べ伝えたのです。

 当時イエス様に出会った人々、特に罪人と言われて神から捨てられたと思われていた人々は、イエス様より「恐れるな、私はあなたと共にいる」と言われ、まことの救いの喜びを感じたことでしょう。そのようなイエス様の姿を見たペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と素直に告白することができたのでしょう。

 今を生きる私たちもイエス様との出会いによって、神からくる喜びと救い、そして癒しを味わうことができます。特に今週は、ペトロが「あなたはメシア。生ける神の子です」と告白したように、私たちも頭の知識ではなく、イエス様との出会いを通じて心からイエスをメシア、生ける神の子として感じ取ることができますように。そして、イエス様からいただくその恵みを周りの人々と分かち合うことができますように。アーメン。

 

日, 08/10/2014 - 21:43

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」ルカ1-45

このみ言葉は、マリア様が洗礼者ヨハネを身ごもっていたエリザベートから言われた言葉です。

イエス様の母として、マリア様は昔から恵まれた方と言われてきました。その一方、教会はマリア様がイエス様の母として受けた七つの大きな悲しみと痛みについて黙想してきました。

1: イエスを生んだ時に、ヘロデ王から逃げるためにエジプトに避難したこと(マタイ2-14)

2: 幼子イエスを神殿に捧げた時、シメオンに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と預言されたこと(ルカ2-35)

3: イエス12歳の時に、エルサレム神殿でイエスを見失ったこと

4: 十字架を背負ったイエスに出会ったこと

5: 十字架につけられて、死を迎えたイエスを見守っていたこと(ヨハネ19-30)

6: 十字架から降ろされたイエスの遺体を、自分の胸に抱きしめたこと

7: 自分の子供であるイエスを葬ったこと

イエス様の母、神の母と呼ばれるマリア様でしたが、このようにマリア様の人生も決して平凡な道ではありませんでした。険しい人生を過ごされたマリア様でしたが、自分が受け入れた使命、決めたことに対して後悔しなかったのでしょうか。

あらためて「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」というエリザベートの挨拶を思い起こしましょう。マリア様は天使より「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と言われています。(ルカ1-28) マリア様は、自分の決めたことに後悔することなく、「主があなたとともにおられる」という約束を信じて、過ごしてこられたようです。

歳をとるに従って、過去のことについて後悔することが増えます。例えば、「あの時、母の言うことを聞いていれば」「学校を辞めていなければ」とか、「もっと歳をとってから結婚するはずだったのに」「他の仕事を選んでおけば」「家族をもっと大切にしておけば」など、さまざまな後悔がありえます。

後悔することは、真面目に過去を振り返る賢明なこと、責任感がある人が行うことのように見えますが、実際には、単なる後悔は私たちの心と体を疲れさせ、蝕む危険なものです。米国の著名な健康医学研究者アンドルー・ワイル博士は、「思い、感情、態度こそが、心身ともに健康な高齢者になれるかどうかのカギとなっています。そうした中、後悔は今与えられている時間を幸せに過ごすことを邪魔するものなのです」と言っています。

歳をとることに伴う賜物は、成し遂げられなかったことやかなえられなかったことを悔やんだりすることなく、今のありのままの自分を認めて受け入れられるようになることでしょう。

今現在の自分の姿をあらためて見ると、過去も現在も全てが疑問に思えてきてしまいます。そしてつまるところ、自分を造った神様、いつも自分と一緒におられる神様に疑問を訴えることになります。

過去を振り返る時間は必要ですが、その時一番重要なポイントとは、神の前に出て黙想することです。自分の選択、自分の行った行為によって、自分がどのように霊的に成長したのか、自分の行為が神様のみ旨に適うものであったのか、ということです。

どんなひどい目にあっても、じぶんが受け入れた(決めた)ことを後悔するよりは、「主があなたとともにおられる」(ルカ1-28)ことを常に信じていたマリア様、これが今を過ごしている私たちにマリア様が教えて下さる信仰の模範です。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1-45)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

火, 08/05/2014 - 16:21

  男だけでも五千人いる群衆を食べさせるには、五つのパンと二匹の魚はとんでもなく足りないものでした。しかし、イエス様は「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と弟子たちに命じました。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」というのが、弟子たちの情けない答えでした。

 それに対し、イエス様は黙々と「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」とマタイ福音記者は語っています。

 「五つのパンと二匹の魚しかない」という弟子たちの悲観的な考え方と、「天を仰いで賛美の祈りを唱える」というイエス様の楽観的な考え方が対照的です。これはまた人間とイエス様の考え方の対比でもあります。さらに、イエス様が祝福したパンを群衆に与えたのは、イエス様ではなく弟子たちでした。彼らはイエス様の命令に従い、信じられないような奇跡が行われたのです。

 「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子にお渡しになった」ことは、私たちに永遠の命をもたらすミサにつながるものだと知られています。しかし私にとっては、「つまらない」、「価値がない」、「物足りない」などと悲観的にならず、自分に与えられたものに対して神に感謝をささげるイエス様の御心が私の心に強く響いています。

 今日の福音の中でイエス様が捧げたのは五つのパンと二匹の魚だけではないと思います。その中には飢え渇いた群衆とまだまだイエス様を理解することができない弟子たちも入っていて、イエス様はすべてを賛美の祈りで神に捧げたことでしょう。

 さて、私たちは何を神に捧げたら良いでしょうか。神に捧げるものは素晴らしいものばかりではなく、私たちの日常生活のすべてです。すなわち、普通の人の目にはつまらなく、物足りなく、価値がないように見えても、今、私たちが頑張っている仕事、勉強、余暇、そして今自分を悩ませる心配、取り組んでいる問題などすべてが神に捧げられるものです。そして、イエス様のように神がそれを祝福し、変えてくださることを信じて祈り求めましょう。

 また夫や妻、子どもたちなど、自分が任されている人々が、期待どおりにいかなくても気を落とすことなく、イエス様のように自分に与えてくださったことをまず神に感謝し、賛美の祈りを捧げることで神が祝福してくださり、導いて下さることを信じ、祈り願いましょう。

 気を落として失望するのではなく、イエス様のように神を信じ、祈り求める、そしてみ旨に従って歩み続けることが私たちの使命でしょう。そして「大勢の群衆を見て深く憐れんだ」イエス様の御心にならい、自分のまわりにいる飢え渇いている人々、助けを求める人々に、私たちも勇気を持って救いの手を伸ばしましょう。私たちを通して、イエス様の御心が今も明日も働き続けることができるよう祈りましょう。

 イエス様は「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。全ての人が食べて満腹した。」

アーメン。

 

 

火, 07/01/2014 - 22:13

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。わたしは言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」

ペトロ(ゲファ)とは岩という意味

 

今日の福音では、イエス様がバルヨナとも呼ばれたシモンにペトロという名前をつける場面でした。

イエス様はシモンに、バルヨナ(ヨナの子)と親しく呼びかけましたが、これは驚くことではありません。イエス様はペトロだけではなく、全ての人について誰の息子、誰の娘であるか知っておられる方だからです。それよりも、イエス様がシモンを見つめながら、「あなたはペトロ」と呼ばれたところに注目ください。

聖書の中で新しい名前を頂くのは、その人の身元(身分)に変化があるのを示しています。この世になる地位や権力の変化ではなく、霊的な変化です。例えば、アブラムはアブラハム、サライはサラ、ヤコブはイスラエル、と変わったのは神様が彼らを霊的な次元で新しく生まれ変わらせたことを意味しています。

ただし、ペトロはイエス様から岩を意味するペトロという名前を頂いたのち、成熟した人間に変わったでしょうか。岩のようにたくましい人間になったでしょうか。いいえ、実は聖書に書かれている通り、ペトロがわたしたちに見せた姿は、岩と全然違いました。むしろ新約聖書においては、弟子たちの過ちや間違いはほとんどペトロがやったように書かれているくらいです。しかし、もしペトロが慎重で完璧、頭が良くて人格的にも成熟していて、イエスを裏切ることもしなかったならば、今の教会は全く違ったものになっていたに違いありません。ファリサイ派と律法学者の教会のように、罪びとを裁き、弱い人を無視し受け入れない教会になっていたかもしれません。

イエス様はわざと失敗だらけで、物足りない、さらにはイエスご自身を裏切ったペトロを岩として、その上に教会を建てられました。従って教会は生まれつき貧しくて謙遜なものでなくてはなりません。また、失敗している人、挫折している人々のための教会としてそもそも成り立っているのです。

もう一つの重要な点として、神は準備できている(完全な)人を呼ぶのではなく、まず人を呼んでからその人を準備させる、ということです。

ヨハネ福音書1-42ではイエス様がシモンを見つめてからペトロと名付けました。「見つめる」という意味はただ「見る」というだけでなく、彼の内面の深いところまで見つめたことを意味しています。外見だけではなく、隠されている可能性、ポテンシャルを見つけ「岩」と名付けたのです。シモンを見た時と同じように、イエス様は私たちの中にある可能性を見つめています。世の光として、世の塩として、神の国のために役立つ者、将来すばらしい父親・母親になれるものなど、です。ですから私たちも、自分自身や家族、職場、教会などで他の人々を見る時には、イエス様のように神からいただいている可能性、ポテンシャルを見つめるようにいたしましょう。

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。わたしは言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上にわたしの教会を建てる。」 アーメン

土, 04/19/2014 - 11:08

 この日曜日は受難の主日と(また、枝の主日とも)呼ばれます。教会歴の中でも最も厳粛な聖週間の第一日目でもあります。この時私たちは次のような質問を自分自身に問いかけるのです。自分自身の人生の中においてイエスはどのような位置をしめているのだろうか?自分自身の人間としての努力と力だけで人生の小道を渡りきれるだろうか?と。

 私は人は例外なく救い主を必要としていると確信します。私にとってはその救い主になるのがイエスです。ではイエスとはどのような救い主なのでしょうか。

(1) まず、彼は神でありながら神としての栄光を脇におき、私たち同様となった (フィリピ 2:6-11) ものです。ですから私たち一人ひとりにとても近い存在です。

(2) 次に、彼は完全に人間であり、恐ろしい拷問と痛みに苦しみました。それは私たちへのとてつもない贈り物であり、それにより私たち人間は神との暖かい関係を持つことができるのです。 (イザヤ 50:4-7, マタイ27:11-56)

(3) 何故イエスはこのように苦しむことを引き受けたのでしょうか?それはイエスが私たち一人ひとりを愛してくださっているからです。「神がこのようにも私を愛して下さる」ということを、大きな慰めと希望としてとらえましょう。

(4) イエスは「恐れるな。なぜならあなたが苦しむ時こそ私はあなたのそばにいるから。私はあなたの人生の道をあなたの脇であなたと共に歩む」と言ってくださっています。

 遠藤周作の本「イエスの生涯」の10章ではこう書かれています。「人生の同伴者として共に歩むため、また真に自分が愛の神であることを示すために彼は最高に苦しみぬく方法で死ななければならなかった。この苦しみを経験したからこそイエスは私たちに向かい「私はあなたの苦しみが本当にわかります。なぜなら私も同じ苦しい経験をしたからです」と言えるようになったのです。」

  イエスは「苦しむもの、重荷を負って喘ぐ者、私のもとへ来なさい。休ませてあげよう。(マタイ 11:28) 」と言っています。なんと美しいお招きではありませんか。静かにこのことについて考えてみましょう。そしてイエスに全ての苦しみと問題を打ち明けてみましょう。そしてそれにより心の平安を得られたならば、その平安を私たちの隣人たちと分かち合いましょう。

木, 04/10/2014 - 22:15

 四旬節の間の5回の日曜日の福音はイエスがどのような方であるか私たちに教えてくれます。

第一日曜の福音:荒野で誘惑されるイエス―イエスは我々と同じく真に人間であった。

第二日曜の福音:栄光に包まれた山上のイエス―イエスは真に神であった。

第三日曜の福音:井戸端でサマリアの女と出会うイエス―今日私たちもイエスと出会う。

第四日曜の福音:盲者を癒すイエス―暗闇ののちイエスは私たちに光をもたらす。

第五日曜の福音: イエスはラザロを蘇生させ新たな人生に向かわせる―イエスは私たちに新しい人生を与える

 ヨハネ11章1-45節を読んでください。それは単に2000年前の出来事ではありません。同じイエスが今日もおられ、私たちに新しい命を与えてくれるのです。次の点に注目してください。

(1)イエスはラザロ、マルタ、マリアの友人であり、皆を深く愛していました。私たち一人ひとりにイエスは言うのです。「あなたは私の友である」(ヨハネ15章15節) そうなのです、神ご自身が私たちの友人なのです。イエスは私たちの親友です。ですから私たちは友として心と心の会話ができ、何もかもイエスに話せるのです。イエスは友人として私たちの話を聞き、私たちをあるがままの姿で、友人がするように、受け入れてくれるのです。これが祈りの本質です。

(2)「イエスは泣いた」(ヨハネ11章35節) この重い意味について考えてみてください。私たちの神、イエスは私たちが泣く時にそれを感じ、イエスもともに泣いてくださるのです。イエスの涙は共感の心から出る涙です。イエスの涙は、祈りの中で、イエスをとても近づきやすい存在にしてくれます。

(3)「私は復活であり命である。私を信じるものは、死んでも生きる」(ヨハネ11章25節) イエスのこの厳粛な約束は私たちに現世において意味ある人生を与え、天国における永遠の幸せを与えてくださいます。この約束は私たちを希望と自信で満たしてくれます。

(4)「彼をほどいて、行かせてやりなさい」(ヨハネ11章44節) イエスは私たちを拘束するカセをはずしてくださいます。それは罪であったり、病気、失敗、抑鬱、裏切り、かたくなな心などであったりします。イエスは私たちの心にやってきて、私たちをそれらから自由にしてくれます。

 少なくとも5分、あなたの友人として、祈りを通してイエスに話しかけてみてください。イエスにあなたに起きた良いことを話してみましょう。そして心の痛み、あなたの問題、も。あなたの将来の希望についても話してみましょう。そしてその後、何らかの方法で、あなたが得た励みを他の人と分かち合ってみましょう。

月, 03/31/2014 - 08:20

 聖書の中で神が人間に特別な仕事を頼むときには、神は常に強く有名な人ではなく、立場の低い弱い人を選んでいます。第一サミュエル記16章はその一例です。預言者サミュエルは将来のイスラエル王はエッサイの息子から選ばれることを知っていました。しかしどの息子であるかは知らなかったのです。彼は最年長のエリアブが選ばれるのではないかと思いましたが、神は彼を選びませんでした。サミュエルは並ばせた7番目の息子のところまで行きましたが、神はそれらの誰も選びませんでした。そこでサミュエルはエッサイに「あなたの息子はこれだけですか?」と尋ねました。エッサイは「末の子ダビデだけが残っていますが、今羊の番をしています。」と答えました。ダビデは家に帰るように命じられました。ダビデが家の扉をくぐると神は預言者サミュエルに 「これがその人だ」といったのです。ダビデは最年少で、最も弱くそして何の権力もありませんでした。

 聖書を見てください。このようなことは、皆同じです。アブラハム、モーゼ、ギデオン、エレミア、ホセア、マリア、ペトロ、そしてあなたも私も。

 これらの人々は自分たちが弱く、無力で小さな存在であることが身にしみていました。ですから彼らは自分の人生における務めを達成するために、神の力を頼んだのです。

 イエスは私たちの住む暗い世に小さな光を灯すように私やあなたに託しています。そのための力をイエスは与えてくれました。私たちは決して一人ではありません。常に神の助けを求め、意識してその助けに頼りましょう。

 ヨハネによる福音書9章1-38節には盲目の男が徐々に信仰に目覚める情景がえがかれています。何度も誰に癒されたのかを尋ねられると、彼は最初は「イエスと呼ばれた男にです」と答えました。その後彼はは「かれは預言者です」と言うようになり、そして再び尋ねられると男は「彼は神から遣わされた人です」と言いました。そして最後にイエスご自身が男に自分を信じるかと聞くと、「主、神よ、私は信じます」と言ったのです。

 この四旬節の間、聖書を開き、イエスに出会いましょう。そして思慮深く、読んだ部分について祈りましょう。少しずつあなたの信仰も育っていくでしょう。

日, 03/30/2014 - 11:52

 キリスト教信者とはイエスを自分自身の人生に取り入れる人です。人間イエスを自分の心に織り込むことは真のキリスト信者であることの中核です。イエスが最優先されるのです。教えや戒律は大事ですが、二の次になります。

 今日の福音(ヨハネ4:5-42)は、初めての人もより深く知ろうとする人にとっても、イエスとの出会いへの招待です。この福音はイエスと私たち自身について多くのことを教えてくれます。人間イエスについては次のようなことが書かれています。

(1)イエスは人間らしい人でした。私たちと同じ様に、疲れたり、喉が渇いたりしました。

(2)イエスは神であります。サマリアの女の心の秘密を見抜いていました。そして神だけしかできない約束、心の渇きをいやす永遠の水を与えることを約束したのです。

(3)イエスは人を裁きませんでした。イエスは人をあるがままの姿で受け入れました。イエスはサマリアの女が5回結婚したのちに別の男と同棲中であることを知っていましたが、とやかく言うことはありませんでした。

(4)イエスは一杯の水を所望することから会話をはじめました。そして最も興味深い話にサマリアの女との会話は移っていきました。最初は普通の水について話していたのに、話の内容は深くなり、心の渇きを満たす永遠の命の水を与えることを約束したのです。これはイエスは私たちを神との暖かい関係に導いてくれることを意味しています。これは私たちに平安をもたらすのです。

 西暦430年に亡くなった聖アウグスチヌスは「ああ神よ、あなたは私たちをお造りになったのですから、私たちの魂はあなたのもとでなければ安らぐこととができません」と祈りました。イエスは私たち一人ひとりに「私のところに来なさい。そうすれば休ませてあげよう」と言っているのです。

サマリアの井戸の話は2,000年前の出来事というだけではありません。私たちも祈りを通じてイエスと出会い、イエスと心の通った会話をするように招かれているのです。開かれた心を持って、つまり空っぽのバケツを持って、イエスの井戸へ行きましょう。そうすれば私たちは安らぎと平安を味わえるのです。そしてその賜物を他の人々とわかち合うことをあのサマリアの女が助けてくれるです。

金, 03/28/2014 - 06:34

 今日の福音(マタイ17:1-9)ではイエスの弟子ペテロ、ヤコブ、ヨハネと共に高い山に登った情景が描かれています。ここでイエスは真の神であることを示す栄光に包まれました。この後に、私たちは同じペトロ、ヤコブ、ヨハネと共にゲッセマネの園で憂いに沈んでいるイエスを見ることになります。それはイエスが真に人間であるということを示す暗い夜でした。福音書で描かれているこの二つの情景を併せて見るとイエスが100%人間であり、100%神であるということが分かります。

 遠藤周作は「私にとって神とは」という美しい本を書きました。ちょっと待ってください! 静かにして、あなたが「神」と言う時、どんな神をイメージしていますか?あなたにとっての神とは誰でしょうか?

 イメージは百人百様です。私の神のイメージをお話しますと、私は人間イエスに会うために福音書を開きます。イエスは穏やかで優しく、思慮深く、人間のはかなさを良く理解しています。イエスは人の痛みをよくわかってくれます。私は、これこそ今日の私に対する真の神の心である、と思うのです。イエスは人間の心における神が与えた愛なのです。イエスは神ご自身の自画像です。

 そして私はイエスが優しい父「アッバ」と紹介される福音書を読み続けるのです。特にルカ15章で描かれている、わが子を理解し愛する父(慈愛に満ちた父親)の姿に出会います。イエスは親を信じる子供が父を呼ぶ名前、「アッバ(おとうちゃん)」を遣っています。

 そしてイエスはイエスの道をたどるために必要な勇気と力を与えてくれる神、聖霊について教えてくださいます。

 最後に私はこれらの神の三つの側面を統合する唯一の神を心から信じています。神の三つの内面を信じることは神秘です。わたしが何とか成し遂げようとしている神へのお返しは、私の面倒を見てくれる神を信頼することです。アブラハムのように、自分がどこへ行くのかも知らずに砂漠へ旅立とうと努力しています。(ヘブライ11:8)イエスは生きている声で「恐れるな、私はあなたと共にいる」と言っています。

金, 03/14/2014 - 09:09

 四旬節は単にお酒やお菓子といったものを我慢する時ととられてしまうことがあります。しかし日曜日ごとに読まれる聖書は、神の素晴らしい優しさを強調しています。私たちが神を忘れたり罪を犯している時ですら、神は私たちを全面的に受け入れてくださっているということが強く言われているのです。

 今日読まれた創世記では神が私たち人間を創ったことが描かれていますが、その人たちは神を否定してしまいました。しかし、ここをよく覚えておいてください。神はそうされても人間を拒まなかったのです。今日、私たちが存在するのは、神が私たちの両親を経由して私たちに命をくださったからです。いったん私たちを創ると神は私たちを拒んだりしません。神の愛は無条件なのです。私たちは神を忘れるかもしれませんが、神は私たちを絶対に忘れないのです。

 詩編51は「豊かなあわれみによってわたしのとがをゆるしてください」と祈る、美しい詩編です。神の慈しみは真に素晴らしいものです!

 今日の福音の中で、イエスは悪魔の王サタンから三つの誘惑を受ける情景が描かれていました。パンの誘惑は神を忘れ現世の物質に頼る誘惑でした。寺院の屋上での誘惑は、名声を得るために壮大な事を行うというもので、それは神が一人ひとり面倒を見てくださるということを信じないという誘惑でもありました。王国を見るという誘惑は力を自分自身のために使うという誘惑でした。イエスが受けた誘惑をじっくり見てみると、これらは私たちも同様の誘惑をしばしば受けているということに気がつきます。

 イエスも誘惑を受けたという事実は、彼も真に人間であったということを意味しています。(次の日曜日の福音、「イエスの変容」ではいえすが真に神でもあったということが述べられます。) このことは私たちの神イエスがとても近づきやすい存在であるということを示しています。彼は人間であることを経験したのです。

 イエスはこの世に良い知らせを伝えるためにやってきました。天からの良い知らせとは、私たちの神は人間一人ひとりを、その人が良いからということではなく、ただ神が創られたからという理由でとても愛しているということなのです。

土, 03/08/2014 - 03:16

 物質主義とは物質を優先する現世の価値観を表現する専門用語です。そこでは神および人間の信仰生活は忘れられるか、脇に置かれてしまいます。物質主義は現代社会の一部としてあまりにも確立してしまったので、私たちのようにキリストの道をたどろうとする者ですら微妙に影響を受けてしまいます。だからこそ今日イエスが福音を通して私たちに挑んできた次の言葉をよく考えてみましょう。「あなたは、神とお金両方の奴隷になることはできない」(マタイ5章24節) 現代社会において、私たちのお金が増えたからといって、もっと幸せになるわけではありません。より多くのモノを持っていますが、安らぎが増していることはありません。食べ物は豊富になりましたが、たくさんの食べ残しが捨てられています。Eメールを送信することはできても、真の友情を味わえるような心と心の通じた会話を本当にはしていません。合理化のための道具がいろいろあっても、ただ単にリラックスする時間が以前より少なくなってしまってはいませんか?

 私たち自身の心の奥底を検証してみましょう。一人ひとりが次のように自問してみるのです。「本当に幸福なのだろうか?」「安らぎを得ているのだろうか?」「人生で何か足りないものがあると感じているのではないか?」 しかし最も大事な質問は「私は、あたたかく信頼と愛に満ちた関係を神と持っているだろうか?」というものです。

 今日の朗読箇所は真に美しいものです。イザヤ49章14-15節は、母が子を愛するように神が私たちを愛し、面倒を見てくれ、忘れることは決してない、と言っています。私たちのアッバ、神である父は鳥がそれぞれどこを飛んでいるか、花がどこに咲いているか知っているとイエスは言っています。鳥や花に対してでさえそうなのですから、私たち人間に対する神の愛はどんなに大きいものでしょうか。神は私たち人間を一人ひとり、それぞれの名前で呼んでくださいます。神は私たちを特別な子供として愛してくださいます。神はこのことを、まさしく神であるがゆえにしてくださいます。詩編62はとても美しい、信頼の祈りです。

 もし神が私たちの面倒を見てくださると信頼するならば、私たちの日常の生活は特別な味わいがあるでしょう。私たちは安心して幸福になるのです。物質はそんなに重要なものではないのです。神を第一におけば、人生は意義に満ちたものになるのです。

金, 02/28/2014 - 18:12

 聖書は私たちに慰めと挑戦を、美しいバランスをとりつつ、与えてくれています。私たちは苦しみに直面した時には神からの慰めを必要としますが、成長のためには挑戦も必要です。今日の朗読箇所は明らかに挑戦です。イエスは次のような言葉で私たちに挑戦しています。「あなたの敵を愛しなさい。あなたに危害を加える者のために祈りなさい。」 イエスは何を言いたいのでしょうか?   

 まず、「敵」についてです。イエスはこの言葉を広い意味で使っています。イエスは戦争や戦いでの敵ばかりでなく、私たちを傷つけ心に傷を負わせた人も含んでいるのです。例えばあなたを裏切った人、暴言であなたを傷つけた人、激しく口論をした相手、虫の好かない人、あなたに合意してくれない人等々です。イエスの言う「敵」はとても広い意味を持ち、私たちの日々の生活に出てくるものなのです。

 次に「あなたの敵を愛しなさい」についてです。ここで言う「愛する」は良い感情ではありません。それは、相手をあるがままの姿で受け入れるということです。たとえその人が悪い人であったとしてもです!

 今日の福音でイエスが私たちに教えているのは、私たちの父である神のでいるためには、私たちを傷つける人を許し、愛さねばならないということです。さあ、これは挑戦です!

 こんなことは不可能だと言う人もいるでしょう。そうです、確かに私たち自身の弱い人間の努力だけでは不可能です。それは私たちが神の力に頼った場合にのみ可能となります。

 自分を傷つける人といつも向かい合うことはできませんが、自分自身に向かい合うことはできます。

1.祈りを通じて優しいイエスと出会い、祈りの中であなたの傷を考えてみましょう。

2.自分ひとりだけの努力ではその人を許すことができないと認めましょう。

3.人間の心をよく理解しているイエスに助けを求めましょう。

4.神が自分を許してくださった過去の場面を思い出しましょう。私たちの裏・表をともによく知っている神が常にあるがままの私を受け入れてくださっていることをよく考えましょう。(詩編103の特に8節)

5.祈りの中で自分自身に語りかけてみましょう。「神が私を許して下さるのであれば、私も許そう」

6.イエスが十字架につけられた場面を想像してみましょう。ローマ兵がイエスの手に釘を打ちつけました。長老たちはイエスを嘲笑しました。イエスは「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分たちが何をしているかわからないのです。」 このことは私たちの模範です。

 

 

金, 02/28/2014 - 19:47

 今日の第一朗読(詩編119)と第二朗読(1コリント2章6-10節)のテーマは「知恵」です。聖書で言われているこの「知恵」とは何でしょうか。聖パウロは、これは世間での「知恵」とは異なる別物であると言っています。世間での知恵とは、学者と呼ばれる人たちが作り出しているものです。一方、真の知恵とは神からやってくるもので、全く神からの賜物なのです。

 私たち一人ひとりがこの真の知恵を必要としていることを認め、これを授けてくれるよう神に頼みましょう。

 神が与えてくれる知恵は、神がどのようなものであるか示してくれます。神とは罰する神ではなく、人間の弱さをよく理解し、私たち一人ひとりを愛してくださいます。私たちの神はいつくしみに満ちた方です。私たちは神を「アッバ(おとうちゃん)」と呼び、私たちはその愛する子供たちです。このことを頭で理解することはできますが、心で本当に感じるためには知恵の賜物が必要なのです。

 十字架刑を連想させる十字架の残忍性や苦痛を嫌う人がいます。しかし真の知恵はこの残忍性の裏には愛があることを教えてくれます。私たちのために天国の門を開けるために、イエスは自分の命を惜しげもなく捧げたのです。

 真の知恵は私たちの人生の目的地が天国であると教えてくれます。

 恨みや反感を持っていて、心の平安を得たいならば、和解が唯一の解決策でsると真の知恵は説いています。

 イエスの道の様々な掟は決して束縛ではなく、平安と幸せのための道しるべであると真の知恵は教えます。

 助けを必要としている人々に救いの手を差し伸べることによってのみ、私たちは神を愛することを学べると真の知恵は言っています。助けを必要としているのは貧しい人、ホームレス、苦しみ、悲しみ、孤独に苦しんでいる人々です。

 これらの事柄を私たち人間の力だけでは実行できないと真の知恵は言っています。神にその力を頼みましょう。そうすれば神は与えてくださいます。

 聖書に次のように書かれています。「あなた方のうちで知恵を必要としている者は、神にそれを求めなさい。神は与えてくださいます。神は気前良いのです。」(ヤコブの手紙1章5節)

 

 

水, 02/12/2014 - 08:47

 今日の聖書朗読には「光」と「分かち合い」という二つのキーワードがあります。洗礼式の際に受洗者は火がともされたローソクを与えられ、「光の子として歩みなさい」と言われます。
 私は自分の人生を振り返ってみて、自分が得た最大の賜物はイエスを知ったことであったと思います。イエスは私の人生の光であり続けています。私の人生の中には、病気の時など、とても深く暗い闇の時期がありました。しかしこの深い闇の時期にあっても常に一筋のかすかな光がありました。キリストの光を見たり感じたりすることができなかった時でも、今思えばそれはちゃんとあったのだと実感します。キリストの光は実にしばしば私に訪れる人を通してやってくるのです。
 今日の聖書は私たちに次の二つを実践することができないかと問いかけています。
 まず、私たちは神からどれほど与えられているかを実感しましょう。私たちキリスト教信者はこの世で最も豊かなのです。私たちに光をもたらしたイエスに私たちは会っています。この光は私たちの日々の暮らしに意味、味わい、進むべき方向を示してくださいます。私たちがどんなに恵まれているかよく認識しましょう。
 次に、その理由は私たちにはわかりませんが、神は私たちを選び他の人々と分かち合うようにと賜物を与えてくださいました。キリスト教徒は絶対に社会の他の人々から切り離されたエリート集団になってはなりません。日本ではキリスト教徒は1%未満です。他の99%の人のために何らかの形で私たちは働きかけなければなりません。闇の中の光になるためには、まず自分の家庭、学校、職場から始めましょう。光であるということは、具体的には優しく、思慮深いということを意味します。また他者を許すということでもあります。マザーテレサは「平和の始まりは微笑みからです」と言っています。闇の中の光になりましょう。
 あなたは心に傷がありますか?イザヤ58章7-10節を読んでみてください。もしあなたが心に傷を負っていたとしても、苦しむ他人に優しく親切にすることで、自分の心が癒され、夜明けのように心が輝き始める、と神は言っています。光の賜物を私たちはいただいているのです。この賜物を他の人々と分かち合いましょう。
 

月, 02/03/2014 - 10:36

 今日はイエスの奉献の祝日で、主日の聖書朗読も、今年はそれに関するものになっています。
 奉献は、生後40日経ってから両親がお宮参りするというユダヤの伝統に由来があります。彼らはこのように祈りました:「神よ!あなたはこの子を授けてくださいました。私たちはこの子をあなたにお捧げいたします。あなたの助けにより、私たちはこの子を導くことができます(ルカ2章22-40節)。
 この祝日は私たちが自分自身を神に捧げることを求めています。「あなたの御手に私の生涯をゆだねます」(詩編31章6節、16節)
 聖書や聖書朗読において、私たちは「捧げる」「奉献」「奉納」といった言葉をしばしば使います。これは信頼を含んだ、私たちの神への態度を示しています。神が私たちのすぐそばにいて、私たちを守ってくれるということを悟り、神が私たちを愛してくださっていると深く感じる態度、でもあります。神は私たちの弱さを理解し、ありのままで受け入れてくださいます。私たちが望むならば、神は私たちに力を与えて下さるのです。
 全生涯を通じて、イエス自身もこの奉献の人生を送りました。十字架上で死を迎えた際も、イエスは詩編31章「アッバ!あなたの御手に私の生涯を捧げます」と祈ったのです。 
 毎回のミサの奉献の時に、私たち自身を神にささげましょう。これはその週のあなたの行い、仕事、遊び、祈りなどすべてを神に捧げる、ということです。それは事務所や工場、家庭での仕事、学校での勉強や家族の中での母としての役割などすべてが対象となります。この奉献は、あなたの希望、痛み、悲しみ、失敗、そしてもちろんのことあなたの喜びや成功などについても対象となります。祈りの時間そのものも奉献することができます。しかし、よく覚えておいてください。この奉献により、あなたの毎日の仕事自体が、無言の祈りとなるのです。全てを神に捧げるという態度が、私たちのありふれた、平凡な日常を、美しく味わいがあるものに変えるのです。
 特にミサに参加する時、私たち自身を優しい神に捧げましょう。そして毎日新しい朝を迎えるときに、この思いを新たににし、「アッバ、父よ!私はあなたが愛する子供です。あなたの御手に私の生涯をゆだねます!」と祈りましょう。

 

水, 01/29/2014 - 14:33

 昨年は12月まで保土ヶ谷教会にある私の小さな畑ではトマトが大豊作で、とても美味しかったのです。大豊作で美味となったその訳は、昨年から日照がとても良くなったことからでした。日光が特別な命、成長と風味を与えるのです。光の素晴らしさと美しさに私たちは気づいているでしょうか?

 私たち人間の心と魂も、同じように、光を必要としています。私たちは人生における成長のために、また平凡な日常に味わいを与えるために、光を必要としています。

 神であるイエスは私たち人間に光を与えてくださります。イエスは「私は世の光である。私に従う者はは闇を歩くことはなく、光と命を得るであろう(ヨハネ8章12節)」と言っています。今日の第一朗読(イザヤ9章1節)と福音(マタイ4章16節)においても「闇に歩く人は偉大な光を見る」という言葉が出てきます。イエスは私たちの心の光であり、希望と勇気を与えてくれるのです。

 私たちの教会は、私たちの人生の光イエスの象徴として、ロウソクを用います。復活祭用の特別なロウソク、ミサ聖祭の祭壇のロウソク、聖櫃の上のロウソク、これらの光はイエスは私たちと共にいるということを示しています。洗礼の時、私たちはロウソクを受け取ります。この時神父は「キリストの光を受けなさい。光の子として歩みなさい」と言うのです。

 私の人生において(おそらく多くの他の方々もそうだと思いますが)、暗闇の時がありました。悲しみ、寂しさ、病気、痛み、空しさなどです。しかしこれらの闇の真っ最中でもイエスから与えられたかすかな光がありました。この光が私に希望と勇気を与えてくれたのです。暗闇の中で私は神が聖書で約束してくださった「あけぼののように主、神は必ず来られる」(ホセア6章3節)という言葉にしがみついたのです。私は人生に光を与えてくださった神に心から感謝しています。神は希望と勇気を与えてくださいました。神の光は私の人生に美しい味わいを与えてくれました。イエスはこの光を隣人と分かち合うように言っています。
2千年前に12人の弟子にそのように命じているのです。同じように今を生きる私たち一人ひとりにイエスはその光を他の人々と分かち合うように言っています。今週、誰かの心の中に善意の光が差し込むように、精一杯の努力をいたしましょう。詩編27節を祈りましょう:「主は私の光、私の救い。私は誰を恐れることがありましょう? 主は私の避難所、私は誰を怖がることがありましょう?...勇気をもって主を待ち、勇気をもって、そして主を信じよう」

 

水, 01/29/2014 - 14:40

 今日の福音(ヨハネ1章29-34節)を読むと私たちは洗者ヨハネと出会います。彼はとても人気のある伝道者で、彼の話を聞くため大群衆がついてきていました。聖ヨハネは、しかし、群衆に「私よりもイエスのところへ行き、彼の話を聞きなさい」と言いました。これは真の謙遜です。

 ヨハネは自分の人生の使命は人々とイエスに導くことだと理解していました。「私の後から一人の人が来られる。その方は私にまさる。」と言ったのです。ヨハネは名誉と人気の席をイエスに譲ったのです。謙虚で慎み深い人でした。ヨハネは、楽しく、満足し、自分の仕事を成し遂げた達成感をもって、一生を終えました。

 さて私たち自身はどうかと振り返ってみましょう。謙遜・謙虚とは何でしょうか。さらに重要なこととして、自分は謙虚であるでしょうか?謙遜とは自分をこきおろすことではありません。「自分はダメな人間です。私は何もできません」と言うことは、違います。それはニセの謙遜です。

 真の謙遜は、私たち自身が抱える欠点や弱点をあるがままに直視し、受け止めることです。そして自分の持っている才能について、それらは自分自身のものではなく、神から他の人の為に使うようにと、貸してもらったものであると認識することです。謙虚な人は自分自身と他人と比べません。誠に謙遜である人は自分の弱さをを認め、「私の神こそ私の力」(イザヤ49:5)と言うのです。

 謙虚な人は神から与えられた使命を受け止め、それを実現するため神から力を与えてもらうよう神に頼みます。また他人がそれぞれの使命を果たし繁栄していくことを認めます。嫉妬や競争は私たち自身の心の平和や謙虚さを害するものなのです。

 ここで立ち止まり、自分自身に大事な質問である「なぜ神は自分をこの世に置いたのだろう?神の私ついての計画とは何だろう?」と考えてみてください。この問いに正直に答えることによって、私たちは真の平和と謙遜を見つけることができるのです。

これを私たち人間自身の力だけでできるでしょうか?絶対ムリです。神に頼みましょう。

「神は私の力です。」(イザヤ49章5節)

金, 01/17/2014 - 21:17

  13世紀のフランス王ルイ9世は、歴代の王のように「フランス国王ルイ9世」と公式文書に署名するかわりに、「ポッシのルイ」と署名しました。その理由を尋ねられた彼は、「わたしはポッシにおいて洗礼を授けられ、神の子供となりました。このことは私がフランス王であることよりも意味あることだからです。」と答えたそうです。

  私たちは洗礼を価値あることと思っているでしょうか? 洗礼を通じて神が私たちにしてくださったことを本当に理解しているでしょうか? 洗礼を通じて神は私たちの父となり、私たちはその子となりました。神は私たちをこよなく愛してくださいます。私たちのおとうちゃん、私たちの父である神は、私たちの人生の同伴者としてその御子を遣わしてくださいました。神は私たちに厳粛な契約を結んでくださっています。その契約とは、「あなたは私の子供。私はいつもあなたと共にいる。私はあなたを守る」というものです。ですから、洗礼の日は真にすばらしい日であったのです。

 洗礼を受け、それにより神の命が私たちの中に流れるようになり、私たちは真に神を「私の神」と呼べるようになりました。多くの人たちが洗礼を受け、その文字通り、本当の意味での兄弟姉妹となりました。私たちの父である神は兄弟姉妹同士、お互いに優しくしなさいと求めています。

  洗礼のおかげで私たちは人生の旅路においてもはや孤独ではありません。おとうちゃん、私たちの父である神が守って下さり、イエスが共に歩んでくださるのです。私たちは人生の旅路を私たちの兄弟姉妹たちとともに歩んでいくのです。

水, 01/08/2014 - 03:13

 「主の公現」とは主ご自身が私たちの前に姿を現したことをいいます。今日の福音(マタイ2章1-12節)は二層に分かれています。最初のものは、星に導かれ、イスラエルの外から三人の博士がやってきた歴史的事実です。これは今日を生きる私たちにとって、より深い意味を持っています。三人の博士が非ユダヤ人であったことは、救世主イエスはすべての時代のあらゆる国の民のためのものである、と神が言っていいることを意味します。神は人間一人ひとりを分け隔てなく愛して下さいます。神は無条件に愛して下さるということがわかる能力を与えられている人がいます。その人々は、神によって選ばれたエリートグループではなくて、その信仰の賜物と希望の光を他の人とわかち合うために選ばれているのです。
 三人の博士は星に導かれて旅を続けました。私たちは今日イエスが生きていると信じることによって、良い羊飼いに常に導かれるように、守られ導かれていくのです。イエスは私たちに人生の旅路を歩くガイドとして、聖書と教会を与えてくださいました。
 三人の博士は貢物をイエスの足元に捧げました。そして平安と喜びに満ちて帰国しました。私たちも主イエスに貢物を捧げましょう。私たちが捧げられる最も大きなものは、私たち自身です。信頼を込めて、「主イエスよ、あなたの御手に私自身をゆだねます」と祈りましょう。イエスにあなたの友情と、また毎日祈りの時間を捧げましょう。もし心配事や苦しみ、問題があればそれらもイエスに捧げましょう。また暗闇や誘惑、弱さに直面していたら、そうです、それらの罪ですらイエスに捧げましょう。イエスは、「疲れた者、重荷を負ってあえぐ者はみな私のもとに来なさい」と言っておられます。イエスは私たちに、完全無欠の天使になれ、とは言っていません。イエスはあるがままの私たち、弱い人間の私たちをそのまま受け入れてくださいます。
 私はクリスチャンファミリーに生まれ、小学校から大学まで教会付属の学校でした。そしてキリスト教徒が1%に満たない日本にきたのです。この日本において、私はキリスト教の信仰の賜物のありがたさを、真に実感いたしました。神に感謝をこめて、私はその賜物を皆さまと分かち合いたいと思っています。 

金, 01/03/2014 - 16:09

 旧約聖書にあるシラ書は2,200年前に書かれたものですが、現代の社会においてもとても実用的なものです。シラ書は、この世を神とともに歩んでいくためにはどうしたらよいか、実用的なアドバイスを示してくれます。
 モーセの十戒の第四戒は「あなたの父と母を敬いなさい」です。これは子供たちのためだけに定められたものでしょうか。親が言った通りにするということでしょうか? それらはこの第四戒のほんの一部でしかありません。シラは、親が老い衰えた時には大人になった子供が面倒をみるように説いています。「あなたの両親が老いたならば、その面倒をみなさい。たとえ彼らが呆けても、優しくしてあげなさい。あなたが健康で強いからといって、老いた親を軽蔑してはいけません」(シラ:3章12~13節)
 これはとても美しい一節です。しかし健常である私たちは、老親の耳が遠くなったり呆けて物事を理解できなくなったりした時には、すぐに頭に来てカンシャクを起こしてしまいます。そのような老親に優しく接するようにできるためには人間の力だけでは足りません。言いかえれば、神が喜んで与えてくださる、神の助けと力を必要としているのです。祈りを通して神にその力をお願いしましょう。
 すべての家庭においてケンカはあるのです。今日、聖パウロは次のように言うのです。「お互いに譲り合い、ケンカになりしだい相手を許しなさい。主があなたを許してくれたのですから、あなたがたもお互いを許し合いなさい」(コロサイ3章13節) それでも、もし誰かから心を傷つけられたならば、許すことはほとんど不可能です。その不可能であることと、自分の無力さを認めて、神に助けを求めましょう。神があなたを数えきれないほど許してくれ、神の愛の中に受け入れてくれたことを思い出しまして、私たちも見習いましょう。
 ヨゼフ、マリア、イエスの家庭を見てみましょう。時として、彼らは困難、誤解や苦しみに直面しました。今日の福音書では、彼ら一家が外国に避難する情景が描かれていました。どんなに寂しく、また動揺したことででしょう。しかし、そのような苦難の真っ最中でも、神は助けてくださるとの信頼は揺るぎませんでした。私たちも神を信頼しましょう。イエスは大人になってから、孤独、拒絶、誤解、そして裏切りに苦しみました。私たちよりももっと前に、イエスはこのようなことを経験なさっていますので、信頼してイエスのもとへ行きましょう。

日, 12/29/2013 - 06:17

 2000年前に新約聖書が書かれた時に著者が使用した言葉はギリシア語でした。ギリシア語は、当時、私たちがヨーロッパ、ロシア、北アフリカと現在呼んでいる地域の共通言語でした。著者は古典ギリシア語ではなく普通の人々のギリシア語を使いましたが、いくつかはギリシア語の中にイエスが使ったヘブライ語を発音そのままで使いました。その例として二つの言葉、「アッバ」と「インマヌエル」があります。二つともに神に関する言葉です。アッバは私たちの愛情深い、お父ちゃんである神のことです。インマヌエルはイエスに関する意味で、「神は我々とともにいつもいる」という意味です。

 「インマヌエル」は真のクリスマスを意味しています。御子は天の栄光を脇に置き、真に本当の人間となりました。その時から神は遠くの神ではなく、私たちとともにいる神となりました。普段私たちは「ともに」という言葉にあまり気をかけませんが、ここではとても大事なことなのです。イエスを通しての私たちの神は私たちとともにいます。私たちの人生の旅路に寄り添って、ともに歩いてくださるのです。私たちの神イエスは、人間の弱さや苦しみを経験なさったので、私たちのことをよくわかってくださいます。弱い人間のままの私たちを受け入れてくださるのです。

 私たちの神であるイエスが、毎日の私たちの暮らしにおいて、「ともにいる」ということをよく考えてみましょう。日常の仕事、職場や家庭において、イエスは私たちの傍にいて勇気や導きをくださるのです。イエスを自分の日常の暮らしに呼び込みましょう。喜びの時も悲しみの時もイエスはともにいるのです。コンピューターで仕事をしているときも、勉強や遊びをしているときも、あるいは健康な時も病気の時も、ともにいるのです。イエスは特に私たちが悲しかったり、孤独であったりするときにともにいてくださいます。私たちがおそれおののいている時に、イエスは「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と言ってくださいます。

 ヘブライ語「インマヌエル」は聖書を通して、クリスマスの準備のために、私たちに与えられました。ですからその意味をよく考えてみましょう。私たちの神は人間となり、そして私たちとともにいるのです。今日もイエスは私たちの間に生きているのです。イエスはそんなにも近くにいるのですから、祈りを通じて私たちの心を開き、イエスを迎え入れましょう。どうかこのクリスマスの時期にイエスの平和をあなたが味わうことができますように。

土, 12/21/2013 - 07:03

 待降節第三主日は「喜びの主日」とも言われています。待降節に飾られるリースには特別な桃色のロウソクが飾られます。喜び、あるいは歓喜という言葉が、第一朗読のイザヤ書(35章1-10節)の中で7度も使われています。
 教会は「信仰の喜び」という表現を使います。これは何を意味しているのでしょうか? そしてあなたは今、この信仰の喜びを味わっているのでしょうか? この二つはとても重要な問いかけです。
 私たちは試験に合格したり、何かに成功したりすると喜びます。また、友だちと楽しい時を過ごしたり、友情を感じたりすると喜びを覚えます。これらは、信仰の喜びは何であるか理解する手掛かりとなります。まず、信仰とは神からの賜物、神が私たちに与えたいと望んだ賜物です。矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、私たちは失敗、挫折、孤独の中においても、この信仰の喜びを味わうことができるのです。それは神が私たちに与えたいと望む真に素晴らしい賜物なのです。
 信仰の喜びは私たちが、神が私たちをあるがままで受け入れてくださる、そして100%の愛で私たちを愛して下さる、と深く実感することにより味わうことができます。洗礼を授かった時に、私たちの神、優しい「おとうちゃん」である御父は私たちのそばにずっといて私たちを愛し、導びくと厳粛な誓いを立ててくださいました。もし私たちが時として神を忘れ、神から逸脱してしまっても神は決して私たちを愛することを止めたりはしません。神の私たちへの愛は無条件かつ永遠のものです。私たちは神の愛に包まれているのです。このとてつもない慰めとなる事実を実感することで信仰の喜びを得ることができるのです。天の父、おとうちゃんは私たちにイエスを与えることでその愛を証明しました。
 今日読まれたイザヤ書(35章1-10節)で預言されたように、イエスは救い主でした。イエスはイザヤ書のとおり、弱った手に力を込め、よろめく膝を強くし、心おののく人に「雄々しくあれ、恐れるな」(イザヤ書35章3-4節)と言うのです。これはイエスご自身の言葉「疲れた者、重荷を負ってあえぐ者、私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)に共鳴します。
  聖ヤコブは第二朗読で次のように言っています。「互いに不平を言ってはいけません」(ヤコブ5章9節) 自分の人生を振り返ってみて、自分を傷つけたどうしても許せない人がいるでしょうか? そのような許しがたい心は、神の喜びを味わうには障害となってしまいます。
  このクリスマスに、謙虚に神に喜びの賜物を願いましょう。そのためには、伝統的な聖書を使った次の祈りをお勧めします。「主イエスよ、来てください」(黙示録22章20節)
 
 

火, 12/10/2013 - 08:04

   聖書は人生の旅路におけるすばらしい道しるべです。聖書は慰めに満ちた励ましであるとともに、挑戦を私たちにバランスよく投げかけてくれています。私たちは傷ついた時には慰めが必要ですが、私たちが成熟するためには挑戦も必要です。今日の聖書朗読の箇所はこの慰めと挑戦が見事にバランスをとって表れている良い例です。

 あなたは平和を欲していますか?わたしはそうです。平和への希求は人間の基本的なものです。私たちは真の平和は神からの特別の賜物と考えます。あなたは自分の心の中の平和を希求しますか? あなたの家庭の中の平和はどうでしょうか?あなたの職場での平和、日本における平和、そして全世界での平和についてはどうでしょうか?

 イエスが私たちに教えて下さった平和を味あう方法があります。まず、自分達自身の問題を忘れ、自分自身の不安を脇に置き、自分自身の利便を我慢しましょう。そして他の人を慰め、他の人の問題に耳を傾け、他の人に真心を捧げましょう。神は、他の人のことを考えるような人に宿り、平和の種をその人の心に植えるのです。イエスは「平和を作りだす人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう(マタイ5-9)」と言っています。

 さて私は皆さんにイザヤ11章1節から10節を読んでいただきたいと思います。しかしそれはあくまでも詩として読むべきものです。字句通り読んでしまってはいけません。詩のイメージの背後にメッセージがあります。約束された救い主がやってきて平和をもたらす、というものです。オオカミは羊の天敵ですが、どちらも平和に生きていきます。私たちの神に話しかけ、神の平和を欲していることを伝えましょう。

 そして挑戦です。洗者ヨハネはヘロデ王、大祭司や一般の人々に挑戦しました。彼は現代に生きる私たちにも挑戦しています。ヨハネはこう言うのです。「悔い改めなさい」と。これは、「お金や物、この世の栄達を人生における最重要目的にせず、あなたの人生を神に捧げなさい」という意味です。また、「もしあなたが誰か許せない人、恨みを持っている人がいたならば、その人を許してあげなさい。その人のあるがままを受け入れなさい。」という意味です。

 「イエス・キリストが手本としてお示しになったように、お互いに寛容でありなさい」(ローマ人への手紙15章5節)

 神はあるがままの私たちを受け入れてくださいます。私たちもあるがままの他人を受け入れましょう。それがあなたがたに平和をもたらすでしょう。

 

金, 12/06/2013 - 03:27

 今日から待降節が始まります。待降節とはイエスキリストの誕生の祝い日(クリスマス)の準備を行う24日間のことを言います。この時期に私たちは、この世における短い人生の根本について、今一度思い起こすのです。イザヤ書(イザヤ2章3節)では「主の山に登ろう、そうすれば私たちが主の道を歩めるように主がその道を教えてくれるだろう」とあり、私たちの人生の旅は山に登るようなものと例えられました。

 私たちのこの世における人生の目的は何なのでしょうか? 人生の旅路の末路は何なのでしょうか? 私の終点、目的地は何なのでしょうか。これらは、もし私が賢ければ、毎日の生き方に影響を及ぼすとても根本的な命題です。

 まず基本的に神は私を特別な人としてお造りになりました。私たちは神から来ており、また神のところへ戻るのです。私たちはこの世に生まれ、また天国の神のところへ再び生まれようとしているのです。実際にはとても短いこの世での一生を、死後、神との永遠の幸せに入れるように、生きましょう。

 人生の旅路は一人ぼっちで歩むものではありません。イエスは私たち一人ひとりに、「恐れるな、私はあなたと共にいる」と言っておられます。イエスは私たちに力と勇気とお導きを下さいます。福音と祈りを通じてイエスに出会いましょう。

 祈りとイエスとの親しい交わりによって、自分が平和の担い手になることができます。「平和の担い手となった人は幸いである。彼らは神の子と言われる(マタイ5章9節)。」平和の担い手は、それぞれ個人の小さな努力の積み重ねによって、剣を鋤に、槍を鎌に鍛え直す(イザヤ2章4節)ことができます。(ここで、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。現代において、剣や槍とは何にあたるか、鋤や鎌は何を意味するのでしょうか。)

 平和に貢献するなど一人の力では小さすぎてどうしようもない、などとは言わないでください。平和の担い手は、まず自分自身の家、学校、職場、そして休養の場などから始まります。あなたの許しを必要としている人はいませんか? マザーテレサのアドバイスに従ってみましょう。 「微笑みは平和の始まりです。」 今週から始めてみましょう。

日, 12/01/2013 - 07:31

 今日11月17日から聖書週間が始まります。これに伴い今日は聖書を用いた大昔からの祈り方について見てみてみましょう。このやり方はラテン語でレクティオ・ディヴァイナと呼ばれており、次の段階を踏んで行ないます。
(1)まず、神に導きを乞いましょう。
(2)聖書の読む場所を決め、その部分をとてもゆっくりと読むのです。そして再読し、さらにもう一度きわめてゆっくりと、祈りの心を持って、読むのです。この時イエスにこの聖書の箇所を、ちょうどエマオへ打ちひしがれて帰る二人に諭したように(ルカ24:13-35)、私にも諭してくださいと頼みましょう。もし自分の心に響く箇所や言葉、あるいは何らかの形で大事なものが感じられたら、書き留めておきましょう。
(3)その言葉や聖書の一部をじっくりと時間をかけて味わいましょう。その部分を知性によって分析するのではなく、心と感性で神の存在を味わいましょう。そして聖霊があなたを導くことにまかせるのです。この時間は静寂の時であって、神との交流に言葉はいらないのです。
(4)神の存在を静かに味わったり、イエスとともに過ごした後は、今度は言葉を使うのです。天の父おとうちゃん、あるいはイエスとあなたの心に残る聖書の部分について語りかけるのです。(3)の静かな時に感じたあなたの考えや気持ちを祈りを通じて話してみましょう。
(5)最後に、天の父あるいはイエスとともにただ安らぎ、聖霊があなたを愛に満たすよう身をまかせましょう。考えたり言葉を使うことはしません。この最後の段階では神の存在の前で、シンプルに言葉を用いない瞑想によって、くつろぐのです。ここでは神が私たちに、もし神が望むならば、語りかけてくるような機会を作るのです。
 今日、この年間第33主日に読まれた聖書の中で、私には以下の言葉が響きました。
 「神の陽は癒しの光を放ち、輝く」(マラキ書 3:20)
 主よ、どうか私たちにあなたの暖かい癒しを注いでください。
 「あなたの髪の毛の一本も損なわれることはない」(ルカ 21-18)
 主よ、あなたは私のことをよく知ってくださっています。あなたは本当に私の面倒をよくみてくださいます。私はあなたを信頼します。

日, 12/01/2013 - 07:43

   私は遠藤周作著「イエスの生涯」が好きです。これは英訳もされています。遠藤は人間イエスを生き生きと描いています。読むうちに私たちは遠藤の言葉を真剣に受け止めざるを得なくなります。それは、私たちが人間イエスと出会う時、同時に真の神の優しい心と出会うからです。言い換えれば、この本は、今日の第二朗読にある、「御子(イエス)は見えない神の姿である」(コロサイ1-15)ということを下敷きに書かれているのです。

 今日私たちは「王であるキリスト」を祝います。しかし現世の王はとても遠い存在です。彼は宝石で一杯の冠を被り、極めて高価なローブを着ています。権力を持ち、壮大な宮殿に住んでいます。しかし、「王」であるイエスは全く逆です。イエスを理解するためのキーワードは、「牧者」(2サムエル記、1-2)です。いにしえのダビデ王のように、イエスは羊飼い、牧者の王でした。牧者は自分の羊たちを護り、水場や餌場へ連れて行きました。羊をそれぞれの固有の名前で呼び、オオカミやワシなどの天敵から命を懸けて守りました。羊たちのために自らの命をも捨てたのです。

 ですから、今日の福音(ルカ23-35~43)において描かれていたのは、十字架上の私たちの牧者でした。冠はかぶっていましたが、それはトゲのあるイバラで編まれたものでした。彼はあなたや私への賜物を勝ち取るために、自分の命を捧げようとしていました。手や足に釘が打ちこまれた痛みを想像してみてください。その痛みのさなかに、イエスは自分の右側に張りつけられた泥棒から「イエスよ、どうか私を覚えておいてください」という懇願の声を聴くのです。痛みにもかかわらず、優しいイエスは、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる(ルカ23-42)」という希望に満ちた言葉をその男にかけたのです。

 この福音(そしてそれを下敷きに書かれた遠藤周作の作品)を読むと、私たちは優しい、理解に富み、そして慈悲深いイエスに出会うことができます。同じイエス、神であるイエスは今日も生きていて、私たちを守り、導いてくださいます。彼は私たちの牧者なのです。
 聖書を開き、福音を読んでみましょう。そしてイエスと話してみるのです。「イエスよ!」と悔い改めた泥棒のように、名前で呼んでみましょう。今日私たちは、イエスの言葉「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」という声を聴きます。そしてやがて私たちが死に近づく時には、「今日、あなたは私とともに楽園にいる」という声を聴くのです。

木, 11/14/2013 - 22:34

   私たち誰一人として逃れることはできない経験として、「死」があります。しかし、死は人生の終わりではありません。それは別のより良い人生の入り口です。死は私たちの人生の終着駅ではなく、神とともに永遠に過ごす人生への乗換駅なのです。天国において私たちは、完全なる幸せと平安を得るのです。

 今日の聖書朗読では私たち自身の復活、つまり死後の私たちの人生について語られています。マカバイの7人兄弟とその母は拷問によって亡くなりました。彼らは神と共に楽しむ死後の世界に希望を持って苦しみに耐え、それゆえ勇気と忍耐を得たのです(第二マカバイ7章1-4節)。この話は長崎の26人の殉教者ととても似ています。26聖人は天国を楽しみにしながら苦しみに耐えたのです。

 福音書(ルカ20章27-38節)では、イエスの時代に存在したユダヤ教サドカイ派の人々が出てきますが、この人たちは復活や死後の世界を信じていませんでした。しかし彼らはイエスを陥れようと、馬鹿げた、屁理屈をこねたような質問をしました。これに対してイエスは、天国での人生は地上におけるものとは全く異なる(例えば、結婚は存在しない)と言っています。天国にいる人々は地上の人々とは全く異なるのです。彼らは神と結ばれ、神の愛の温かさをお互いに楽しんでいるのです。
 
私たちの神は「生きている神」であるとイエスは言っています。私たちが祈る時、私たちは生きている神と出会います。神は私たちに近い存在です。詩編17章にあるように、神は私たちの祈りに耳を傾けてくれます。神は私たち一人ひとりを名前で呼んでくださいます。神は私たち一人ひとりをとても価値ある存在として見てくださり、愛してくださいます(イザヤ書43章1-5節)。私たちの死後、この神とともに天国で過ごす暮らしはとても楽しいものでしょう。ですから今からそれに備え、祈りを通じて神との交わりを楽しみましょう。

 私たちがこの世に生まれ落ちたときには、私たちは母親の腕の中に居ました。この世を去る時には、天の国で神である父の腕の中に降りるのです。私たちは、イエスが言ったように、神を「アッバ」と呼びます。「お父ちゃん」という意味です。

 このように私たちの復活を教えてくれたイエスに感謝しましょう。そのおかげで、私たちに大きな希望があるのです。

 

日, 11/10/2013 - 05:59

 ルカ19章1-10節にある、美しく色彩に富んだザアカイの話を読んでみましょう。この話のように、素晴らしい慈しみと理解力を持ったイエスは、同じイエスとして今日も生きているのです。私たちは祈りを通じて彼に会うことができます。そしてまた、ザアカイも、同じように違う形で生きています。ザアカイは自分自身なのです!  自分は徴税吏でも金持ちでも指導者でもないかもしれません。しかし、ザアカイと同じく、心の中では不安や神への憧れがあり、イエスと出会い、もっと深い形でイエスとの交流を楽しみたいと私たちは願っているのです。本当の心の平安を深く望んでいるのです。

 有名な神学者ロマノ・ガウディーニは「神学からの祈り」という本の中で、次のような祈りを紹介しています。「おお主よ、私に聖なる不穏をお与えください。そして私の手を取り、あなたに出会えるように導いてください」 ここでいう「不穏」は心配や不安などではあるものの、落胆させるものではなくイエスへ会いたいと渇望させる健全なものを指しています。イエスだけが私たちの憧れを完全に満たし、平和を与えてくれるのです。

 この同じ憧れが詩編42と63に出てきます。「谷川の水を求めて歩きさまよう鹿のように、神よ私の心はあなたを慕う。私の心は、わたしの命の神を求め、渇望する。」(詩編42章1-2) 

 あなたは自分の人生に何か欠けていると感じていますか。真の平安を渇望していますか。もしそうであるならば、ザアカイの話を読んでみてください。ザアカイのように、あなたはイエスのもとに走り寄りますか? 体面を捨てて、イエスを見ようと木に登りますか? もしそうであったならば、イエスはあなたご自身の名前を呼んで、優しく「一緒にご飯を食べ、楽しくおつきあいしましょう」と言ってくださいます。深い愛情のまなざしで、あなたを見てくださるのです。

 残念ながら私たちはしばしば、この「聖なる不穏」から逃げ出してしまいます。テレビを見すぎたり、忙しすぎたり、飲みすぎたり、世事にとらわれすぎたりして、「聖なる不穏」を覆い隠してしまうのです。

 今週、あなた自身のためにしばし静かな時間を持ちましょう。聖書のザアカイの部分を読み、自分自身がザアカイになった気持ちで、自分自身の「聖なる不穏」と向き合うのです。祈りの中でイエスと出会うのです。イエスは、今日も生きている声で、あなたに言ってくれるでしょう。「疲れた者、重荷を負ってあえぐもの、私のところへ来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

 

水, 10/30/2013 - 09:31

 今日の聖書朗読では、二人の人が何を成し遂げてきたかをそれぞれ神に告げています。福音書のファリサイ人は、自分自身の努力で成し遂げたと考えている宗教行事・活動の一覧表を掲げました。彼は神から褒美をもらえるはずだと思っていたのです。彼は、宗教行事や活動に非常に熱心であり、そのようにしない他の人々を軽蔑していました。

 もう一人はパウロで、同じような一覧表を出しました。パウロは信仰からくる諸問題に対して良く闘い、最後まで耐え忍び、信仰を貫き通しました。しかしパウロは私たちに、そのように強く信仰を貫き通せたのは、彼自身の力ではなく彼の神イエスが彼に力を与えてくれたからだと語っています。「主は私の傍に立ち、私に力をお与えになった」(第二テモテ:4-17) パウロは主イエスから絶対的かつ完全な賜物として天国の褒美をもらえるであろう、と言っています。パウロの祈りは、徴税人の祈りと似ています。「神さま! 罪人の私を憐んでください(ルカ18:13)」

 パウロは、神の力が彼の心の中で働き、それが彼に力を与えたと強調しています。一方、ファリサイ人は自分自身の努力を強調しています。

 祈りについてお話しましょう! 祈ることができるということは、そもそも神からの賜物です。神に時間を捧げれば、神は私たちに賜物を授けるでしょう。私たちが祈る時に、私たちは二つの神からの賜物を必要とします。それは、1)知恵と2)謙遜です。

 祈る時に知恵が必要なのは、知恵は神が誰であるが私たちに告げてくれるからです。知恵は神の人間への態度を教えてくれます。神は愛であり、慈しみであり、優しさです。神は私たち人間の弱さを知ったうえで、なお、あるがままの私たちを愛してくださいます。神はありのままの私たちを受け入れてくださいます。たとえ話に出てくる徴税人はこのことを知っていました。

 謙遜が必要なのは、神の前において私たちが誰であるかを知るためです。私たちは罪人ですが、神は罪人を愛してくださいます。聖書学上で言う罪人は、目標を外してしまった人、神からの愛に完全に応じることができなかった人を言います。罪人は人間の無力さをわかっています。このような人は祈りの中で神に出会い、癒しを得るのです。それは神が彼ら罪人びとをありのままで受け入れ、愛し、そして深くつきあってくれるからです。

 祈りを通じ、ありのままの姿で神のところへ行きましょう。疲れたり、悩みを背負っていませんか? 寂しかったり悲しかったりしてはいませんか? 空虚な気持ち、混乱した気持ちになっていませんか? 怒りや誘惑に支配されていませんか? 神のところへ行きましょう。神はありのままのあなたを受け入れてくれます。

 

月, 10/21/2013 - 03:25

  病気や悩みごとがあったり、落ち込んだりしている人の相談に乗ったことはありますか? お子さんや友達で何らかの障がいをもっている人はいませんか? その人たちのために祈ったことはありますか? とても大事なことなのでもう一度尋ねます。「その人たちのために祈ったことはありますか?」

 第一朗読ではモーセが人々のために祈る場面が出てきます。モーゼが祈りを止めると彼らの軍勢は劣勢になってしまいました。他の人のために祈る祈りは「とりなしの祈り」と呼ばれています。ですので、自分のことはしばし忘れて、他人のために祈りましょう。まず知っている人たちのために祈りましょう。そして広い心をもって、苦しんでいる福島の人々、伊豆大島の人々のために、そしてさらにはシリアから避難している2百万人の難民の方々のためにも祈りましょう。テレビや新聞から、とりなしの祈りの材料は豊富に入ってきます。

 祈りは神の私たちへの愛を味わうものです。彼らについて(そして私たち自身についても)神に助けを求める時に、自分の力だけではどうしようもならない、神の助けが必要であると認識します。私たちは神の助けの協力を得るのです。

 私たちの神は私たち一人ひとりを本当に気にかけて下さっています。思い出してください! 神は私たち一人ひとりを名前で呼んでくださるのです。今日の詩編121節を見てみましょう。詩編の編纂者は、神は私たちを護ってくださる方である、と描いています。この短くも美しい詩編の中で、「護る」「護る人」といった言葉が5回も出てきます。この詩的な詩編の情景の中に入っていきましょう。神は眠ることなく、常に私たちを護って下さっています。神は私たちが足を滑らすことがないようにしてくださいます。神は私たちの右手に、つまりすぐ近くに、いつもいらっしゃいます。

 パウロはテモテへの第二の手紙(3章14節~4章2節)において、神ご自身から知恵をいただくために、聖書を読むようにいっています。聖書で祈る、つまり聖書を祈りの心をもって、ゆっくりと思慮深く読む、ということをしてみましょう。
 
 自分自身と他人のために祝福を求めなさいとイエスは言っています。さらにイエスはそれを何度も何度も求め続けるように、とも言っています。私たちを真に気にかけてくださる神は私たちの祈りに対して、私たちにとって最善の時期に答えてくださいます。どんな祈りも無駄にはなりません。

 今週は特に、自分自身のためにではなく、他人のために祈りを捧げましょう。

「主は全ての邪悪なものからあなたを護り、あなたの命を守ります....今もいつも、代々に」 詩編121章

 

 

火, 10/15/2013 - 20:55

 先週は「傷ついた時に行う祈り」について書きました。今日は「感謝の祈り」について考えてみましょう。列王記Ⅱ、5章14-17節では、ユダヤ人ではないナアマンが重い皮膚病から回復し、神に癒してくださったことを感謝する情景が描かれています。彼はイスラエルの土を何袋もシリアに運び込み、それを使って小さな祭壇を作るための基盤をつくりました。そしてイスラエルの真の神へ感謝の祈りを捧げたのです。 今日の福音書(ルカ17章11-19節)においてはイエスによって癒された10人の重い皮膚病の男たちのうち、一人の非ユダヤ人だけが回復後イエスに感謝するために戻ってきたことが書かれています。他の9人は挨拶も無しで、なんと恩知らずなことでしょうか!

 日本に初めて来た時に私が語学学校で習った日本語の最初の言葉は、「ありがとう」でした。それは私たちの会話の中で最も美しい言葉です。その価値を尊びましょう。つまり、心を込めてこの言葉を言いましょう。

 他人がしてくれている行為について、私たちは当たり前だと、思っていないでしょうか。日常の暮らしにおいて、私たち一人ひとりは互いに非常に多くのことを助け合っていますが、自分が何をしてもらっているかわかっているでしょうか。料理・洗濯・掃除をしてくれているお母さんに「ありがとう」と言っていますか? いつもお母さんがしてくれるのを当たり前だ思っていませんか? また、毎日働きに出て衣食住に必要なお金を稼いでいるお父さんに「ありがとう」と言っていますか? 「敬老の日」というものがありますが、実際におじいさんおばあさんにそんなに感謝していますか? 子供の皆さん、両親があなたがたにしてくれていることについて、当たり前だと思わないでください。両親に「ありがとう」と、本当に心から感謝の気持ちを伝えてください。感謝は平和をもたらし、感謝しない心は憤慨や冷たさを引き起こします。

 私たちの隣人に対して感謝の心を常に持っていれば、自然に、持っているものすべてを私たちに与えて下さった神に対する感謝の念が湧いてきます。次のような祈りをしてみましょう。
  自分の人生に訪れた、9つの良い出来事を思い起こしてみましょう。そして、神様に「ありがとう」と言ってみるのです。重い皮膚病患者を治したイエスを思い、「あなたの全ての愛をありがとうございます」と言いましょう。今までに、何か苦しんでいたことがありますか? それによってあなたがより神に近づいたことがありますか? もしそうであるならば、その苦しみがあなたを神に近づけたことについて、神に感謝しましょう。

 

金, 10/11/2013 - 01:56


  今日の福音の中で、使徒達は「神よ、私の信仰を増してください」と祈りました。あなたは信仰を持っていますか? より深い信仰が必要ですか? ならば信仰とは何でしょうか。基本的にそれは神と私たち自身の関係です。神はあるがままの私を受け入れてくださり、100%の愛を注いで下さいます。私たちが苦しんでいる時に、この親密で温かい関係こそが私たちの神への祈りの基礎なのです。第一朗読(ハバク1:2-5)を見てみましょう。彼と彼の仲間は苦しんでいました。バビロニア軍占領下にあり、兵士たちは残忍で横暴でした。苦悩の中でハバクは、「私が助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか? ・・・「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない」と祈っています。これは彼の魂の底から直接出た祈りです。ハバクは真に苦しんでいました。しかし惨めな状況にあっても彼は何とか神を信じていました。神が彼を愛し、慈しみに満ちていることを、ハバクはできる限り信じようとしていました。彼の祈りはまったく礼儀正しいものとは言えないものでした。しかし、その祈りは彼の本心からきているもので、神は全く屈辱されてはいませんでした。実際、神は全ての祈りは本心からのものであってほしいと望んでいるのです。私たちの祈りは、礼儀正し過ぎないでしょうか?

 ですから、もし今日あなたがが問題や心配や苦しみを持っていたならば、それを慈愛溢れる神にすべてぶつけてみましょう。神はあなたの祈りを聞いてくださいます。たとえあなたが今、空虚で心は千路に乱れた状態にあったとしても、神はあるがままのあなたを受け入れてくださいます。しかし神は何が最良であるかを知っています。神は私たちの叫びの祈りに答える、最良の時と最良の方法を知っています。神は私たちの最良の幸福を望んでいるのです。ですから、時として、祈りに対しては結果は即座には出てこない時もあります。ハバクの祈りの結果について、神は「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」(ハバク2:3)と言っておられます。

 祈りは美しく温かい、優しいお父ちゃんである神との関係です。祈りとは私たちの真の友人のイエスとの心と心の会話です。

  ハバクの祈りはいろいろある祈り方の一つの例ではありますが、試してみてください。優しい神にあなたの心根すべてをぶちまけてしまうのです。

「ああ主よ、私の信仰を増してください。」

月, 09/30/2013 - 12:13

 ここしばらく、新しい教皇フランシスは、貧乏な人たちや被害を受けた人たちを助けることは、イエスの道を従う者の核心だと説いています。貧しい人を助けることは、聖ルカの福音書においてとりわけ強調されています。今日は、お金持ちとラザロのたとえ話でした。聖書的に言えば、私たちは全員お金持ちです。このたとえ話は現代の消費社会にいる私たちにとって、大きな挑戦です。
 ルカ16章19-31節で、金持ちは高価な服を着てラザロはボロをまとっていました。金持ちには食べきれないほどの料理があり、多くの食べ残しが出ましたが、ラザロにはそれすらも与えられませんでした。金持ちは健康で、ラザロは全身吹き出物だらけでした。金持ちは素敵な家に住み、ラザロは浮浪者です。
 金持ちはラザロを殴ったり悪態をついたりはしませんでした。金持ちはラザロを見ようともしませんでしたが、ラザロ存在すら知らなかったでしょう。金持ちはあまりにも自分自身のお金儲けと楽しみばかりにふけっていたので、彼は完全に自己中心的な人間となり自分自身以外の人のことなど考えられなかったのです。ですから、この金持ちにとってラザロの存在は無きに等しかったのです。この金持ちの罪は、無作為の罪です。
 このたとえ話は、私たちに次の質問を投げかけます。「私は、この世において、キリスト教徒の核心部分として、この世で貧しく苦しい人を助けているだろうか?」
 もうひとつ、現代的なたとえ話があります。ある先生が生徒に一枚の板ガラスを渡して「何が見えますか?」と尋ねました。生徒は、透明なガラスをかざして、「他のお友達が見えます」と言いました。次に先生は生徒に鏡を渡し、「今度は何が見えますか」と尋ねました。生徒は「自分自身が見えます」と答えました。そこで先生は説明しました。「両方ともに、ガラスからできています。しかし鏡のほうは、ガラスの裏側に銀が塗られているのです。お金儲けと自分自身の楽しみのみふけっていては、自己中心的になって他の人も見えなくなります。その人たちの存在すら気付かなくなってしまうのです!」 私たちの良心を点検してみましょう。イエスは、「慈悲深い人たちは幸いである。彼らは慈悲深く取り扱われるであろう」(マタイ5-7)と言っておられます。
 
 

土, 09/28/2013 - 09:06

 今日のたとえ話(ルカ16章1-13節)は変わっています! 聖書のたとえ話では、多くの場合お手本となる人が主人公ですが、今日のたとえ話では悪人が主人公です。イエスが示された道をたどろうとする私たちは、この悪い主人公の行いを比較することによって、学ぶことができます。
 すべてのたとえ話は、私たちに挑戦を示しています。今回は、「選択」という点で私たちに挑戦を与えています。永遠の賜物の道を選択するか、それともはかない一時的な現世の富を選択するか。神様か、お金かです!
 ここでいう「お金」とは、銀行口座に巨額の残高をためるだけでなく、高級車やアイフォーンなど現世の「モノ」も含まれています。また手にとって触れない、名声、名誉、世に出て有名になること、などもこれには含まれています。このようなこと自体は決して悪いことではないのですが、私たち人間がこれらのことだけに、過度にはまり込んでしまうので、悪くなってしまうのです。教皇フランシスは、「拝金カルト教」が世界中に蔓延しているので、皆さんぜひ気をつけてくださいと警告しています。
 今回のたとえ話では、イエスは貧者と友になるためにお金を上手に使いなさい、と言っています。ユダヤ教のことわざに、「現世においてお金持ちは貧者を助けるが、来るべき世界では貧者がお金持ちを助ける」というものがあります。今、私たちが貧者を助ければ、死後、天国の門において多くの貧者が私たちを「ようこそ、入って下さい」と迎えてくれるでしょう。
 私たちひとりひとりが自分自身に向かい合い、「自分自身の人生の中心に何を置くのだろうか? 現世利益に重きを置きすぎていないだろうか? 一日何分、神のために祈るのだろうか?」と考えてみてください。
 人生の後半にさしかかると、私たちは現世のお金と物財ばかりに目が向きがちですが、イエスは「天の父を信じなさい。神は鳥や花に心をかけるが、ましてや人間はそれよりはるかに大切なのだ。神は私たちを愛し、私たち一人ひとりの面倒を見てくださる。」と仰っています。私たちの将来を神の御手に委ねましょう。これによって私たちは真の安寧を得ることができ、また現世での出来事を、見通しをもって理解することができるのです。

水, 09/18/2013 - 22:46

 あなたはご自身のためだけに祈りますか。それとも人のためにも祈っていますか。聖書においては他人のために祈ることは大きな部分を占めています。今日の第一朗読(出エジプト記32:7-14)では、人々が真の神を否み、若い雄牛像を神として拝み始めたことが描かれています。モーゼと真の神は怒りました。しかしモーゼは自分の民のために神に許しを乞い、引き続き祝福を与えてくださるように祈りました。神はこのモーゼの祈りを聞きいれました。これは「とりなしの祈り」と呼ばれています。親となっているみなさん!どうぞあなたのお子さんお孫さんのために神に祈りましょう。これは大切なことです! 私たち全員が他の人たちのために、とりなしの祈りをいたしましょう。私たちの親族や友人、日本の平和のために、そして今大変な状況にあるシリアのために、などです。とりなしの祈りには、祈りをささげる者が、祈られる人の心の中に入っていけるように、という目的もあります。この祈られる人の気持ちと共感するということは重要です。
 第二朗読に書かれているのはパウロが過去に犯した大きな罪を回顧する情景です。彼の反応に注意深く着目してください。キリストによって罪を許されたことに対する感謝の気持ちが描かれています。時として私たちは大きな罪や、人生における過去の罪を忘れようとします。しかしそれは、疲れた時や夢の中で、しばしば思い出されます。そして恐ろしく重い自責の念や自己嫌悪の感情に陥ることもあります。
 これはキリスト教徒の道ではありません! もし本当に自分の罪をキリストの前で悔いたならば、キリストの和解の秘跡により、私たちは総合的に、完全に、また絶対的に許されます。対象となる罪はもはや神の前から消え失せます。神はまったく帳消しにしてしまうのです。これを思い出し、自分自身を許しましょう。イエスにあなたの心の傷をいやすように求めましょう。そしてあなたの罪が完全に許されたことに感謝するのです。詩編51章は痛恨に関する聖書の行伝です。これらはすべて人間の弱さへのイエスの理解とイエスの羊飼いとしての大きな愛情に満ちた優しさに基づいています。人間だれもが、神に愛されている、迷える子羊なのです(ルカ15:1-10)。

金, 09/13/2013 - 02:51

  今日の福音(ルカ14:25-33)はそのまま文字通り解釈しなさいというものではありません。イエスは当時のヘブライ人の感覚で、イエスの信者になるのであればイエスを最優先しなければならない、ということです。
 「イエス様が一番」という日本語の聖歌があります。もしイエスが私たちの人生の中心であり心の中で最優先されるものであれば、父母兄弟妻子との関係は、以前よりより近く暖かいものになるのです。これがイエスが私たちの間でどのように作用するか、ということです。
 もしイエス中心の生活を送れば、私たちの日常の仕事や学校での勉強は、前よりもはるかに良くなるはずです。
 しかし私たちは俗世の諸事にあまりにも忙しく、イエスのことを忘れがちです。時として私たちはイエスを脇に置いてしまって、ただ日曜日に「ハロー」と挨拶するだけの関係になってしまいがちです。
 今日の福音ではイエスは私たちの心100%を求めています。
 それでは私たちはどうやってイエスを中心にしてくらしていけるでしょうか?
 一言でいえば、祈りによってです。
 この「祈り」とはイエスとの静かな交わりを意味します。イエスは私たちのすぐそばにおり、私たちに耳を傾けてくれます。イエスに話しかけ、一日がどのようなものであったか語りかけましょう。そしてイエスに助けを求めましょう。もし問題、悩みがあればイエスに知恵の賜物をねがいましょう。あなた嬉しい時は、その嬉しさをイエスとともに分かちあいましょう。心と体が疲れ切った時も、イエスのもとへ行きましょう。イエスは「疲れた者、重荷を負ってあえぐもの、わたしのところへ来なさい。休ませてあげよう。」と言っています。
 主イエスよ、あなたの御手に私の全人生をゆだねます。
 

木, 08/22/2013 - 08:10

  毎回、ミサでは聖書が朗読されます。第一朗読の後に続く答唱詩編は第一朗読に対する答えの祈りであるとともに、しばしばその後に読まれる福音へとつながっています。詩編は聖書の重要な一部であり、もちろんミサの最重要部分の一つです。
 聖書を開き、ゆっくりと思慮深く、祈りの心を持って、詩編40章を読んでみてください。

 第一節 : 私は切に待ち望んだ。主が私の祈りを聴いてくださるのを。
 第十一節: 主よ、いつも私を憐れんでください、あなたの慈しみとまことによって、私をお守りください。
 第十七節: 主、神よ、あなたは私の助け、私の救い。どうか早く、助けてください。
 (聖書現代英語版より引用)
 
 旧ソ連の独裁者スターリンにはスベルターナという娘がいました。彼女は重い抑鬱症にかかり自殺も考えました。友人が彼女に詩編を読むように勧め、スベルターナは「苦しみの詩編」の多くが彼女の痛み、孤独、絶望、不眠の夜、裏切りなどを描いていることを知りました。しかし、これらの心の痛みを表しつつ、詩編は常に希望の種をまいています。その詩編における希望とは、私たち一人ひとりありのままを、神が愛してくださるという素晴らしい事実に基づいています。今日読まれた詩編40章第11節では、「主よ・・・あなたの慈しみとまことによって、私は安心できます」とあります。真実と訳されることもある、この「まこと」とは聖書学上特別な意味があります。それは洗礼によって、私たち一人ひとりに対して神が厳粛に約束したこと「私はあなたと共にいる。私はあなたを守る」を示しています。たとえ私たちが神を忘れてしまっても、神は約束に忠実でいてくださります。イエスは、「私は愛の火を地上に放つために来た(福音)」と言っておられます。今日の第二朗読にあったように、イエスを見つめていましょう。

 

月, 08/12/2013 - 02:11

 8月15日はカトリック教会においては特別な日です。この日私たちは、イエスの母マリアの被昇天を記念します。マリアはその死に際して、魂と体を天に召されたのです。
 コリント人への第一の手紙15章20-27節(被昇天祝日のミサの第二朗読の箇所)をお読みください。イエスは死んで、三日目に死者の中からよみがえり、その後天へ昇られたとパウロは言っています。キリストに結ばれた者は死後最後の日に魂と体ともに天の国に入るのです。このことをパウロはイエスと共に天国へ至る行進のようだと言っています。マリアはその子イエスに従いこの行進に加わったと私たちは信じています。
 信仰宣言の祈りで私たちは、「・・・・・・体の復活、永遠の命を信じます、アーメン」と結びます。
 イエスの母マリアは、その息子イエスのおかげで、魂と体が天の国に昇りました。
 しかしのマリア被昇天のお祝いは単にマリアを記念するだけでなく、最も重要なこととして、私たちに希望、目的、励ましを与えるものです。それは、私たちも永遠に続く幸せと神との親しい交わりを、心身ともに楽しむように造られているからです。マリアはイエスの贖いによる最初の成果なのです。
 マリアの現世での一生は決して容易なものではありませんでした。彼女は私たち同様、「信仰の暗い小道」をたどりました。マリアは私たちと同じ、普通の人間であり、(処女懐胎にあたっては)怖れを感じましたし、幾多の不幸を経験しました。イスラエルからエジプトへの脱出行、イエス12歳の時にイエスが行方不明になったこと、イエス30歳の時に故郷を追い出されしまったこと、そして最も悲しいこととして息子イエスが十字架上でゆっくりと死んでいくのを見ていることなどがそうです。
 私たちカトリック信者は、「聖母マリア、罪深い私たちのために、今も死を迎える時も祈ってください。アーメン」と祈るのです。
 

金, 08/09/2013 - 21:18

  私たちの人生の旅路には美しいバランスがあるとイエスは教えています。苦しみの時に私たちには慰めがあります。この慰めとバランスをとる形で、私たちには為さなければならない挑戦が与えられます。この挑戦は私たちが人として、そして霊的に、成熟していくために必要なものなのです。今日読まれた聖書の箇所には、これらの挑戦が多く書かれています。しかし、これらをよく読んでみれば、その挑戦の裏に慰めがあることがわかります。
 イエスは私たちに自分自身の奥底を見つめ、「人生の中心は何か?人生で最も重要なものは何か? モノ、栄達、名誉だろうか? それとも心と霊魂の救いだろうか?」と問うことを求めています。これらの質問の背景には最も根本的な問題、「この世における人生の目的は何か?」という命題があるのです。
「伝道の書」あるいは「コヘレトの書」の第1章2節では、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」とあります。この「空しい」はヘブライ語では、同時に、「はなかく一時的」という意味もあります。ですから、すべては一時的ではかない、という意味でもあります。言い換えれば、私たちが死ぬ時に私たちはそれまでに得たものを持っては行けないのです。しかしイエスは私たちははるかにより美しく価値のある霊的財産を、一緒に持って行ける、と説いているのです。
 ルカによる福音書12章13-21節で描かれている男は現世で使える以上の富を蓄えていました。彼は次の三つを忘れていました。
 1)彼は神を忘れていました。神が彼とその財産を作ったのです。
 2)彼は死後の永遠の命を忘れていました。
 3)彼は余ったものを貧者とわかちあうことを忘れていました。
 今日、私たちは健全な棚卸をしてみましょう。やさしいイエスはいつも私たちのそばにいるのです。
 上記の3)について、教皇フランシスは、「何らかの形で貧者を助けることは私たちクリスチャンの日常の一部である」としばしば説いています。
 イエスはこのことをマタイによる福音書25章で私たちに強く語っています。

 

木, 08/01/2013 - 03:12

 今日の聖書朗読箇所は祈りに関するものです。私の書棚の一段はさまざまな祈りの本でいっぱいです。しかし私は祈りに関して本を読むことよりも、実際に祈ることで学んだような気がいたします。
 まず最初に言えることは、祈りとは神からの賜物であるということです。ですから、「主イエスよ、私に祈りを教えてください」と今日の福音にある短い祈りをぜひ使ってみましょう。
 そして次のポイントは祈りの根本とは、私たちと神との関係に立脚したものである、ということです。もし私たちが神を遠い、厳しい存在である、と思えば祈りも冷たく、生気がない義務感から行われるものになってしまいます。しかしもし神が愛と優しさ、思いやりに満ちた方であると確信したならば、祈りは本当のものとなります。そしてそれは暖かく、元気づけられるものとなります。
 福音の中で一人の弟子が「イエス様、祈り方を教えてください」と頼みました。イエスは答えて、「おとうちゃん、父よと呼びかけ、親を信頼しきっている幼子のように近づいていきなさい」と言っています。繰り返しになりますが、祈りとは私たちの神との関係の果実なのです。
 創世記18章20-32節において、アブラハムと神とユーモアに満ちた会話が描かれています。神は目で見ることはできませんが、実際に存在し、近くにいて私たち人間について気を配っています。神は決して恐ろしい、罰する神ではありません。「アブラハムは神の友人であった」(ヤコブ2:23) アブラハムの祈りは、友達同士の暖かい会話で、私たちの祈りのお手本です。
 イエスは私たちに「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。」と諭しました。しかし私たちの多くは、「そんな経験はありません。ずっと前から祈っていますが、叶えられたことはありません。」などと言います。 どうか思い出して下さい。私たちの神は私たちを愛してくださる神です。神は無限の智慧に基づき、私たちにふさわしくない望みをご存知です。神は魚の代わりに蛇を渡すようなことを決してしません。しかし、神にささげられた祈りは決して無駄にはなりません。神は何かを私たちにくださいます。イエスご自身も次のように祈っています。
「お父ちゃん、父よ、この苦しみを私から取り去って下さい。けれども私の望みではなく、あなたのみこころのままになりますように。」(ルカ22:42)
「主よ、私に祈りを教えてください。」

月, 07/22/2013 - 03:07

 あなたには、気楽につき合える仲間がいますか? あなたの悩みを打ち明けられる人ですか? 心から信頼できる人ですか? あなたの話すことだけでなく、口に出せないこともわかってくれる人ですか? そんな人は良い友人です。
 シラ書の6章3-16節には「誠実な友は、堅固な避難所。そんな友を見つけたなら、宝を見つけたも同然だ………誠実な友は、健康を保つ妙薬。」とあります。
 聖アウグスティヌスは、友とは我々のことを理解した上で、我々をありのままに受け入れてくれる人である、と述べています。
 イエスは最後の晩餐の時、私たち一人ひとりに対して「私はあなたを友と呼ぶ。(ヨハネ15章15節)」と言いました。
 ヨハネ11章にラザロとマルタ、マリアがイエスの友達であることが描かれています。イエスは彼らを友として愛しておられました。
 今日の福音書(ルカ10章38-42節)には、同じイエスの友達が登場します。マルタはたいへん忙しく、たくさんのことをやらなければならないと思って悩みやストレスで一杯になっていました。忙しいことは何も悪いことではありません。私たちは皆、忙しいです。けれども、やるべきことが多すぎて、それが日常を支配してしまうのは忙しすぎで、それは悪いことです。
イエスはマルタに優しく言い聞かせました。マルタの名前を2度呼んだことはまさに良き友であったことを示しています。それがイエスなのです。
 マルタはイエスの足元に座って彼の言葉を聞き、友情を味わいました。(私の個人的な見解ですが、マルタはきっと兄のラザロも呼んで3兄姉妹が共にイエスの足元に集い、友情を楽しんだ後に皆で一緒に食事の用意をしたことでしょう!)
 静かな時を5分間作り、イエスがあなたの名前を呼んで、「私はあなたを友と呼ぶ。」と言うのを聞きましょう。そして、私たちも隣人への友情を示しましょう。

日, 07/21/2013 - 15:30

 私たちは皆、良きサマリア人の話を知っています。 けれども、その話の背後にある最も大切なメッセージをきちんと理解しているでしょうか?
 横浜の、若い人たち向けの講座で私はこんな課題を出しました。「良きサマリア人(ルカ10章25-37節)の話とメッセージをあなた自身の言葉で現代に置きかえてみてください。」  するとある生徒が次のように書きました。
 「私は高校生の時、ビン底メガネをかけ、舌足らずで運動オンチでした。 また、いじめられっ子でからかわれていました。 私は孤独で、傷つきやすい生徒でした。 ある日、数学の先生がクラス全員の前で私のことを嘲笑したのです。 私は、級友たちと昼食をとることができず、野球場の向う側まで行ってベンチに座りました。 死にたくなるほど傷ついていました。 実際、良きサマリア人の話で、半殺しにされて道端に倒れていた人にでもなったように感じ、どん底にいました。
 担任の先生が校舎から出てきて、野球場の反対側にいる私を見ましたが、こちらには来ませんでした。 それから、私たちのクラスの年長の生徒が出てきて球場の向うにいる私を見ましたが、私の方にやっては来ませんでした。 私はますます傷つきました。
 すると、級友の一人がやって来て私の座っているベンチに腰掛けました。 5分ほどもただ黙って座っていました。 彼は在日韓国人二世でした。 この沈黙はとても特別なものでした。 それから彼は私の肩に手を置いて「僕には君の痛みが分かる。僕にも在日として同じ経験がある。一緒に行こう。」と言いました。   彼こそ私の命を救った良きサマリア人です。
 今週、助けを求めている人に対して、良きサマリア人となるように心掛けましょう。  

日, 07/07/2013 - 03:35

  私たちの生から死までの人生は旅にもたとえられます。生きる道、人生の旅路のことです。今日の福音の中では「イエスはエルサレムに向かう決意を固められた。」(ルカ9:51)とあります。この一節はルカによる福音19章28節へと続く「旅路物語」と呼ばれる部分の始まりです。
 
美しく、そして私たちの励みとなるここでのメッセージは、私たちの人生の旅路をイエスが共に歩いてくださる、ということです。イエスは「わたしは常にあなたと共にいる」と言っています。さらには「わたしは道である」とも言っています。今日の答唱詩編16章(「神は私のそばにおられ、私はけっしてゆるがない」(8節)、「あなたは命の道を示してくださる」(11節)ということです。 この人生の旅路に置いて私たちは決して一人ぼっちではありません。優しい復活なさった主が私たちの傍にいてくださるのです。
 
 イエスはサマリヤ人の村では歓迎されませんでした。ヤコブとヨハネはイエスの神としての力を使って、雷により彼らを滅ぼすことを進言します。しかしイエスは人間の弱さを知っていましたので、自分は人を罰する神ではなく弱い人間に対する優しい慈しみにあふれた神であることを自らの行いにより示したのです。

 そしてイエスはとても悲しく寂しそうに、「人の子には枕するところもない」と言ったのです。イエスご自身が寂しさを体験なさったのです。私たちが寂しさを経験する時、私たちは同じ境遇であったイエスと出会うことができ、そして同じ境遇であったイエスから喜びと慰めを味わうことができます。祈りを通じてイエスに慰めを求めましょう。

 今日の福音では3人の人がイエスに従うように求められました。一人目はイエスに100%心から即座に従うと言いました。二人目の人はまず父親の葬儀に行きます、と言いました。しかしこれは、実際には父親はまだ若く10-20年は生きているのでしょうから、言い訳に過ぎなかったと思われます。現在の私たちが使う言い訳は、「忙し過ぎる」です。三人目も同じような言い訳をしています。私たち自身はどうであるのでしょうか、今日振り返ってみましょう。私たちは言い訳の名人ではないでしょうか? 祈りを通じてイエス様を、私たちの日常生活の中に取り込み、仕事、勉強、余暇に生かしていく、100%本物のクリスチャンになりましょう。イエス様と共に、人生の旅路を歩みましょう。

火, 06/25/2013 - 07:22

  今日の三つの聖書朗読はどれも「祈り」を主題としています。福音書では「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。」(ルカ9-18)とあります。イエスはこの時ガリラヤに居ましたが、エルサレムに向けて出発する直前でした。イエスはエルサレムに行けば大変な苦難にあうということを知っていました。イエスはそれを思うと戦慄が走り、恐怖におののいていたことでしょう。ですからイエスは父なる神に祈り力を求めて祈っていたのです。イエスは祈りを通して父なる神と温かい関係を結び、勇気と力と平安を得ていました。イエスは私たちの手本です。私たちが苦しみ、苦難、大きな決断などに迫られたとき、イエスのもとへ行き助けを頼みましょう。イエスも人間として同じ経験をなさったのですから、苦しみとはどのようなものかよくわかっていらっしゃいます。祈りを通して、イエスはとても近づきやすく、私たちをよく理解してくださる方です。

 「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。」(ルカ9-18)とは、イエスは自分自身のためだけでなく、弟子たちのためにも祈っていた、ということです。今日の答唱詩編、詩編63章は美しいものです。心の内面が乾ききった人、苦しんでいるが、精神的な慰めを得られていない人のことを歌っています。詩編63章は、詩編42章とともに憧れの詩編です。聖書を開き、これらをゆっくりと、祈りの心を持って読んでみてください。それによって私たちは希望を得ることができます。

 祈りは神からの賜物であるということを絶対に忘れないようにしましょう。神は私たちを愛してくださっているのです。今日読んだゼカリアの預言12章10節では、「主は言われる『・・・わたしは憐みと祈りの霊を注ぐ』」とあります。神への祈りは私たち自身の力だけで行うものではありません。神が私たちにその賜物を与えたいと望んでいるのです。私たちはその賜物に憧れ、そして神に協力していくのです。

 今週、日々の用事で忙しい中、またきちんと考えられないという心配も乗り越えて、静かな5分間の時を作って、神に祈ってみましょう。そうすれば、イエスがあなたの名前を優しく呼んで、「あなたは私を誰だと思っていますか?」とお尋ねになるでしょう。この問いは「あなた自身にとってイエスとは誰でしょうか」という問いかけです。本からとってきた模範解答などではなく、あなたの心の底にある真実からイエスに答えましょう。そうすれば、あなたはあなたが毎日背負っている十字架(つまりは苦しみなどつらいこと)を背負う力を得られるでしょう。なぜならば、もはやあなたひとりで背負うのではなく、イエスが一緒になって背負ってくれるからです。

日, 06/23/2013 - 04:44

 今日の説教の対象となる人はほんのちょっとかもしれません。とても個人的な質問をいたします。
-過去の行為で、今だにやましいと感じるようなことがありますか?
-過去の人生において自分がした何かについて、何らかの嫌な思いがありますか?
-忘れたいと思っているのに、疲れたりすると思い出したり、夢の中に出てきてしまう過去の自分の行為がありますか?
これらは一般的に、(嫌な言葉ですが)罪悪感と呼ばれます。
 もしかしてこの分類に入るかも、と思った方は、どうぞ今日の聖書朗読の箇所をお読みください。神は罪悪感を欲しません。むしろ神は罪悪感を毛嫌いしています! 神は罪悪感を感じる人に対して、自分自身と神に向かい合って、ただ謙虚に「罪を犯してしまいました。許してください。ごめんなさい。もうしないようにします。」と言って欲しいのです。神は罪を許してくださいます。 詩編51章9節では「神よ、私の罪に御顔を向けず・・・」とあります。神が何かを見ることをやめるとき、その何かは消滅します! 神は私たちを許してくださる、私たちも自分自身を許しましょう。
 神は悔い改めたダビデにとても優しく、イエスは罪を犯した女に同じようにとても優しく接しました(ルカ7:36-50)。イエスは今日の私たちに対しても同じです。何とすばらしく、晴れ晴れとすることではありませんか。なんと喜びと希望に満ちることではありませんか。
 イエスは、「平和のうちに行きなさい。あなたの罪は許された。」と言ってくださいます。イエスのもとへ行けば、今日の私たちにもおなじように言ってくださるのです。ですから、絶対に、絶対に「天罰」という言葉は使わないでください。
 英国の有名な作家、G.K.チェスタートンは、「私たちは、自分の犯した罪が許されたのを知って初めて神の愛がどんなに深いか知る。」と言っています。もちろん、この無条件の愛は大罪を犯した人にも、小罪をおかした人にも与えられるのです。
 罪悪感を捨てましょう。罪悪感はしばしば神経症、ストレス、自己嫌悪などをひきおこします。神はあなたを許し、自由にし、平安のうちに楽しく毎日を送ってもらいたいと思っています。
 この美しい場面をゆっくりと読んでみましょう。その場面を想像し、自分自身をその場面に中に置いてみましょう。(ルカ7章36-50節)そして詩編51章もゆっくりと、ゆっくりと読んでみましょう。
 

金, 06/14/2013 - 02:43

  神とはどんなものでしょう。神は私個人をどのように感じてくれるでしょうか。
 人間イエスの心を見ることによって、神が私たち一人ひとりに対する本当の心を見ることができます。今日の短い福音は、おそらく聖書のほかのどの部分よりもイエスの中の神について語っています。
イエスはナイムの小さな村にやってきました。そして墓場へむかう葬列に出会ったのです。葬式は悲しいものですが、この葬式は特にそうでした。亡くなったのは小さなこどもで、寡婦の一人息子でした。ここでちょっと止まって、このかわいそうな母親の悲しみと寂しさの深さを想像してください。彼女は本当に一人ぼっちで、あまりの悲しみに打ちひしがれていました。
 私たちの神イエスは寡婦の涙を見て、彼女のために感じ入りました。心の底から深く彼女に共感しました(聖ルカがギリシア原典で使った特別な言葉を、共感、として訳しています。)
 どの言語においても強い感情的なニュアンスを表す言葉があります。今回の福音で使われた言葉は、単なる普通の共感を表す言葉ではありませんでした。それは心の底から現れる感情を表す言葉であり、福音書ではめったに使われない(12回)ものでした。イエスご自身についてのみ、あるいはイエスご自身のみが使った言葉であることから、特別な「神の言葉」とも言えます。
 この情景を想像し、今日生きる私たちもイエスの注ぎ降る愛、共感そして私たちと共にいてくださることを味わいましょう。それが私たちの神なのです。
 なぜイエスはこの奇跡をなさったのでしょうか?それはイエスがこの気の毒な母親の悲しみを深く感じられたからです。「イエスは男の子をその母親へ返した」(ルカ11:15)
  このまさに同じイエスが今、生きている声で私たちに語られているのです。「疲れた者、重荷を負ってあえぐ者、私の元へ来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
 
追記:
聖書の勉強または祈りの参考として:
この共感を意味する特別なギリシア語は次の場所で使われています。
マタイ9:36、14:14、15;32、20:34、マルコ1:41、9:22、ルカ7:13.またイエスご自身はこの言葉を三つのたとえ話で使っています。マタイ18:33、ルカ10:33、ルカ15:20.

 

堅信の準備の講話第6回

 「堅信式について」

今日は堅信式そのものについて、話したいと思います。堅信の秘跡の中に二つの働きが あります。一つは神様からです。助け主である聖霊芦め主である聖霊は、私たちの上にく だります。もう一つは、私たち信者からです。社会の中でイエス様の証し人になることで す。堅信の秘跡を授ける人は、普通は司教様です。堅信は洗礼のつづきです。堅信の秘跡 の中には三つのシンボルがあります。第一は按手、第二は言葉、第三は聖香油です。聖書 の 中での按手の意味は「貴方は神様から特別な使命をいただきます。その使命を果たす ために必要な力もいただきます。」司教様が按手する時に、この言葉を使います。

全能の神、主イエス・キリストの父よ、あなたは水と聖霊によって この人ぴとに新しい いのちを与え、罪から解放して下さいました。 今この人々の上に、助け主である聖霊を送り、知恵と理解、判断と勇気、 神を知る恵み、神を愛し敬う心をお与えください。

わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
○○○○、父のたまものである聖霊のしるしを受けなさい。アーメン
主の平和。

第三のシンボルは聖香油です。司教様が聖週間の荘厳な式の中で、この油を祝別します。 オリープ油に芳しい香りのあるバラの油をいれます。私たちは、イエス様から芳しい香り のある恵みをいただきました。というのは信仰の喜びです。私たちは社会に入って芳しい 香りが漂う社会をつくりましょう。何かの喜び、何かの光を分かち合いましょう。これは 社会のなかでのイエス様の証し人といいます。具体的に言えば、証し人の行いは、人に暖 かい態度を示すこと、励まし慰めの言葉を言う事です。人の身分に応じて、イエス様の証 し人となりましょう。そして信仰の喜びを分かち合いましょう。

私たちはこの世で一番恵まれたものです。神様の愛を知っていますから、その恵みの偉 大さを理解して感謝して分かち合いましょう。受堅者のために一番大事な準備は祈りです。

慰め主、助け主である聖霊、私の上に来て下さい。

月, 05/27/2013 - 03:43

 私たちキリスト教徒は唯一の神を強く信じていますが、その唯一の神には、父と子と聖霊が内在しています。これは神の命の内面に関わることですので、私たち人間には理解できない奥義となっています。しかしこの奥義は説明されるよりも味わうべきものなのです。
 父と子と聖霊は愛によって結ばれています。神の愛の雰囲気の中に私たちも入って行きましょう。緊張を解き、リラックスして父と子と聖霊が私たち一人ひとりに対して持ってくださっている愛を味わいましょう。
 人間を創った創造主たる神を父と呼び、私たちの世界は素晴らしいと実感しましょう。神に感謝し、神がお造りになったものを大切にしましょう。
「あなたの指のわざである天を仰ぎ、
 あなたが造られた月と星とを眺めて思う。
 なぜ人に心を留め、
 人の子を顧みられるのか。」(詩篇 8:4)
自分自身と美しい自然を見直し、「神様ありがとう」と言いましょう。
 父の子であるイエスは、人間となることで、神と人間との美しい関係を築きました。神は私たちを世話してくださり、私たち一人ひとりを愛してくださいます。神は私たちを愛してくださる父であり、私たちはその子供です。そのような関係をつくって下さったイエス、ありがとうございます。私たちのためにあなたは死をもってそれを得てくださいました。
 聖霊、ありがとうございます。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれる」(ローマ5:5)そしてまた、私たちを真理へと導いてくださってありがとうございます。(ヨハネ16:13)
 洗礼によって私たちは父と子と聖霊の愛に包まれます。これは我々が享受する神秘です。これは唯一の神がどのようなものであるか、特別に示された秘密です。ですから、繰り返しになりますが、この愛は味わい楽しむべきもので、無理にわかろうとして混乱したり悩んだりするものではありません。神、すなわち父と子と聖霊、ありがとうございます。
 ゆっくりと想いを込めて父と子と聖霊の十字を切りましょう。

 

堅信の準備の講話第4回

「ミサにあずかる心がけについて」

 私達の社会の雰囲気は物質万能主義です、イエス様の価値観とはまったく逆です。 キリスト教信者にとってあるときは寂しい気持ちをもつでしょう。私達が信者としてその逆を歩む 勇気と励ましと力づけはやはりごミサとご聖体拝領なのです。

 ごミサはいくつかの部分に分かれていていろいろな立場から説明することが出来ます。 最初のごミサは最後の晩餐でした。その時も今も二つの部分があります。 第一は聖書朗読です。第二は奉献の部分です。教会の教えは「聖書が教会で読まれる時はキリスト 自身が語るのであるj簡単に言えぱ聖書朗読を通してイエスご自身が私達に話しかけ天国から 人生の道に対して大事なメッセージを伝えてくださいます。

 ある時はそのメッセージは慰めでありある時はチャレンジです。ごミサにあずかるときは敏感な 耳を持って聞く態度期待の心を持つようにしましょう。 例えぱ日曜日の朝起きて「今日はイエス様は私に何を言われるのでしょうか」良く聞いたら何かの 響きを感じると思います。その響きは神様からのメッセージです。人によって生活の状態に よって響きが違います。意義あるごミサに授かるためにそのような敏感な心の耳をつくりましょう。

 続いて奉献の部分を考えましょう。棒げる心はキイワードです。イエス様は私逮の救いのために 十字架の上でご自分の命をお捧げになりました。私達はごミサの中でイエス様と一致して 自分の毎日の生活日々の出来事を父なる神様のみ手に棒げます。
喜びも悩みも毎日の仕事もつまり自分のすべてを捧げます。

 聖体拝領のとき人生の道を元気よく歩むためにイエス様ご自身が私達の心にお入りになります。 食べ物の形でのご聖体は心の力づけ心の栄養の意味です。聖体拝領後友達であるイエスさまと 親しく話し合いましょう。最後の点ですが私達は聖書朗読を聞くことも自分を捧げることも全部 兄弟姉妹として一緒にします。この一致の心を持つならごミサは励ましとカになると思います。

 このようにごミサにあずかって 自分の家に帰って 自分の小さな社会に再ぴ入って 主の乎和を分かち合いましょう。

今週中のお勧め。この聖書の箇所を開いて祈ってください。

  1. マタイ書(26:26-29)
  2. ヨハネ書(13:1-15)
  3. ヨハネ書(15:1-17)

 

 

 

 

日, 05/26/2013 - 06:12

 今日は聖霊降臨の祝日です。聖霊が使徒たちに降り、臆病者たちは恐れを知らぬイエスの伝道者に変わりました。聖霊は今現在を生きる私たちに作用する神です。イエスは「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる・・・ 弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたに全てのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくれる。」(ヨハネ14:15-26)と言っています。

 「弁護者」という言葉はギリシア語の「パラクレートス(そばに呼ばれた者)」の翻訳です。「弁護者」と言う言葉は正しい翻訳ではありますが、「パラクレートス」ははるかに広い意味を持っています。

(1)福音において弁護者(パラクレート)とは、責められた人の側に立つ友人であり、裁判官に対して「この人は良い人です」と擁護します。聖霊は私たちの側に立ち、「私はあるがままのこの人を受け入れます。この人は私の友人であり、私はこの人の側に立っています」と言ってくれるのです。

(2)「パラクレートス」の二つ目の意味は、「助け主」というものです。自分ひとりの力では解決できない問題や責任が生じた時には、その人は助けを求めなければなりません。聖霊は私たちの助け主です。

(3)三つ目の意味は、「慰め主」です。もし人が悲しかったり失敗したりした時には、その人は「パラクレート」に慰めを求めればよいのです。その人は完全に慰めを得るのです。聖霊とは慰める人のことでもあります。

(4)四つ目の意味は、「励まし主」あるいは「力主」というべきものです。ギリシア語の「パラクレートス」は戦いの直前に兵士に演説し士気を鼓舞する人も意味していました。演説の後は兵士たちと共に戦って、彼らに勇気と力と助けを与えていたのです。聖霊は常に私たちと共にいて、勇気、力、そして助けを日常生活の中で下さいます。聖霊が私たちの中で作用してくれるということは、本当に素晴らしいことです。

  静かな祈りの中で私たち自身の力は十分でないと素直に認め、聖霊がわたしたちを助けてくれるように頼みましょう。神は私たちを愛し、私たちを助けたいと思っておられるのです。

 

堅信の準備の講話第3回

「慰め助け主である聖霊」

ケンズ神父

皆さんは自分の才能、自分のファイト、自分の努力を一生懸命つくして、それぞれ自 分の人生の道を歩んでいるでしょう。しかし、自分の身体や精神に疲れがでると思いま す。皆さんは自分の力だけで、この人生の道を歩むことはできません。

特に信仰の道を自分の力だけで歩むことは不可能です。イエス様の教えられた道を歩 むための第一歩は、自分ができないこと、自分の弱さを認めることです。それを正直に 認めることは信仰生活のために絶対必要で、神様からの手助けが必要なのです。一般の 人生の旅路のためにも、また、もちろん信仰生活の道でも、神様と一緒に人生を歩むこ とによって、本当の安らぎ、平和、安心、喜び、生きがいを与えられます。

優しい神様は、喜んで私たちが弱さを認めたことに答えて、その助け、慰めを豊かに お与えくださいます。結局、神様は慰め主、助け主である聖霊を送ってくださるのです。 堅信の秘跡というのは、この助け主である聖霊を受ける秘跡です。ですから、堅信の秘 跡を受ける準備として、自分の人間的なみじめさ、自分の力だけではこの人生の道を歩 めないことを正直に認めましょう。したがって、「助け主である聖霊よ来てください」 と心から祈りましょう。「聖霊への祈り」 は9世紀からの長い伝統があります。ゆっくり、 噛みしめて祈りましょう。

そして、堅信の準備のために次の聖書の個所を調べて祈りましょう。

  1. ルカ11章9-13
  2. ローマの信徒への手紙8章15-17 26-27
  3. ガラテヤの信徒への手紙5章16-26
  4. 使徒言行録2章1-4

 

聖霊への祈り

聖霊、来てください。
あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。
貧しい人の父、心の光、証しの力を注ぐ方。
やさしい心の友、さわやかな憩い、
ゆるぐことのないよりどころ。
苦しむときの励まし、暑さのやすらぎ、
うれいのときの慰め。
恵みあふれる光、信じる者の心を満たす光。
あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、
だれも清く生きてはゆけない。
汚れたものを清め、かわきをうるおし、
受けた痛手をいやす方。
かたい心をやわらげ、冷たさを暖め、
乱れた心をただす方。
あなたのことばを信じて、
より頼む者に尊い力を授ける方。
あなたはわたしの支え。
恵みの力で、救いの道を歩み続け、
終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン。

金, 05/17/2013 - 02:38

 2,000年前、神の子はその神としての栄光を脇に置き、私たちと同じ人間となりました。イエスはこの世に33年間生きて天の国に戻りました。イエスは今何をしているのでしょうか? これは非常に重要かつ実際的な問題です! 今現在、イエスは100%神でありながら依然として栄光化された人間の体を持っています。イエスは天の国で父なる神の右の座に、(イエスも等しく神として)ついています。私たち人間の代表としてイエスは私たちのために祈り、父なる神にとりなしてくださいます。第二朗読に、イエスは「私たちのために現れてくださった」(ヘブライ人への手紙9-24)とあります。イエスは「私の名において願えば、父なる神はかなえてくださる」(ヨハネ15-16)と言っています。「イエスはこの瞬間も私のために個人的に祈ってくださっている」ということを静かに考えてみましょう。私たちが祈るということは、イエスの祈りに私たちも加わり、父なる神から祝福をいただけるよう願うということです。これ以上強力な祈りがありえるでしょうか?
 第一朗読ではイエスが天国に昇られてから天使が人々に「なぜ天を見上げて立っているのか。」(使徒1:11)と尋ねる場面が読まれました。これにはとても深い意味があります。今からイエスはこの地上で私たちと共に生き、私たちは信仰の眼を通してイエスを見、イエスと出会うのです。イエスは「私はいつもあなたと共にいる(マタイ28-20)と言っています。イエスは「この今の瞬間、この場所で」ここにいる、ということを意味しています。私たちが祈るとき、私たちが聖体拝領するとき、イエスはそこに居ます。イエスは今生きている声で、聖書を通して、私たちに語りかけています。また、同時にイエスは私たちの側に立って、私たちが仕事や学習、あるいは気晴らししていたり、眠っているときですらも、導きと助けををくださるのです。ですから、唯一天にしかイエスがいないかのように、天を仰ぎ見ないでください!
 イエスの昇天により、単なるある小国でおきた2000年前の出来事ではなくなりました。イエスは私たちとともになお生きており、たいへん活動的です。イエスは私たちのために御父に祈り、聖霊を私たちの上に送ってくださいます。今、私たちの間で生きているイエスに「ありがとうございます」と感謝いたしましょう。

 

 

堅信の準備の講話第2回 

 

「父なる神様」

                                       ケンズ神父

30年前に、私は聖地を巡礼しました。エリコで私は、一つの経験をしました。そこの 近所の子供は発掘の現場の丘にのぼって、上からお父さんを呼びました。使った言葉は 「アッバアッバ」でした。お父さんは、丘の上の子供を見て、徴笑み、はげましまし た。また、子供は急にすぺり台からおりてくるように、隆りてきて「アッバ アッバ」 ともう一度よんて、お父さんの腕にとびついて、抱かれました。本当に楽しい暖かい雰囲 気の場面でした。 イエス様ほ2千年前に同じ「アッパ」と いう呼び方をつかいました。というのは、イエスは「アッバ」父である神様について何回も何回も次 のように教えられました。

私たちの神様は罰する方、厳しい方、恐ろしい方、ではない、かえってやさしいお父さん である神様です。したがって、私たちは愛された子供です。イエス様はそのやさしい教え のために、その時代の小さい子供の言薬「アッパ」を使いました。(現在の「パパ」と同 じ使い方)非常に親しい暖かい言薬です。イエス様のこの言薬の使い方の裏にほ、大事な 教えの意味が含まれています。というのは、私たちを弱い子供としてうけ入れて下さる神 様は非常にやさしい方、そして私たちを大事にしてくださる方、いつも私たちを深く愛す る子供としてやさしく見守って下さる方です。

したがって、そのようなやさしい「アッバ」神様に対する私たちの答えは、やはり信 頼です。イエス様の時代の大勢の人々にとってば神様は罰する神、厳しい神、恐ろしい神 てした。人間は恐れを持って、厳しい掟を守りました。神様ば冷たい遠い方だと思ってい ました。厳しい尊敬だけを当時の人々はもっていました。

皆さん、私たちはイエス様のやさしい教えを受け入れたでしょうか。まだ、旧約時代の 信者でしょうか。神様は「アッバ」父だ、これはイエス様の慰めの訪れ、喜ばしいしらせで す。この教えは私たちへの大きな慰めであると同時に、大きなチャレンジをもとめます。そのチャレンジは神様のやさしさに信頼することなのです。堅信を受けることとはこのチャレンジに答える ことです。

★「慈しみ深い神よ、あなたの御手にわたしのすぺてを委ねまず。」★

今週中のお勧め。この聖書の箇所を開いて祈ってください。

  1. イザヤ書(43:1-5)
    私たちを造られた主、神ば今、こう言われる。 恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。私はあなたの名前を呼ぶ。 私は主、あなたの神あなたの救い主。わたしの目にあなたは価い高く、 貴く私は貴方を愛している。恐れるな、私は貴方とともにいる。
  2. ローマ書(8:15)
    聖霊によって、私たちは「アッパ」父よと呼ぷのです。この聖霊こそは、父なる神の 子供であることを私たちに悟らせて下さいます。
  3. マルコ書(14:36)
    イエス様の苦しみの時の祈りです。「アッバ」父よ、貴方は何でもお出来になります, この苦しみを私から取りさって下さい。しかし、私がねがうことてはなく、御心にか なうことが行われますように、
  4. イザヤ書(66:13)
    神はこう言われる。「母がその子を慰めるように、私はあなた達を慰める。」
  5. ルカ書(15:11-24)
    やさしいお父さんと放蕩息子のたとえ話。

 

≪お父さん である神様≫

 オーストリア、アルプス地方の花々を熱心に採集している植物学者がいました。ある日、彼はいつものように、狭い今にも崩れ落ちそうな崖道を、足元に気を取られながら登っていました。フト足元の崖下をのぞくと、まだ見たこともない美しい小花が一輪咲いているではありませんか。
 彼は、ぜひこの花を自分のコレクションに加えたい・・・学会に発表して世間の人たちに知らせたい、と思いました。しかし、その花は山道より3メートルも下の崖の途中、岩の間に咲いているので、とても取ることはできません。
 翌日、彼は4才になる自分の娘を連れて、またその場所へやって来ました。彼は自分の娘にナイロン・ロープを腰から背にかけて縛りつけ、しっかり結んではずれないようにしました。そして、慎重に気をつけながら、娘を崖からつり下げはじめました。
 ゆっくりロープは長くなり、その子は数百メートルもある深い谷の中に、たった一本のロープに縛られて、ゆらり、ゆらりとおりて行きます。
 一人の登山家が、山道を登って来ました。
 彼は小さな女の子が、たった一人のささえるロープに縛られて宙づりになっているのを見て驚き、声も出せずその光景を見守るばかりでした。
 やがて、女の子は手に小花を握りしめて、父親に引き上げられ崖の上に、もどって来ました。
 ホッとした登山家は、女の子に近づいて声をかけました。
 「お嬢さん、こんなに深い谷に宙づりにされて、こわくなかったかい。」
 「ちっとも、こわくなんかなかったわ。だって、パパがロープを持っていたんですもの。」
 人生の途中、私たちは何度も危険な場所に宙づりにされているように感じることがあるでしょう。その時こそ、私たちに優しい「私たちのアッバ」を信頼しようではありませんか。
 アッバは、いつも私を心にとめ、そして、この私のロープを、しっかりと握りしめていてくださるのですから。

 

 

 

木, 05/09/2013 - 03:22

 イエスは「聖霊が全てを教えてくれ、私が言ったことすべてを思い出させてくれるだろう」(ヨハネ14-26)と言っています。私たちはイエスやその教えについて習うことができますが、それは「頭」によるものです。しかし本当に「心」でそれをわかるためには聖霊の導きが必要です。この「心」で理解するということは神からの賜物です。神に祈りそれを求めましょう。キリスト教では「心」は「頭」よりも大切なものなのです。
 イエスは今日の福音で、「私はあなたに平和を与える。それは私にしか与えられない平和です。この世が与えられるものではありません」(ヨハネ14-27)と言っています。危機や苦難、動乱など心落ち着かない時に、私たちは買い物やアルコール、ギャンブル、過食などに依存しがちになります。それが私たちの逃避方法ですが、効果はありません。本当の平安、心の底から私たちが味わえる平安は私たちが神と良い関係を結ぶことができた時にのみ得られるものです。聖アウグストゥスは若い頃、平安を得るために様々なことをやってみましたが、すべては無駄でした。そこで彼は神と良い関係を結び、神の友人となったのです。そうして初めて彼は真の平安を味わうことができました。聖アウグストゥスは「ああ神よ、あなたは私をあなたのためにお造りになったので、わたしの心はあなたのもと以外では安らぐことはできません。」と言っています。
 神はあなたの友人になりたいと思っています。イエスは、「わたしはあなたを友と呼ぶ」と言っています。彼の友情を味わいましょう。神に心の平安をたのみましょう。
「おお、神よ。慈しみ深くわれらを祝福してください。そしてあなたの顔をこちらに向け私たちに光を注いでください。」(詩編67-1)

 

 堅信の準備の講話第1回 

「イエス様は私の主である」

                                     ケンズ神父

 “イエスは私の主である.”これは初代教会の最初の信仰宣言で、今も私たちの信仰の一 番根本的なものです。その憲味はさきに聖書を通して読むことにより、イエス様をだんだ んと知ることです。イエスを知ることとイエスと出会うことほ同じ意味です。

 そのようにイエスと親しくなっていき、したがって私ほこのイエス様と一緒に自分の人 生を歩みたいときめます。そしてイエス様に向かって私はあなたの弟子です。(イエスは 私の主であるといった意味と同じ意味です。)

 もちろん、すべてを捨てて社会から逃げるという意味ではありません。本当の意味は私 違の毎日の家庭生活の中に、家・学校・職場でもそのイエスの道をいれることです。堅信 を受ける準備としてイエス様ともっともっと親しくなりましょう。“イエスは私の主であ る”という簡単な信仰宣言を良くあじわいましょう。

 私違は自分の性格によって、自分のイエス様のイメージを描かなければなりません。も ちろん、描くためのの材科ほ聖書です。私(ケンズ神父)の好きな箇所はこれです。

  1. ザアカイ(ルカ19:1-10)イエス様に出会いたい気持ちがありました。
  2. ナインのやもめ(ルカ7:11-17)イエス様は悲しみに沈んだお母さんとの共感 です。
  3. ペトロは湖に沈みかけたのを見て、イエス様が助けの手を伸ばします。(マタイ14 :22-33)イエス様は薄い信仰のペトロをありのままにうけいれて下さいます。
  4. イエスはゲッセマネで祈る(マルコ14:32-52)
  5. イエス様はマリアという名前をお呼びになります(ヨハネ20:11-18)
  6. 疲れたもの重荷をおったもの、私のもとにきなさい。休ませてあげよう。難しい話し 合いのやさしいお招きです。(マタイ11:28)

 聖書のイエス様の心と今のイエス様の心はまったく、同じです。

 皆さん、自分の性格によって自分のイエス様を描きましょう。そのイエス様に心を開い て、すべてをゆだねその道を歩みましょう。

 

   イエスの生涯
                遠藤 周作
      第十章  逮捕の夜

 ゲッセマネのオリーブ林のなかにイエスは死の不安と闘っておられた。永遠に人間の同伴者となるため、愛の神の存在証明をするために自分がもっとも惨めな形で死なねばならなかった。人間の味わうすべての悲しみと苦しみを味わわねばならなかった。もしそうでなければ、彼は人間の悲しみや苦しみをわかち合うことができぬからである。人間に向かって、ごらん、わたしがそばにいる、わたしもあなたと同じように、いや、あなた以上に苦しんだのだ、と言えぬからである。人間にむかって、あなたの悲しみはわたしにわかる、なぜならわたしもそれを味わったからと言えぬからである。


 

土, 05/04/2013 - 04:09

 私の好きな聖書の一節は、「疲れた者、重荷を背負って喘ぐ者、私のところへ来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)、「恐れるな、私はあなたと共にいる」(イザヤ43:5)です。私はこれまでの人生で何度も、心身共に疲れ果ててしまう時がありました。多くの場合、心に重荷を負っていたのです。しかしそれらの経験のおかげで、私を愛し面倒をみてくれるわが主イエスに出会うことができました。多くの場合私は恐れ、心配、不安そして孤独感に苦しめられていましたが、むしろそのおかげでわが主イエスがそばにいてくださることを実感することができました。イエスは私の支えです。イエスは私の人生の大黒柱として支えてくれています。私は祈るときによく十字架を使いますが、これはイエスが命をささげてまでも私を愛してくださったことを思い出させてくれます。また、イエスが微笑んでいるデッサン画もよく使うのですが、こちらはイエスがあるがままの私を受け入れてくださると感じるのです。
 今日の第二朗読にある、「見よ、神が人と共に住み、彼らの眼の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示録21-3)も好きですし、今日の詩編「主は恵みとあわれみに満ち、怒るにおそく、いつくしみ深い」(詩編145)を思い出すたびに嬉しくなります。
 皆さんも多かれ少なかれ、人生において苦しい時ですら、わが主イエスの「無条件の愛」を経験されたことがあると思います。もう一度人生を振り返ってみて、あなたへの神の愛を見つけてみましょう。その発見は重要です。確かに愛はそこにあるのです。
 イエスは今日の福音で「私がしたようにお互いに愛し合いなさい」と言っています。「私がしたように」はとても重要です。自分が神に、個人的に神に愛されていると心の底から信じられるようになる必要があります。そう思えれば、隣人を愛することができます。
 イエスの「愛」は暖かい感情を意味していません。イエスの愛はあるがままの隣人を受け入れること、たとえその人があなたに対して残酷であったり、悪口を言ったり、自分を傷つけたりしたとしても、です。わが主イエスは私をあるがままで受け入れてくれました。それを感謝しつつ、私たちも他人を受け入れましょう。それがイエスが私たちを愛してくださったように他人を愛することなのです。
 

日, 04/28/2013 - 06:21

  今日の福音書の中でイエスは「私の羊は私の声を聞き分ける。私は羊たちを知っており、彼らも私についてくる」(ヨハネ10:27)と言っています。この言葉を理解するために、この時代の背景をみてみましょう。イエスの時代には、たくさんの別々の群れの羊たちは夜になると一か所に集められて、安全な囲いの中に入れられました。いろいろな種類の羊の、大きな集団ができたのです。朝になると門が開かれ、羊飼いは独特の声で、その囲いの中から自分の羊を呼び出したのです。それぞれの羊は自分の羊飼いの声を聞き分けて、彼のところへ群れたのです。そして羊飼いは自分の羊を餌場や水場へ連れて行ったのです。羊飼いはまた、天敵であるオオカミやワシといった動物たちからも羊を守ったのです。

 これはたとえ話のようなものですので、言葉の裏にある真意に注目しなければなりません。私たちの神、イエスは私たちを愚かな動物のようには扱いません。私たちは人間なのです。イエスが私たちを知っているのと同じくらい、私たちは羊飼いである主イエスを知っているでしょうか? ここで言う「知っている」という言葉は聖書の中では、特別な意味を持ちます。それは、知識として知っているとか、表面上のおつきあい、という意味ではありません。それは、温かい、親密な友情を意味します。

 私たちの主イエスは、イエスご自身の温かい、親密な友情を私たちにくださいます。またイエスは私たちを守ってくださいます。「何人たりとも私の手から、それらを奪うことはできない」と言っています。

 私たちは本当にイエスの声を聴いているでしょうか? 今の世の中はあまりにもうるさい声で満ち満ちています。テレビ、ツイッター、フェイスブック、などなど。私たち自身、自分たちが忙しいと思ってしまいがちです。イエスの声を聴くためには、意識的に静かな時と、祈りのための静かな心を創ることが必要です。祈りは私たちを愛してくださっている、われらが主イエスとの会話です。「静かにして、私が神であることを知りなさい」とは神ご自身の私たちへのアドバイスです(詩編46章)。イエスの羊の一頭である、というへりくだりの心が私たちにあるでしょうか? そうすることによって、私たちは生き方を変え、心の平安と安心を得ることができるのです。そして、それを隣人と分かち合うのです。
祈りの心を持って、ゆっくりと詩編23章「わが主は羊飼い」を読んでみましょう。

水, 04/17/2013 - 08:24

  最後の晩餐でペテロはイエスに「主よ、他の11人の弟子が裏切っても私は裏切りません。死ぬまで私は忠誠を尽くします」と言いました。ペテロは自分が勇敢で強いと思い、他の11人は自分と比べて弱いだろうと思ったのです!しかし、実際にはペテロは「イエスなど知らない」と3度も言い、裏切ることになるのです。
 復活したイエスはまずペテロに「ペテロよ、あなたは他の人よりも私を愛していますか?」と尋ねました。失敗を通じて学んでいたペテロは他と比べることを避け、「主よ、あなたは私があなたを愛していることを御存じでいらっしゃいます」とだけ答えました。
 何年も前に、日本の大学生に「一番嫌なことは何か」というアンケートが行われました。驚くべきことに、一番嫌われていたことは、「他の人と比べられること」ということでした。
 私が中学生のころ、ある先生はよく「なんでお兄さんのように数学ができないんだ」などと常に比較をしていました。甲乙をつけることはおぞましいことです。
 神は私たち一人ひとりを違ってお造りになりました。一人ひとりに違った指紋をつけたように、それぞれに固有の性格や、長所、欠点を与えました。神は私たちをあるがままで受け入れてくださいますが、私たちにも同じようにお互いにあるがままを受け入れるように願っています。 
 もう一度、「自分を他人と比べていないだろうか」と自分自身を振り返ってみましょう。例えば、他人の容姿、歌や演奏の音楽の才能などに嫉妬を感じていませんか? 他人の健康、成功、高い収入はどうでしょう? 自分自身を他人と比較して羨んで、そして自分は取るに足りないと失望していませんか? 神は愛と優しさ、そして智恵に満ちています。その神が私たちを造り、その私たちをあるがままで受け入れてくださいます。神は私たちが自分自身をあるがままに受け入れるように望んでいます。神は私たち一人ひとりを、無条件の愛によって、愛してくださるのです。
 ペテロは無残にも失敗してしまいましたが、イエスは叱ることも貶めることもしませんでした。イエスは「私を愛しているか」と3度尋ねただけです。聖書を通して、イエスは私たち一人ひとりに同じ問いかけをしています。さて、あなたの答えは何でしょうか?
 「心を尽くして互いに愛し合いなさい。なぜなら、愛は多くの罪を洗い流してくれるからです。」(1ペテロ:4-8)
 

金, 04/12/2013 - 04:48

 以前、私が参加した講演の中で、ある社会学者は次のように言いました。「世界の歴史の中で、現代は最も宗教的な時代です。」驚きのあまり聴衆は静まりかえりました。そこで彼は次のように真意を説明したのです。「いえ、教会に行く人が最も多くなったとは言っていません。そういう意味では違います。しかし、今の世の中「この世における人生の意味は何だろう」と自問している人は益々増えており、その問いそのものは宗教的命題なのです。」
 イエスは人生とは何であるか私たちに示しています。イエスは私たちに、この世の生の目的は天国に入ることである、と言っています。彼が示した道を旅するように、イエスは私たちを招いてくださっています。復活なさったイエスは、彼ご自身が私たちの人生の旅路をともに歩んでくださると言っています。イエスは私たちに勇気と希望、安らぎと人生の旅路の目的を与えてくださるのです。
 しかし彼が示した道をたどる私たちはしばしば疑念を持ちます。これらの疑念は、なかなか収まらないものです。このような疑念を持っていることで、私たちは自分がいい加減でぬるいクリスチャンではないかと、自己嫌悪になることもあります。しかし、疑念は信仰の一部なのです。疑念によって、私たちの日常生活の中で、自分の信仰がいったい何なのか考えさせられることになります。実に、疑念は、信仰をより強くするための大事な跳躍台になりえるのです。こうした疑念はしばしば寂しさや苦しみに苛まされている時に生じます。
 今日の福音書(ヨハネ20:19-31)の中では、使徒トマスがすっかり疑念に凝り固まった様子が描かれています。そんなトマスに復活なさったイエスはどのように応じたのでしょうか。イエスはトマスを叱ったのでしょうか?そうではありませんでした。イエスはあるがままのトマスを受け入れたのです。イエスはかくも親切で優しいのです。イエスは理解と慈しみを見せました。深い疑念を持っていたトマスは、聖書全体を通しても最も深い信仰をもった人になりました。トマスが言った「わが主、わが神」、私たちは今日この同じ慈しみ深い神に出会うことができるのです。どうか皆さん、神よりこの深い信仰の賜物がいただけるように神に祈りましょう。「主よ、私はあなたを信じます。どうか、私の不信心を助けてください」と。 
 イエスは私たちに平安をもたらします。それは特別な種類の平安であり、苦しみのさなかですら味わうことができます。神は私たちあるがままを愛してくださる、と実感した時にその平安を感じるのです。この平安を私たちは共に分かち合っていきましょう。
 

日, 03/31/2013 - 22:15

 今日私たちはイエスの復活を祝いますが、これは何を意味するのでしょうか?
 二千年前、現在はイスラエルと言われている小さな国に、私たちの神様がその栄光を脇に置いて人間の形をとりました。イエス・キリストは100%神であるとともに100%人間でありました。私たちと同じように、彼は苦しんだのです。しかし、私たちのための賜物を勝ち取るために、彼は自分の命を捧げ十字架上で死にました。彼は埋葬されましたが、三日後によみがえったのです。イエスは弟子たちに語りかけ、共に食事をとりました。これを私たちは復活、と呼んでいます。
 しかし、このことは今日の私たちにとってどんな意味があるのでしょうか?それはこのようなことです。イエスは、今日、この日本に、ここ私たちの家に、ここ私たちそれぞれの心の中にいる、ということです。そして私たちが苦しんでいるときには、イエスも私たちのすぐ脇にいて、私たちとともに苦しんでくださる、ということです。また、聖書を通して、生きている声でイエスは私たちに語りかけてくれるということでもあります。復活は、聖体拝領を通じてイエスが実物としても存在していることを意味します。イエスは私たちの人生の旅路における同伴者なのです。
 私たちの神は何か私たちから遠い存在なのではなく、近い存在であるという事実を深く考えましょう。私たちの神は人間であること経験したので私たちの弱さをよく理解しています。福音書の中で私たちはそのような神に会うことができます。神は非常に優しく、思慮深く、そして人間の弱さに対して理解があります。神は現在の私たちに対しても全く同じなのです。イエスは死者の中から復活し天の神に戻ると同時に、地上の私たちに近い神ですから これらすべてがイエスなのです。
 復活したわが主イエスは私たち一人ひとりに、今日生きている声で言います。「恐れるな、私はあなたとともにいる。」

土, 03/30/2013 - 17:09

  今日はイエスの苦しみと死について考えてみましょう。第二朗読ではイエスは真に神であるとともに真に人間でもあることが描かれています。私たちの神は私たち人間に近く、神はご自身が人間であることを経験したがゆえに、私たち人間をよく理解してくださいます。イエスは聖書を通して、今日も生きている声で、私たち一人ひとりに、「私はあなたと共にいる」と言っています。特に、私たちが苦しんでいる時には、イエスは私たちのそばにいて、力、勇気、助け、励ましを与えてくださいます。
 遠藤周作はイエスが経験した心理的拷問について、「イエスは私たち人間の人生の同伴者となるために、また真に愛の神であるということをはっきりと示すために、最も苦痛を受ける形で死ななければならなかった。ゲッセマネのオリーヴの林の中でイエスは死の恐怖と戦っておられた。イエスは私たち人間だれしもが経験しなければならない悲しみと苦しみを味わわなければならなかった。もしそうでなければ、彼は人間の悲しみや苦しみを分かちあうことはできず、ごらん!私はあなたと共にいて、あなたと同じように、いやそれ以上に苦しんだのだと言えないからである。イエスが苦しみを実際に経験したからこそ、彼は私たちに向かって、あなたの苦しみは私にはわかる、なぜなら私もそれを味わったからと言えぬからである。」と書いています。(イエスの生涯第10章)
 私にとって、一人ぼっちで人生を歩まなくて良いというのは、大きな助けであり励ましです。イエスは私たちのすぐ脇に立ってくれると約束なさったのです。時として、それが頭ではわかっていても感じられなくなる時もあります。そんな時にこそ、私はイエスご自身も使ったような(詩編22章のような)、叫びの祈りをするのです。「私の神、私の神、どうして私をお見捨てになるのですか?なぜそのように私から離れてしまうのでしょうか?私のうめき声を聞いて助けに来てくれないのでしょうか?」と。そうなのです。わたしの愚痴そのものが祈りなのです。詩編22章が、ある特別な聖書学的な意味での祈りとなっていることに、大きな慰めを覚えます。あなたもどうぞ試してみてください。ルカによる福音書のイエスのご受難をゆっくりと読んでみましょう。
 

火, 03/26/2013 - 23:19

 今日の福音には姦通を犯した女性が出てきました。先週は父親のお金を買春で浪費してしまった放蕩息子の話でした。聖週間の聖書朗読では、ペテロがイエス・キリストに出会ったことすらも否定する(これは今日の私たちで言えば、教会を捨てて棄教することと同じです)場面を見てきました。これらの大きな罪に比べれば、私たちは自分たちは罪びとでは無いと思うでしょうか? にもかかわらず、私たちは毎回、ミサの初めにこう祈るのです。「全能の神と兄弟の皆さんに告白します。私は思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました」と。「罪」とか「罪びと」とはきつい言葉です。しかし、イエスは、これらの言葉に、優しい意味づけをしています。イエスは「罪びとの友人」と呼ばれるのです。聖書学的な意味では罪びととは、的を狙おうと努力したが失敗した人のことを言います。私たちは良いクリスチャンであろうとします。人に優しくあろうとします。自分を傷つけた人を許そうともします。さまざまな努力をしますが、的をはずしてしまいます。聖書学的な意味では、私たちは皆、罪びとです。
 イエスは罪そのものを糾弾しますが、罪を犯した人に対しては非常に優しく、理解があります。一方、私たちは他人に対しそのようにふるまうでしょうか?
 ヨハネによる福音書8章1-11節を再びゆっくりと祈りの心をもって読んでみてください。今回は女性のことよりも、律法学者やファリサイ人の罪について注目しながら読んでみましょう。かれらはその哀れな女性を、イエスを陥れようとする身勝手な目的のために使いました。さらにひどいことに、彼らはその女性を裁いたのです。イエスは、「裁くな、そうすれば神から裁かることもないであろう」と言い、女性を裁き非難する人々に、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言ったのです。イエスはまさに、今現在の私たちにこの言葉を言っているのです。私たちは人を裁いているのでしょうか、それとも人を許しているのでしょうか?
 追記:第一朗読のイザヤ書は「過去を思い出す必要はない」と言っています。第二朗読ではパウロが「私は過去を忘れました」と言っています。犯した罪について神の許しを得てからは、私たちは罪悪感に苦しむことは無くなるのです。そうです。神のお許しのおかげで私たちは罪を帳消しにでき、心からの平安と喜び一杯に生きることができるのです。クリスチャンの心の中に罪悪感がとどまるところは無いのです。

木, 03/14/2013 - 02:20

 今日の福音は有名な放蕩息子のたとえ話ですが、もう一度、全く読んだことがないつもりで、読んでみましょう。最初の3節(ルカ15章1-3節)はこのたとえ話とそこに込められた教えを理解するうえで非常に重要な背景となっています。 二つのグループがあって、一つは罪人である徴税吏です。徴税吏はローマ政府のために働き、現代で言えば下級公務員といった存在でした。ユダヤ教の休日サバスに働く人々は罪人でした。動物の世話をするために、休日に働かなければならない羊飼いや農民も同様に罪人であり、ファリサイ人たちは彼らをそう呼んだのです。律法学士が定めた613の掟を守らない人々がいました。他の人々は守ろうとしましたが、的を外した行動をとっていました。このたとえ話の中では、弟のほうは徴税吏のような罪人の代表です。
 ファリサイ人と律法学士は上流階級出身で、たいてい金持ちでした。彼らは613の掟は守っても、口先だけのものでした。彼らは自分達の名声だけを気にする偽善者であり、徴税吏や罪人を軽蔑していたのです。厳格で冷血な兄はこのグループの代表です。あなたは自分がどちらのグループに属すると思いますか?
 このたとえ話は4幕構成の劇のようなものです。

第一幕:弟は父親に資産の1/3(当時は長男が2/3を相続する)を受け取り、出奔。華やかな街へ出て行ってしまう。
第二幕:彼は全てのお金を浪費してしまう。やがて飢饉が訪れ豚飼いに落ちぶれるが、空腹は満たされない。そこで初めて自分自身に向き合い、父親の元に戻ることを決意する。
第三幕:父(実際はこの劇での本当の主役)はいなくなった息子の帰りを待って毎日遠くを見ていた。遠くに帰ってくる子を見つけると駆け出し、「おかえり、息子よ」と言って抱きしめる。
第四幕:兄は外見上はすべての掟を守っていた。彼は冷血で厳格で自己中心的であった。友人もいない彼は父をなじり宴会をひらかないように言う。父親は「私はお前をいつも愛しているし、今も愛している」と言う。ここで私たちは、この暖かい宴会の集まりに、その後兄が参加しただろうかどうかと思いをはせるのです。果たして彼は応じたでしょうか? お父ちゃん、私たちの父なる神は、優しさに満ち溢れ、親しい交わりに招いてくださっています。私たちはそれを受け入れるでしょうか?

金, 03/08/2013 - 03:27

 世界のどの国やどの文化にも、たいてい何か悪いことをすれば神が罰するという迷信があります。日本ではそれは天罰と呼ばれます。今日の福音の中でイエスは、真の神はそのようにはしない、と言っています。私たちの本当の神は、罰する神ではないのです。イエスは二つの事件、ひとつは総督ピラトによって殺されたユダヤ人のこと、もうひとつ、建築事故によって無くなった18人のことについて尋ねられました。それら二つの事件で死んだ人々は罪を犯したから死んだのかという問いに対して、イエスは「そうではない」と答えています。
 これは私たちにとって重要な教えです。というのも、もし私たちが神を恐れるのであれば私たちの祈りはとても抑制されたものとなってしまうからです。これらの聖書を読み、私たちの祈りに取り入れましょう。神に祈るということは、あたたかい経験なのです。
(1)神はモーゼを名前で呼びました。神は私を個人的に知っており、私のことを名前で呼びます。聖書の中ではこれは、あたたかい、家族愛の雰囲気を意味しています。
(2)神は私たちが痛みや苦しみの中であげる叫び声を聞いてくださいます。神は目で見ることはできませんが、私たちに近い存在です。神は私たち一人ひとりを気にかけてくださいます。
(3)神はその名をモーセに知らせました。イエスは神の名前を私たちにあらわしました。それは、「私の好きな、おとうちゃん」です。私は、神のお気に入りの子供です。
(4)いちじくの実のたとえ話は、私たちの神は私たちが弱い人間であることを知っている、ということです。私たちを愛して下さるおとうちゃん、神は忍耐強く、優しく、私たちが神のもとに戻るのを待っています。ですから、遅れないようにしましょう!
(5)詩編103章は次のように要約されます。
「神は恵み豊かに、あわれみ深く、怒るにおそくいつくしみ深い」(詩篇103章8節)
 アビラの聖テレジアが祈りについて、「私たちのことを愛してくださる神様との親しい会話」であると言っています。時として私たちは、「ああ、神様ありがとうございます」と言ったり、心配や苦しみ、痛みの中で、助けを求めたりします。また時として私たち自身のために祈ります。しかし、隣人のために神に祈ることを忘れないようにしましょう。
『助けが必要などんな時にも、あわれみ深い神の王座の前に勇気を持って進み出ましょう。そこで、私たちは優しく扱われ、助けを与えられるのです。』(ヘブライ4:6)

月, 03/04/2013 - 23:36

 キリスト教徒が信じる根本的真理の一つに御受肉があります。イエス・キリストが真に神であると同時に、真に人間であると私たちは信じています。100%神であると同時に100%人間でもあるのです。新約聖書ではこのことはいろいろな形で示されています。そのひとつが今日の福音、ルカ9:28-36、主の変容のシーンです。イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネと共に山に登ります。そこで彼は光と栄光に包まれます。天からの声が話し、イエスの顔が光り輝いていました。これはイエスが100%神であるということを聖書が示している一例です。
 もう一つ、別のシーンを見てみましょう。イエスはゲッセマネという名の庭園で意気消沈していました。彼の表情は痛みと恐れに満ち、苦しんでいました。言い換えれば、イエスは100%人間でもありました。同じ3人の弟子が彼のそばにいたのです。
 これはとても難しい聖書学に聞こえるかもしれません。けれども実は、私たちが祈ったり神に近付こうとする時に、たいへん有効な助けとなるものです。我らの主、イエスは近付きやすく、私たちを理解してくださる方です。彼ご自身が痛みや恐怖を経験したので、人間の痛みや恐怖をよく理解してくださっています。イエスは人間の心にある、神的な愛です。
 ずきずきする頭痛に悩んでいる時に、励まされるとするならば、その辛さを知っている同じ頭痛持ちの人から励まされるほうが有り難いものです。同じことが私たちの主イエスに祈る時にも言えるのです。
 今日の詩編27は美しい祈りです。
「主よあなたは私を守ってくれる光、あなたが守ってくださるので私は恐れない。私が困難に陥った時、あなたは私を守ってくださる。私の心は祈るように告げ、私はあなたの顔を慕い求める。あなただけが私を安全に守り、たとえ両親が私を見捨てたとしても、あなたは私の面倒を見てくださる。主を信じよう。勇敢にそして強くなり、主を信頼しよう。」(現代米語訳)
 

金, 03/01/2013 - 23:59

 水曜日に私たちは「灰の水曜日」の記念を行いました。30年前、私はアフリカ沖にあるモーリシャス島に灰の水曜日の記念のために行ったことがあります。そこには地元モーリシャス人のみならず、アフリカ人、インド人、中国人などが集まっており、群衆の大きさに圧倒されました。カトリックのみならず、プロテスタント、ヒンズー、仏教、イスラムなど諸宗教の方々も集まっていました。額に灰を塗られ、「あなたは塵から生まれ、塵に戻る」という言葉を聞き、その言葉はずっと心の中でこだましていきます。これは何か暗い、恐ろしい儀式ではなく、希望に満ちたものです。それだからこそ、そんなにも人気があるのです。
 40日間の四旬節はこの灰の水曜日にて始まり、キリストの復活(イースター)で終わるのですが、この時期私たちは自分自身を見つめなおします。自分自身の日常生活に影響を与える基本的な質問をしなければなりません。私たちは皆死にゆくもので、この一生は束の間のものだと灰の儀式は示しています。ですから、私たちは自分に問うのです。
私たちはどこから来たのでしょうか? (親から生まれ出ていますが、命を与えたのは神です。)
私たちはどこへ向かっているのでしょうか? (天国における永遠の命に向かっています)
どのようにすればその天国へ行けるのでしょうか? (神の愛情深い賜物と導き、そしてその導きに従うように最善を尽くすこと)
現段階では、天国に無事に到着できるための準備はどれくらいできているでしょうか?
私の今の生き方は、心の健康よりも、現世で何とかやっていくことや、物質的なものを最優先していないでしょうか?
私は自分自身のことばかり気にして、他の人のことは気にかけていないのではないでしょうか?
祈りの中や他人に親切にすることで神に出会っているのでしょうか?
聖アウグスチヌスは5世紀に次の祈りを唱えています。
「神よ、あなたは私たちをあなたの為にお造りになりました。ですから私たちはあなたのところへ行くまでは私たちは憩いを見つけることはできません」
 四旬節は陰鬱な時ではありません。そうです、私たちは自分の心を見つめ、心の棚卸しを行うのです。私たちはどんなに神を必要としているか再認識します。その時です、私たちは私たちの弱さをわかって、ありのままの私たちを受け入れてくださる真の神に出会うのです。詩編103節を読んでみましょう。「主は憐み深い方。主は優しく忍耐強く、そしてその愛は永遠。主は私たちが塵から造られていることを知っています。」 
 

日, 02/17/2013 - 03:12

 あなたは何かしら失敗した経験はありませんか? 今、失敗を経験していますか? すべての力を出して頑張ったのに失敗してしまいましたか? スポーツで最善を尽くしたのに敗退してしまいましたか? 父として母として、子供のためにずいぶん尽くしたのに、結局違った方向に子供が育ってしまいましたか? あなたの結婚生活、あるいは人生そのものがうまくいかなかったですか? 健やかな人生を望んだのに、病気がちですか? 人生に失敗はつきものですが、それを担うには重過ぎます。人生で直面する失敗について、イエスはどう言っているのでしょうか。
 今日の福音(ルカ5:1-11)を見てみましょう。この福音の一節はたとえ話のようです。たとえ話の裏にはイエスの重要なメッセージが隠れています。ペテロとその仲間の漁師は一晩漁をしていましたが、一匹の魚も釣れませんでした。つまり、失敗していたのです。がっかりしながら彼らは網を洗っていました。そこへ、教えを説いている大群衆に押される形で、イエスが岸辺にやってきました。イエスは徐々に水辺まで押されてきましたが、そこで網を洗うペテロを見つけ、彼の舟に乗せてくれるように頼んだのです。ペテロはそれに応え、舟を少しだけ沖に漕ぎだし、イエスは舟を説教台として使ったのです。説教が終わると、イエスはペテロに「沖に漕ぎ出し網を放ちなさい」と命じたのです。
 この時、イエスが「魚を取れなかったのは自業自得だ」などとは言いませんでした。そんなことを言ったならば、失敗による傷は深くなるばかりです。またイエスはペテロが自分自身を責めることも止めさせました。そしてペテロに新たな挑戦を与えたのです。「人を獲る漁師になりなさい」と。
 イエス自身も失敗を経験しました。イエスは私たちに再起の勇気を与えてくれます。最大の失敗は、失敗をしたままで、立ち上がろうとしないことです。
 イエスは私たちを愛してくださいます。私たちが失敗した時に、イエスの愛を感じることができます。静かな祈りの時を持ち、イエスに私たちの失敗について、すべてを話しましょう。「私のところへ来なさい...。休ませてあげよう。」休んだのちに、イエスは私たちに隣人を励ますように促し、「誰を遣わそうか?」と言っています。 さあ、「私を送ってください」と答えましょう。

金, 02/08/2013 - 02:55

 教会史において紀元2世紀から7世紀にかけて、イエスの異端問題が起きました。例えば、イエスの魂のみが神であるだとか、イエスの体は人間ではなく、マスクのようなものだった、などというものです。すべての司教がニケーア(325年)、カルケドン(451年)、コンスタンチノーブル(681年)に集まりました。その結果、イエスが人となったのは神秘であり、イエスは100%人間であるとともに100%神である、ということを宣言しました。これはとても抽象的な神学論のように聞こえるかもしれませんが、私たちの日々の暮らし、とりわけ私たちがどう祈るかということに大きく関わってきます。
 私たち人間が悩みや心配をかかえて神のところへ行く時に、私たちが向かう神は同じ人間であることを経験した神なのです。ですから、とても私たちに近い存在なのです。神はあわれみ深く、人間であることを経験したゆえ、正確に私たち人間の問題を理解してくださいます。神は私を理解してくれると確信を持って、神のところへ向かうことができるのです。
 聖書「ヘブライ人への手紙」(2:8と4:16)の中では次のように書かれています。「イエスは苦しんだり誘惑されたりしたので、私たち人間で誘惑されている者を助けてくれます(2:8)。ですから必要な時いつでも、私たちは勇気を持ってあわれみ深く優しい神の玉座の前に進み出るべきです。そこで私たちは、身に余る優しさと助けを与えてもらえるのです。(4:16)」
 今日読まれた福音書に明確な例が出ています。すでに有名な説教師となっていたイエスが自分の生まれ故郷ナザレに帰ったときのことです。人々は最初イエスが知恵に満ちていると思いましたが、イエスが「神の愛と慈しみは異邦人にも及ぶ」と言ったとたんに
態度が変わりました。異邦人を憎む人々には受け入れられない思想だったのです。共に育ったイエスを人々は絶縁し、殺そうとさえしました。私たちと100%同じ人間でもあったイエスはどんな気持ちであったか、想像してみましょう。もし心の傷を負ったり、いじめられたり、パワーハラスメントにあったりしたら、イエスのもとへ向かいましょう。イエスもそれを経験しているのです。
 あなたは寂しいですか? 我らが主、イエスのもとへいきましょう。イエスは言っています。「疲れた者、重荷を負ってあえぐ者は皆、私のところへ来なさい。休ませてあげよう。」イエスのこの慰めを他の人々と分かち合いましょう。

 

日, 02/03/2013 - 08:04

 今週からルカによる福音書が始まります。ルカは事実をありのままに伝える語り部であり、言葉使いの芸術家でした。彼は人々を描き、その場面の雰囲気を読み手のために作り上げてくれます。マリアの受胎告知、ベトレヘムの馬小屋、良いサマリア人、放蕩息子、一人息子を亡くし悲嘆にくれる寡婦、エマオの実家に帰ろうとする二人の失意の弟子などを思い起こしてみましょう。ルカはまた男女平等に敏感で、男女それぞれ二つのたとえ話をしています。
 今日の朗読で、ルカは説教師としてすでに有名になっていたイエスが生まれ故郷に戻ってきた場面を描いています。イエスは、はるか以前に書かれた聖書、イザヤ書を読み、事実上「私が約束されていた救い主である」と言ったのです。
 聖書を読む時、これは2,000有余年前に起きた大昔の出来事だとは思わないでください。聖書は、「永遠の現在形」で書かれているものです。ですから、聖書を読む時には、私たちは自分自身に向かって、今日神が私に伝えたいことは何だろうか、と考えながら読んでください。
 ヘブライ人への手紙の中で、「神の言葉は生きていて、その言葉は作用する」(ヘブライ4-12)という一節があります。
今日、この聖書の一節に込められた、神から私へのメッセージは何だろう?と自問してみてください。
あなたは貧しいですか? 金銭的な貧しさですか? それともあなたの本心からしたいことを行う力が無いという意味での貧しさを感じているのでしょうか? 心に貧しさを感じている人は神の力に頼りましょう。
あなたは、嫉妬、怒り、不寛容などに捕えられていませんか? これらのクビキはイエスがはずしてくださいます。
あなたは、困っている隣人や他人の長所などに対し、目が見えなくなっていませんか? イエスは本当の意味で、目が見えるようにしてくださいます。
あなたは、いじめられたり、多忙であったり、できないことまで任されたりして、困っていませんか? イエスは自由を与えてくれます。
 聖書は、現在のあなたのためのものです!
ルカによる福音書、4章14節から21節までを、2回、ゆっくりと読みましょう。イエスはあなたに話しかけてくれるでしょう。

水, 01/30/2013 - 01:57

 ヨハネによる福音書の中で、七つの奇跡が語られていますが、これは「しるし」と呼ばれます。これは、これらが歴史的事実にとどまらず、より深い意味を指し示しているからです。ヨハネの最初の「しるし」は今日読まれたカナの婚礼です。ヨハネ2-11では、「これはイエスが示された最初のしるしである」と語られています。聖書ではしばしば「宴会のテーマ」が出てきます。今日読まれたイザヤとカナはその典型です。もちろん、有名な「最後の晩餐」もそれにあたります。このテーマは、神と人間が平和と喜びとともに交わりを持っている、ということの象徴です。
この、カナの婚礼であらわれている象徴を見てみましょう。
(1)6個の石カメは空となり、ぶどう酒は無くなってしまいました。これは古い宗教は終わってしまったということです。しかし新しい宗教が始まろうとしています。
(2)石カメが水で満たされ、イエスが神の力をもって無味な水から美味なぶどう酒に変えました。イエスは私たち人間に新しく、美しい神との交わりをくださったのです。新しい時代が始まろうとしているのです。神は私たちに近いものとなったのです。
 私たち自身に重要な問いかけをしてみましょう。「自分にとって神とはどのような関係にあるのでしょう?わたしの神のイメージは遠く、私に無関係なものでしょうか?」 イエスは全く逆のことを言っています。私たちの神は私たちに近く、私たち一人ひとりをとても愛してくださいます。イエスは、「私はあなたを友と呼ぶ」と言っています。私たちの神との関係は友情の一種でもあります。
 神を友として持つということは、私たちの毎日の暮らしにすばらしい味わいをもたらしてくれます。
 私たちは決して孤独ではありません。温かい支援や気配りをいただいています。
 カナの婚礼の時のイエスを思い起こしてみましょう。出席者はすべてイエスの友人であり、一緒にいることを楽しんでいました。イエスはみんなと話し、笑い、お酒を飲んでいたのです。今もイエスはあなたや私に対しておなじようにふるまってくれます。今週、聖書のこの部分を読み、静かに5分祈ってみましょう。そしてイエスとの友情を深めましょう。
 イエスは水をぶどう酒に変えました。あなたは人生において変化を望んでいませんか? あなたは恐れを神への信頼に変えたいと思いませんか? 弱さを神から与えられる強さに変えたいと思いませんか? 自己中心性を愛に変えたくありませんか? 悲しみを喜びに、孤独を神との親密さに、変えたいと思いませんか? これらをイエスに頼んでみましょう。そしてその変化を隣人とわかちあうのです。

金, 01/18/2013 - 01:51

 今日は「公現」の主日ですが、公現とは現れること、つまり神がその御子を三人の賢者の前に見せたことを言います。これは大昔に起きたことですが、今でも起きていることなのです。つまり、その三人の賢者とは、私たちの代表なのです。今日読まれたマタイによる福音書から、私たちへの6つの教えを読み取りましょう。

1)三人の賢者は非ユダヤ教の異教徒であり、諸国民の民です。ユダヤ人の中には神の賜物と愛は、選民である彼らだけものと考えている人たちがいます。今回のこのマタイ書の一節は(そしてイザヤ書も)、神の愛は人類全員にあまねく、例外なく注がれている、と書かれています。このすばらしい愛を神に感謝いたしましょう。

2)三人の賢者は星によって導かれました。神の愛は私たち一人ひとりに注がれ、神は現代の私たちにもその導きをくださっています。もし私たちが自分自身の心の中により深く入っていき、身体が必要としたりし欲しているものより深いものが欠けていると気づいた時、霊的なもののみが私たちの心を満たすことに気がつくのです。神のみが私たちを真に満たし安らかにしてくださるのです。私たちはその幸せと平安への憧れに導かれていくのです。

3)三人の賢者は聖書を読み、解釈してエルサレムに到着したり、ヘロデ王から逃れたりしています。現代の私たちも、導きを得るために聖書を開いてみましょう。

4)三人の賢者はイエスと人間として、個人的な出会いをしました。私たちも、聖書を読み、静かに沈思黙考することでこれらの聖書の中で生きているイエスに出会うことができるのです。

5)三人の賢者はイエスを自ら探していました。私たちはそのような欲求を持ち、より深いところでイエスと出会いたいと望んでいるでしょうか? 自分自身を、求めている人、と言うことができますか?イエスは私たちに、「求めなさい。そうすれば見つけられるでしょう。」と言っているのです。

6)三人の賢者は、金塊、乳香、没薬をささげました。本当の、双方向の交わりがある宗教は、自分自身を神に捧げることを意味します。たとえば、金塊の代わりに、一日のうち10分間を静かな聖書朗読のために神にささげましょう。乳香の代わりに、思慮深さと優しさを他人にささげましょう(特に、あまり好きではない人に!)。没薬の代わりに、誰かあなたを傷つけた人を許しましょう。

 三人の賢者の話は、極めて現代的な話です。まさに、今を生きている私たちの話なのです。

金, 01/18/2013 - 02:00

 私は生後三週間で洗礼を受けました。そしてそれから25年後、司祭に叙階されて1週間後私は洗礼を私の初めての神の子に授けました。この57年前のの洗礼のことをありありと覚えています。水を注ぐという、単純な行為。そこで私は突然、神がこの水の儀式を通して私たちに働きかけている、神の力を感じたのです。これが私が赤子であったときに私に作用した力だったのです。先月、私は4人の方々に洗礼を授けました。同じ感覚がわき起こり、私たちの心に大きな変化が洗礼の時に起きたのです。

 洗礼がどのような意味を持っているか、考えてみましょう。

 今日読まれた福音書では、イエスの頭上より「あなたは私の大切な子である」という天の声があったと言われています。これと同じ言葉が私たちにも言われています。洗礼により私たちは神の子となります。これは、ただ詩的な表現というわけではありません。私は本当に神の子であります。なぜならば、神がその新しい命を私にくださって、私は「おとうちゃん、アッバ」と呼べるようになったからです。わが父、神は私をその子供として愛してくださいます。神は私を守り、弱い人間である私をあるがままで受け入れてくださいます。神は私を名前で呼んでくださいます。神は近い存在で、近寄って話しかけやすい方です。それが私の神なのです。

 洗礼を通じてイエスは私たちの兄弟となりました。私たちは同じ父をもっているのです。イエスは「人間性の川」に入りましたが、それは私たちにイエスが私たちと全く同じ人間であるということを示すためです。言い換えれば、わたしたちの神は人間であることを経験したのです。このように、私したちの神はとても人間に近く、近づきやすい存在となりました。イエスは羊たちをなでたり、腕の中に抱いたりする優しい良い羊飼いにたとえられています(イザヤ40:11)。イエスは私たちの人生の旅路を一緒に歩いてくださいます。イエスがそばにいてくれるので、私たちは決して寂しくなったりしません。

 精霊は私たちの心に平安を運んでくれる優しい鳩にたとえられています。その息吹は私たちに慰めと力を与えてくれます。

 81年前に私は洗礼を受けました。私はこの素晴らしい賜物を神に感謝しています。

水, 01/02/2013 - 03:07

 時々私は聖書の一節をいくつか異なった翻訳で読むことがあります。同じことを違う言葉を使って言っているのですが、これが聖書のメッセージをより深く味わうのに役立つのです。例えば、ヨハネの手紙Ⅰの第3章第1節「天の父は、どんなに、私たちを愛しておられることでしょう。考えてもごらんなさい。神様の子供とされたのです。」(現代英語訳) 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」(新共同訳)。
 ですから、ゆっくりと考えてみましょう。神は私を愛してくださっています。私は神の愛されている子供です。年の瀬のあわただしい中ですが、少なくとも5分間、静かにこの偉大な真実について考えてみましょう。そうすれば、これはあなたに働きかけ、多忙な中にあってもあなたに平安と安心感を与えてくれるでしょう。
 「愛」とは何でしょうか? とりわけ、私たち一人ひとりに注がれる神の愛とは何でしょうか? 神は神であるので、私たち一人ひとりを裏も表も、徹底してよく御存じです。神は私たちの欠点も良いところもすべて知っています。わたしたちの神はよく理解してくださる神です。イエスとなって神は人間であることを経験しました。神はあるがままの私、欠点を含めたすべてを受け入れてくださいます。これが無条件の愛です。
 ですから私たちは信頼して神のところへ行き、心の内をすべて打ち明けることができます。神は私たちのたどたどしい祈りを受け入れてくださるのです。
 どんな家庭においても困難な時期があります。今日読まれた福音書の一節のように、誤解があったり、心が引き裂かれるような苦しみ、悲しみがあります。ヨゼフ、マリアそしてイエスの家族は私たちに希望と励ましを与えてくれます。彼らのところへ行き、助けを求めましょう。
 自分自身を指さして、「神はあるがままの私を愛してくださる」と言ってみましょう。そしてその愛を他の人とわかちあってみましょう。隣人をあるがまま、彼/彼女の欠点も含めて、受け入れてみましょう。愛に満ちた神はそれを私たちに対してしてくださっているのです。神は愛なのです。

日, 12/30/2012 - 00:26

 先日、私は母親が赤ちゃんをあやしているのを見ました。その赤ちゃんはとても小さく、か弱く、母親に頼り切っているように見えました。もし私たちに選択肢があるのであれば、このように無力な状態でこの世の生まれたいと思うだろうか、とも私は思いました。しかし、実際まさにそれが主イエスが私たちのためになさったことなのです。神である御子は、天の栄光と力を脇に置き、私たちと同じようなか弱い存在に自らを置いたのです。イエスは赤子となり、それゆえ母マリアに全く依存する存在となったのです。神が幼子となったのです。
 クリスマスのゆりかごを見て、考えてみましょう。私たちの神が自らの意思で人間の弱さと他者への依存を選択されたのです。そしてイエスがそうしたのは、私たち一人ひとりを愛しているがゆえなのです。この、私たちと同じ弱くはかない存在になったということは、最終的にはイエスが私たちのために自らの命を十字架上で捧げるということにつながります。クリスマスのゆりかごと十字架は緊密につながっているのです。
 イエスは私たち一人ひとりに「幼子にならなければ、天の国には入れません」と言っています。子供っぽくなりなさいということではありません。大人として、私たち自身の人間的な弱さを認識し、全てを神にゆだねることを言っています。私たちは皆、おとうちゃん、と呼ばれる神の子どもたちなのです。人間的弱さに苦しむ私たちに対して、イエスは神の力に頼るように呼びかけています。
 しかし、私たち人間は自分自身で支配しようとしてしまいます。クリスマスは飼い葉おけの中の幼子イエスを見る時でもあります。イエスは私たちに支配することをあきらめ、神の御手に自分自身をゆだねるように言っています。「おとうちゃん、神よ、あなたの御手に私をゆだねます」 私たちの神は優しく、理解に満ちた神です。彼は私たちの幸せを願っています。神を信頼してよいのです。飼い葉おけの中の幼子イエスを見て、どんなに彼が無力で弱い赤ちゃんであったかを知りましょう。そしてもし私たちが自分たちの人間的弱さと神に頼ることの必要性を認識し、素直に神の御手に自らを差し出すことができるのであれば、私たちは真に自由に、そしてより人間らしくなれます。神が私たちと同じか弱い人間になろうと決めたことは、それは神が私たち人間に近い存在になろうとした証左でもあります。人間的な弱さを経験したので、神は人間の弱さをよくわかってくれています。神は人間になることがうまいのです。これこそが、クリスマスの意味なのです。すばらしいとは思いませんか?

火, 12/25/2012 - 02:45

  今日は待降節第三日曜日ですが、別名「喜びの主日」とも言われます。それは聖書朗読の中で、「喜び」や「幸せ」という言葉が頻繁に出てくるからです。聖書における喜びとは神からの賜物のことです。それはとても深く、とても霊的なものです。(それは、例えば、試験に合格したような一時だけの喜びとは異なるものです。)キリストからの賜物の喜びは、悲しみや苦しみのさなかでさえ経験することができます。このキリスト教の喜びの基礎は、ありのままの自分を神が愛してくださる、ということを知り、感じることです。神は冷たくて遠い神ではありません。神はとても温かく、愛情に満ち、親切です。「主はあなたの中におられる。あなたはもはや、災いを恐れることは無い。」(ゼファニヤ書) 「喜びなさい、主はすぐ近くにおられます。思い煩うことはありません。」(使徒パウロのフィリピの教会への手紙)
 この特別な喜びにあずかるために、私たちはそれに対して憧れを持たなければなりません。私たちは自分たちの意思の力だけではこの喜びを自分の心にもたらすことはできないと認めなければなりません。そこで私たちはこの偉大な賜物がいただけるように祈るのです。この私たちの祈りは神に届き、神は私たちに賜物をくださるのです。
 福音の中では、洗者ヨハネが、イエスの宣教と癒しの公生活の始まりにあたり、人々にその準備を説いている情景を見ます。ヨハネは人気のある説教師で、その説教を聞こうと群衆は彼を追っていたのです。しかしヨハネは真に謙遜な人であり、イエスのために自分の人気を犠牲にしました。ヨハネは、「私はすぐれた救い主ではありません。私より、イエスのところへ行き、彼の言葉を聞きなさい。私の目的は全てイエスをあなたに導くためなのです」と言いました。それは謙遜と勇気を必要とする行為です。
 私たちは誰かに一番の座を譲る謙虚さを持っているでしょうか? 私たちは競争世界に生きており、他の人を蹴落として、自分の昇進を無慈悲に追い求める人もいます。それはイエスの教える生き方ではありません。自己中心でいることをやめて、他の人が成功するように助けましょう。そうしたらどうなるでしょう。「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをイエスによって守るでしょう。」(フィリピの教会への手紙4-7) さあ、やってみましょう。
 

木, 12/20/2012 - 02:07

 第1朗読で読まれたバルクの預言ではバビロン捕囚で苦しむ人々の姿が描かれています。彼らは失望のどん底で、「神は我らを忘れてしまった!」「神は我らを見捨ててしまった!」と嘆きました。これに対し、神はバルクを通じて言いました。「決してお前を忘れたり見捨てたりはしない。お前はいつでも私のいつくしみを手にしている。高い山に立って、東の方に目を向けよ。昇っていく太陽は私がお前を助けることの象徴である。希望を持ち、私を信じなさい。」神は現代に生きる私たちにも、今も同じように言い続けているのです。

 待降節に希望の意味をもって私たちは自分の過去を振り返ります。私たちには暗闇や苦しみの谷間があったでしょうか? 悲しみの山があったでしょうか? まがりくねった問題の道があったでしょうか? その道は険しく困難な道のりだったでしょうか?

 今日の福音書の中で洗者ヨハネは、「主のための道を整えよ」、と言っています。道をまっすぐにし、谷を埋め、丘を削り、でこぼこの道を舗装する...。つまり、あなたの過去の苦しみは過去のものとして水に流し、明るい希望をもって未来を見よう、ということです。なぜならばイエスがあなたを助け、癒して解放しにくるからです。「彼が来ることは、夜明けがやって来るのと同じくらい、確かなことなのです」(ホセア書6-3)

 私たちはこれを自分達、人間の力だけでできるでしょうか? それは絶対にムリです。

 素晴らしい彫刻を大理石の原石から、包丁一本で削り出すことができないように、すべての問題を自分自身の努力だけで解決することは不可能です。私たちは絶対に神からの力が必要なのです。言い換えれば私たちは救い主を必要としているのです。謙虚に、そして正直に私たちは救い主を必要としていることを認識しましょう。そうしてこそ初めて、私たちの救い主イエスは私たちの心の中に入ってきて、私たちに平和の賜物をくださるのです。

 イエスご自身も私たちの心の中に入りたいと望んでおられます。けれども、私たちからの招待を待っておられるのです。今週、しばし静かな祈りの時間を持ってみましょう。まずは私たちが必要としていることを直裁に認めましょう。そしてイエスに救いを求めましょう。どうしても癒されたいと強く願うのです。紀元1世紀から使われてきた短い祈りは、「主イエスよ、来てください」でした。イエスは慈しみに溢れています。彼は決して私たちを見捨てません。イエスとともに人生の旅路を歩みましょう。そうすれば、私たちは決して一人ではありません。これがの未来に向けた私たちの希望なのです。

水, 12/12/2012 - 01:55

 あなたは苦しんでいませんか? 寂しくありませんか? 喪失感や敗北感にさいなまれることはありませんか? あなたは自分の人生がメチャメチャになってしまったという気持ちになったり、将来が暗いと思ったりしてませんか? 

もしそうであるならば、イエスが今日の福音の中で次のようにあなたに言っています:「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(ルカ21:28)

平和の源であるイエスがあなたを慰めるためにやってくるのです。

 今日から「待降節」と呼ばれる教会の特別な季節に入ります。この意味は私たちが希望を持って、イエスの再臨を待つという意味です。また、ベツレヘムにおけるイエスの誕生を、自分の心を準備して待つという時期でもあります。イエスの誕生の夜、天の天使たちは羊飼い達に、「平和の御子が生まれました。厩にいるその方のところに行きなさい」と告げたのです。

 エレミア書には、破壊と人々の奴隷化を目的に、バビロニアの軍勢がエルサレムに迫ってくる場面があります。エルサレムのゼデキア王は滅亡から国を救うために策略を用いますが、神に頼ることを忘れていました。預言者エレミアは神の言葉を代弁して、今後苦しみが訪れるが救い主が現れるので希望を持つように、と言ったのです。イエスはこの預言の究極の意味での実現です。イエスは現在の私たちにも、今日、訪れているのです。

 今日読まれた福音書は、背景を知らなければ、恐ろしく思える部分です。黙示録形式と言われる形で書かれており、苦しんでいる者に希望を与えるために書かれているのです。この形式で書かれているものはわかりにくいかもしれませんが、ぜひ私たちの心の中に次のメッセージをしっかりと受け止めましょう。それは、「私たちが何か苦しんでいる時、身を起こして頭をあげましょう、なぜならば私たちの神イエスが助けに来てくれるからです。そしてイエスはあなたに平安を与えてくれるでしょう。イエスに祈り、助けを願い、そして希望を持って待ちましょう。」

 今日読まれた答唱詩編25節を祈りましょう。

神よ、あなたの道を示し、その小道を教えてください。

「あなたの心配ごとを主にまかせなさい。主がその面倒を見てくださるでしょう。」(ペテロ第一の手紙 5-7)

金, 11/23/2012 - 02:41

 今日から聖書週間が始まります。聖書は神様から私たち一人ひとりに対する個人的なメッセージです。そのメッセージは私たちに平安をもたらしてくれます。聖書を開き、祈りの心をもってそれを読まなければ、私たちは人生において多くのものを逃してしまいます。
  聖書には二つの側面があります。まず、私たちが苦しんでいる時に勇気と慰め、そして平安を与えてくれます。しかし聖書は私たちに挑戦をも提供しているということです。挑戦がなければ精神的に成長はできません。
  私の本棚の中で、最も大事な一冊は、すりきれた古い聖書です。その中では何か所も黄色いペンでアンダーラインが引いてあり、それはすなわち私の過去40年の人生と重なりあっています。
  新約聖書と旧約聖書両方において、神とイエスによる「恐れるな、私はあなたと共に居る」という言葉(あるいはそれと同等の言葉)が300ヶ所以上もあると聞いたことがあります。例えば、今日のミサで私たちは詩編16-8を歌いました。ここでは「神はわたしのそばにおられ、わたしはけっしてゆるがない」とあります。イエスは私たち一人ひとりに、生きている声で、「恐れるな、私はあなたと共にいる」と今も言っているのです。
 私はこれらの箇所が好きです。これらは大いに励ましを与えてくれます。
 優しい神は私たちのそばにいてくれるという同様のテーマがイザヤ43章1-5で繰り返されています。イエスは私たち一人ひとりをそれそれの名前で呼んでくれます。神は、「あなたは私の眼に値高く、私はあなたを愛している。恐れるな、私はあなたと共にいる」と言っています。
 聖書の中で私が好きな箇所には、次のものがあります。
詩編23章、ヨハネ10章: イエスは私たちの良き羊飼い、私たちはその羊。
ヨハネ15章: ブドウの木とその枝葉のたとえ話、特に第6節で、「私はあなたを友と呼ぶ」という箇所
マタイ14章22節: 嵐の夜、湖にペトロが沈んでしまうが、イエスが手を差し伸べて救う場面
ルカ7章11-17節: ナイムの未亡人をイエスが深くあわれむ場面
ルカ19章1-10節: 木の上に登ったザアカイにイエスが気づく場面
マタイ11章28節: イエスは私たち一人一人に「疲れた者、重荷を負ってあえぐもの、私のところに来なさい。休ませてあげよう」という箇所
さあ、聖書を開けて、祈りの心を持ってゆっくり聖書を読んでみましょう。それにより、私たちの日常の暮らしにすばらしい味わいが生まれてくるでしょう。

土, 11/17/2012 - 19:34

 イエスの時代のこの情景を想像してみてください。群衆が集まる大寺院で人々が献金箱にお金を入れています。お金持ちの人々は、これ見よがしに大金を献金箱に入れて行きます。それを見た人々は「何て信心深いのだろう!」「何と気前が良いのだろう!」と感嘆しています。そこへ貧しい寡婦がやってきて、銅貨を二枚入れて行きます。誰も気にすることはありませんでした。しかし、神は大いに気に留めたのです。 神は彼女の美しい心を見たのです。

 寡婦は銅貨を二枚持っていました。献金は一枚だけにし、一枚は自分のために取っておくこともできたのです。しかしそうはせず、二枚とも献金箱に入れたのです。

 この福音書の話(そして今日読まれた旧約聖書に出てきた寡婦の話も)のメッセージは、彼女は神を信頼した、ということです。彼女は自分自身のすべてを神に捧げたのです。

 神は「契約」という厳粛な誓いを私たちに立てておられ、神がいつも私たちとともにおられ、私たちを常に守ると約束してくださっています。イエスはこの厳粛な約束を更新されました。私たちは神の言葉を信じるでしょうか?私たちは神の約束が私たちにとってどんな意味を持つか、実感しているでしょうか?そして、つまるところ、私たちは神を信頼しているでしょうか? 神はまことに信頼できる方なのです。

 神を信頼するのであれば、私たちは自分自身を神に捧げることができます。神は私たちのお金ではなく、心を望んでおられます。確かに、もしそれが真の神への信頼と感謝を表すのであれば、献金することはできます。

 日曜日に私たちが教会に来るときに、私たちは、一週間の労働、勉強、リクリエーションなどなど、つまり私たちのすべてを神に捧げるのです。週のすべてを神に捧げるという気持ちでミサに来ることにより、私たちはミサという儀式の深い意味を知り、味わうことができるのです。その週に行ったすべての自分の活動について、神の導きを頼むことができるのです。わたしたちは他人に優しくできるように神に頼んだり、神に感謝したりすることができます。ですから、心の奥底から、私たちの「二枚の銅貨」を持ち出して、神に捧げましょう。一枚は信頼、もう一枚は奉献です。これにより、私たちの週はすばらしい味わいがあるものになるでしょう。やってみましょう。

土, 11/10/2012 - 03:28

  私たちのミサの聖書朗読において、答唱詩編は重要な部分を占めています。今日読まれた詩編(18-1-4)についてよく見てみましょう。
 「神はわたしのとりで、わたしの岩、
  わたしの救い、身を避ける岩。
  わたしの神、わたしのたて、
  わたしのやぐら、救いの力。」
 あなたは神をどのようにイメージしますか? 具体的な例で私たちは神を知ることができます。神はとても優しく理解に満ちた父親のようだとイエスは私たちに説いています。その父は、放蕩の限りを尽くした息子を許し、彼の帰還を待ち、そして帰ってくる息子を遠くに見ると走って行き、「よく帰ってきた!」と抱きしめてあげる、という親です。
 今日の詩編に「神は私の岩」とあります。これは神は私たちがその上に人生を築きあげることのできる堅固な岩であるという意味です。「私の神は、私が身を避け、難から逃れることができる逃げ場」これにはまた違った背景があります。詩編の著者ダビデが、彼を殺そうとする追っ手から逃れて山に潜んでいた時に、岩ウサギに気づきました。ウサギたちは天敵であるワシやタカから身を守るためにに岩かげに隠れていたのです。これら古代イスラエルにいたウサギたちは、現在の北海道に生息しているエゾ鳴きウサギと同種のものです。全長15センチほどの小さなウサギです。イスラエルでも北海道でも、同じように、危険がせまるとウサギたちは走って安全な岩の隙間に身を隠し、身の安全をはかるのです。詩編の作者ダビデもそれらウサギの様子を見て、「神の中に入れば、私は安全である」という真理に気づいたのでしょう。
 もしあなたが、精神的に追い詰められていたり、心配事があったり、心身の病や傷に苦しんでいたりするならば、どうぞ私たちの優しい神様に逃げ場を求めてください。神は私たち皆の安全な逃げ場所です。神はタテとなって、私たちを災厄から守ってくださいます。か弱い私たちに神は力を与えてくださいます。神は私たち一人ひとりを特別な子供として愛し、世話をしてくださるのです。
 

水, 10/31/2012 - 22:00

 初代教会の時代から、短い一言の祈りの習慣がありました。例えば、「マラナタ」(主が来ますように)、「キリエ・エレイソン」(主よ、あわれみたまえ)といったものです。これらは祈りやすく、覚えやすいもので、聖書の一節に基づいています。

「主よ、あわれみたまえ」を見てみましょう。この祈りは今日読まれた福音書に基づいています。エリコの道端で物乞いをするバルティマイという盲人がいました。彼は群衆の声を聴き、イエスがエリコへやって来ると知ると、大声で「主よ、あわれみたまえ」と叫びました。うるさい、迷惑だと止められても、バルティマイはかえって大声で叫び続けました。それだけイエスに会いたいと熱望していたのです。イエスは敏感な耳で、群衆の中からバルティマイの声を聞き分け、彼に会い、そして彼は癒されたのです。

 イエスの「あわれみ」とは何でしょうか。それは温かい優しさ、心からの親切、その人が必要としていることを真に理解すること、愛、そしてその人あるがままを受け入れることです。心から歓迎することなのです。

 このような、言葉による説明よりも、聖書を開けて、実例に触れてみることをお勧めします。

1)ザアカイ(ルカ19-1) 彼はイエスから憐みのまなざしを受け、心の平安を得ました。

2)ナイムの寡婦(ルカ7-11~17) この女性の涙を見たイエスは深い憐みを彼女に与えました。

3)ラザロの墓(ヨハネ11-1~44) イエスは友人の死に、憐みの涙を流しました。

4)てんかんの男の子の父(マルコ9-14~29) イエスはこの父親の弱い信仰を慈悲深く受け入れました。(これをもとに、「主よ、不信心なわたしを助けてください」という短い祈りがあります。)

5)イエスを裏切ったペトロを、優しく見つめるイエス(ヨハネ22-61) 憐みと許しの表情です。

 これらの優しい憐みは、2千年前にこの人たちだけに対してのものでしょうか?違います。聖書が言うように、「イエス・キリストは変わることはありません。イエスは昨日、今日、そして未来永劫変わることはありません。」(ヘブライ人への手紙13:8) ここでの昨日とはイエスが地上にあった時のことを言うのです。

この短い祈りを、あなたの日常の一部としてください。イエスの憐みがあなたに作用するでしょう。

 

日, 10/28/2012 - 18:36

 私たちは祈る時には静かな環境で立ち止まり、神に向かい会います。しかしその神とはどんなものでしょうか。神は遠く、厳しい存在でしょうか。もしそのように考えるのであれば、私たちの祈りは冷たいものとなります。もし罰する神である、と考えるのであれば、祈りは心の通わない義務的なものとなってしまいます。また、神のイメージがあいまいなままだと、祈りも顔を持たない、ぼやけたものとなってしまいます。

 聖書を通してイエスと出会う時、私たちは真の神に出会います。イエスの人々への優しい振る舞いや態度を見ると、私たちは神の本当の心根を理解することができます。さあ、今日のミサの聖書朗読箇所を読んで、イエスと会いましょう。

 イザヤ書の一節は格別なものです。イエスはこの預言の実現であったのです。イエスは多くの事柄を正すために十字架上で御身を捧げられました。「正す」とは私たちに神との温かい関係をもたらす、という意味です。イエスは私たちに神との間の絆を与えてくださいました。祈りとは、この暖かい神との友情を味わうため、特別な時間を持つということなのです。

 詩編33番に次の言葉あります。「主は私の楯」。この言葉は文字の上では、矢や槍から守るものですが、聖書では特別な味わいがある深い意味を持っています。アブラハムが安全な我が家を捨て、危険な荒れ野へ出発しようとする時に、神は「私はあなたの楯となる」と言いました。つまり、「私はあなたを守る」という意味です。神は今日も私たち一人ひとりを守ってくださるのです。

 福音書では、苦しみが待つエルサレムへイエスが近づいていく情景が描かれています。そのような時に、イエスは12人の弟子たちから励ましを受けたでしょうか? 全くそうではありませんでした。 それどころか、ヤコブとヨハネの二兄弟はこっそりとイエスのところへやってきて、かれら二人を弟子たちの共同リーダーにするように頼みに来る始末です。まったく利己的、野心的で、他の弟子たちに対して権力が欲しかったのです。イエスはこの二人を叱ったでしょうか? いいえ。イエスは彼らの人間的な弱さを知っており、あるがままの彼らを受け入れたのです。イエスは今日現在の私たちに対しても同じように接します。私たちの神であるイエスは、人間であることを経験なさったので、人間の弱さをよくご存じでいらっしゃいます。今日読まれた「ヘブライ人への手紙」の一節には「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とあります。これは、神との温かい関係を楽しむために、祈りを通して神と出会いましょう、と招いている美しい招待状なのです。

 

火, 10/23/2012 - 23:39

  教皇ベネディクト16世は全世界のカトリック信者に対して、「信仰の扉」という教書をお出しになりました。教皇は私たち全員に対し、再び信仰の扉を開けて入り、イエスとの親しい友となるようにとおっしゃっています。私たちの神であるイエスとの親しい交わりを楽しみましょう。イエスは言っておられます:「聞きなさい。私はあなたの扉の前に立ち、ノックしています。私の声が聞こえて扉を開けたなら、食事を共にしよう。(黙示録3.20.)」イエスはこうも言っておられます:「扉を叩きなさい。そうすれば扉は開かれるであろう」(ルカ11:10)

 ヘブライ人への手紙の中でアブラハムは私たちの信仰のお手本だとされています。アブラハムは将来どうなるかもわかりませんでしたが、神が彼のタテとなって守ってくれるという約束を信じました。アブラハムは「彼自身どこへ向かうのかもわからず」(ヘブライ11:18)、出発したのです。今の世の中に生きる私たちも、イエスを通して神からの厳粛な約束を頂いています。その約束は、「恐れるな、私はいつもあなたと共にいる。私はあなたを守る。」というものです。将来のことはわからなくとも、このような約束をいただいているので、私たちは神を信頼するのです。これが信仰です。このような信仰は私たちに、このように不安定な社会にあっても、平安と希望を与えてくれるのです。しかし、この神からの信仰の賜物は、他の人々と分かち合わなければなりません。

 「信仰年」にあたり、日本の司教団の発したメッセージや教皇教書は次のように言っています。
「現代の日本の社会には、少子高齢化、経済の低迷、人間関係や家族の問題、いじめ、自死、原発問題など、さまざまな困難があり、多くの人が悩みや苦しみを抱えて生きています。ここには、生きる意味と救いを求める声なき叫びが満ちているとも言えます。その中で、信仰という尊い賜物を受けた私たちは、自らの言葉と行いで信仰をあかしするように招かれています。(中略)お互いに支え合い、励まし合いながら、謙虚さと勇気をもって新たに「信仰の門」に入っていきましょう。(後略)」(日本カトリック司教団 10月11日)

 マルコ9章24節に描かれている打ちひしがれた父親と共に、わたしは「主よ、不信仰な私を助けてください」と祈るのです。

水, 10/17/2012 - 00:22

 百科事典の伝記によれば、ニュージーランド出身の登山家エドモンド・ヒラリーが1953年に初めてエベレスト登頂に成功しました。しかしヒラリーは自伝で、「私はネパール人のテンジンと共にエベレストに登り、共に山頂に達したのです」と書いています。さらに自伝はこう続きます。ベースキャンプでの行動はまるでピクニックのようで、彼とは楽しく、仲良くやっていました。しかし高度を増していくうちに、我々はお互いの欠点が目につくようになってきて、イライラしてきました。そして霧が目指す山頂を隠し、ついには険しい岩壁に阻まれるという危機に直面したのです。私たちはお互いをザイルでつなぎ、お互いを託したのです。互いの欠点を脇に置き、お互いを受け入れ合いました。心が一体となった時、私たちは困難を克服し、共にエベレスト山頂に達することができたのです。
自伝では、後年ヒラリーは次のように書いています。私の結婚生活とエベレスト登山は似ていました。新婚の頃は私と妻はピクニックのような歳月を過ごしました。そして子供たちが生まれ、蜂蜜製造会社の仕事で忙しくなりました。私と妻はお互いの欠点が目立つようになり、お互い短気になっていったのです。わかちあうことはなくなりました。そして、私たちの息子が亡くなるという危機に直面したのです。妻と私はお互いを支え合い、何とかこの苦しみを共に乗り越え、新しい頂に着いたのです。この過程で、私たちは神の御手の中にいることを感じました。
 創世記や福音書のなかで、聖書は夫婦は平等であると説いています(これはイエスの時代ではiそうではありませんでした。妻は夫の所有物だったのです!)。イエスは夫と妻がお互いに敬い、受け入れることを求めています。
 結婚の誓いは、「順境の時も逆境の時も、病気の時も健康な時も、私たちはお互いを受け入れます」と言っています。結婚の儀式では次のような祈りが捧げられます:「神よ、あなたは私たちの助け、私たちの力」。
 私たちは皆弱い人間です。その弱さを認め、祈りの中で神に助けと力を求めましょう。神は必ずその賜物を私たちに与えてくださいます。
 

水, 10/10/2012 - 01:44

 私たちキリスト教徒は神から特別な賜物をいただいています。けれども、それは他の人々とわかちあうためです。私たちキリスト教徒は絶対に(繰り返しますが、絶対に)、他人たちより優れているなどと思ってはいけません。それが今日の福音書のイエスの教えです。神へ至る道はさまざまです。神は私、バリー・ケンズをニュージーランドにて出生させ、キリスト教徒となるように定めました。神は田中太郎さんを日本において誕生させ、仏教徒とされました。 同様に、金有喆(キム・ユチュル)さんは韓国にて儒教、アクバル・ラーマンさんはパキスタンにてイスラム教、とされました。よく覚えておいてください。神はこのように人間を一人一人お造りになり、それぞれが歩む主な宗教を決めているのです。もし神ご自身がこのような決定をしているのだとすれば、私たちはその人の国や宗教を尊重しなければなりません。
 私はカトリック教会に属しています。カトリックとはギリシア語で、「すべてを受け入れる」「全世界的な」「誰にでも開かれている」という意味があります。イエスは私たちが排他的で、閉ざされた、狭い視野で、自己中心的なグループにならないよう警告しています。
 これは素晴らしい考え方です! しかしどのように実践していけばよいのでしょうか?
 第一に、神があなたを個人的に深く愛しているということを感じましょう。神はあるがままのあなたを受け入れてくれます。
 第二に、神があるがままのあなたを受け入れてくださっているのであれば、少なくとも私たちができることは、外国の人や考え方の違う人を受け入れることです。また、ちょっと違った性格の人や実際付き合いにくい人をも受け入れることです。
 第三に、上記のようなことは、人間の力だけではできないので、神に助けを乞い、祈ることです。
 最後に、これらを大きく構えず、「小さな親切」から始めることです(聖書では小さな親切の象徴として「一杯の水」と表現しています)。
「微笑みは平和の始まりです」 (マザー・テレサ)

金, 09/14/2012 - 03:06

  イエスの時代、ほとんどのユダヤ人は次のように考えていました。「アブラハムの時代から2,000年にわたって、我々は神の道を歩くように真の神に選ばれた。そして600年前、我々の先祖は恐ろしいバビロン捕囚を耐え抜いた。そして救い主がやってくることは約束されている。その救い主がやってきたら絶対に、彼は我々ユダヤ人だけにその祝福をもたらすだろう。」
  イエスを通して、神は、「いや、そうではありません。あなたがたは他の国々の民の光となるべくして選ばれ、神からの賜物を他の民と分かち合うために選ばれたのです。」と言ったのです。
  今日の福音の背景は重要です。ユダヤ人に約束されてきた救い主はイスラエルの外で、ユダヤ人では無い人に対して奇跡を行ってみせたのです。神はこのことを通じて、「私は人類一人ひとりを愛しています。そして私の愛のメッセージを聞くために、その耳を聞こえるようにし、真の神を讃えるために、口をきけるようにするのです。」
  私はユダヤ人ではありません。しかし私はユダヤ人が神によって選ばれたことを感謝します。しかし特に私は今日、神が私に信仰の賜物を下さったことを感謝します。私は心底、聖書を通じてイエスと出会え、イエスが生きている声で私に「雄々しくあれ。恐れるな、私がそばについている!」と語りかけてくれることを、神に感謝しています。しかし、時として私は聞き取りにくい時もあります!
  今日読まれた福音書の中で、イエスは聞く力と喋る力をこの男性に与えました。聖マルコは、この時イエスが実際に使った、「開け」という意味のヘブライ語の「エファッタ!」と伝えています。
  あなたは心の奥底でイエスの言葉を聞いているでしょうか?イエスは「勇気を持て、恐れるな。私はあなたの傍にいる」と言い、また「疲れた者、重荷を負って喘ぐの者、私のところへ来なさい。休ませてあげよう。」とも言っています。
  これらの言葉に対して、私たちの心の耳はしばしば聞こえなくなっていて、それらの言葉は私たちに届きません。もしそうであるならば、イエスのところへ行き、「エファッタ!」と私たちに祈ってくれるよう頼みましょう。今週、しばしの間、私たちの主イエスとともに静かな時間を過ごしましょう。
 

日, 09/09/2012 - 06:14

 聖書には二つの側面があります。私たちに勇気と慰めを与えるものと、私たちに挑戦を与えるものです。今日の福音は後者で、イエスの信徒としての私たちが日常を振り返ってみる必要があるものです。私たちはイエスに心の底から従っているでしょうか? それともうわべだけ、信じているフリをしているだけでしょうか?
 ファリサイ人は極端なユダヤ教原理主義派の人々でした。その多くの人々はユダヤ教とは、613の掟を守ることである、と狭く解釈していました。その掟を守らない人を軽蔑し、ユダヤ教とは掟を守ることであると信じていました。ですからもしその掟を守らなければ天罰が下るし、掟を守れば神からの褒美が与えられると考えていました。
 イエスはこの考えを全く、完全に否定しました。
 イエスは真の宗教とは人が神と出会い交わりを持つことであると説きました。本当の宗教を実践するためには、それは心から発しなければならない、うわべだけの行動や心がこもっていない発言は無意味である、と言っているのです。
 私たちも、ミサに参加する仕方について、ちょっと良心に照らしてみてみましょう。

(1)ミサでの聖書朗読を、私たちは心の耳で本当に聞いているでしょうか? 聖書朗読とは神ご自身が私たちに対して語りかけているものなのです。例えば、今日の申命記の一節、「我々が神を呼ぶとき、神はいつも私たちのそばにおられます」
(2)ミサは私たちの心が捧げられることにより成り立つものであり、私たち自身を捧げることはミサの一部です。一週間のすべての労働、学習、余暇などを神に捧げているでしょうか? 次の新しい週に自分の使命がうまく果たせるように、導き、助け、強めを願っているでしょうか?
(3)ミサは共同体としての神に対する祈りでもあります。自分は他の人々と共にいると祈りの中で心から感じているでしょうか?
(4)ミサが終わったあと、自分は平和と希望の道具になるという気持ちで聖堂を出て行くでしょうか?
聖ヤコブは今日、次のように言っています。「純粋な、汚れのない宗教、私たちの父の目から見た宗教は、孤児や寡婦が困っている時に助けに来るようなものです。」(ヤコブの手紙1:27)

水, 08/22/2012 - 01:01

 最初のミサである「最後の晩餐」において、イエスはパンを取り、「これは私の体、私そのものである。」と言いました。今日の福音(ヨハネ6章)ではイエスは「私は天より降ったパンである」とも言っています。これを聞いたユダヤ人たちは、「それはありえない。彼の父親は大工のヨゼフではないか。それに彼の母親だって知っている。」などと言いました。これらのやりとりは、とても深い意味、つまりイエスは100%神であると同時に100%人間として神ご自身の意向を受けて人間マリアから生まれてきた、ということを示しています。
 そして今日の福音の中では私たちは三位一体の一致と働きを見ることができます。御父はその子イエスを人間に知らしめるという賜物をお与えになり、御子イエスは私たちを御父へと導き神の心の優しさを私たちに示し、そして聖霊は私たちを啓発しその力で私たちを温かく満たしてくださいます。
 ご聖体(ユーカリスト)は多くの次元を持っています。今日の聖書朗読では、ご聖体が私たちの人生の旅路の力の源である、と説明しています。イエスはご聖体を食物の象徴であるパンの形をとって私たちに与えてくださいます。日常の生活では食べ物は私たちの体に力を与えます。もし食べなければ、私たちは弱っていき、頭がクラクラし、足元はふらつき、最後には倒れて餓死へ至ってしまいます。食べ物は力なのです。
 ご聖体は聖なる食べ物であり、生きているイエスそのものです。ご聖体は力であり、心と霊魂の栄養です。聖体拝領によりイエスは私たちの力、私たちの安らぎ、私たちの助け、私たちの導き、私たちの慰めや癒しとなるのです。
 聖体拝領によって私たちは復活なさったイエスに出会います。私たちは私たちの友である神と話すことができます。弱い人間であることを経験なさった神ですから、私たちは信頼して神のところへ行くことができるのです。「疲れた者、重荷を負ってあえぐ者はみな、私のところへ来なさい」(マタイ11章28節) 真に、私たちはイエスの食卓に招かれて幸いなのです。

木, 08/09/2012 - 20:19

 本日の第一朗読、出エジプト記16章では、イスラエルの民がエジプトでの奴隷生活から神の力により逃れたことが描かれています。しかし逃れた人々は荒野に入り、不平を言い始めます。すると神は自然の力を使い、朝には食べられるものが大地に生えているようにしたのです。人々は「これは何だろう?」と言いましたが、ヘブライ語で「マンナ」というものでした。それは明確な神の摂理のしるしでした。神は私たち人間を愛し、面倒をみてくださるのです。
 私たちは主の祈りの中で、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ります。現代の日本において、食べるものにこと欠くことはありません。食物が私たちの食卓に並ぶまでには多くの人の手を介していますが、究極的には私たちの食べ物は神から来ているのです。ですから毎度の食事の前に私たちも「これは何だろう?」と尋ねてみましょう。その答えは、「神からの賜物」なので、私たちは食前に感謝の祈りをささげるのです。日常の食事をあたりまえのこととして見ないようにしましょう。それは、神が私たちを愛し面倒を見てくださるということの明確なしるしなのです。食前食後の祈りは神の摂理を呼び起こしてくれるのです。
 先週の福音(ヨハネ6:1-14)においてイエスは身体のための食物を与えてくれました。今日イエスは私たちに心と精神の力となる霊的食物を与えて下さいます。神は一人の人間まるごと、体も精神も、面倒をみてくださいます。
 新聞には不幸なニュースが満ちています。離婚、自殺、薬物やギャンブル中毒など何件もあります。これらに困っている人はお金持ちであったりすることもしばしばです。財産を山のように積み上げても、真に幸せにはなれないのです。モノによって精神的に満たされることはないのです。神のみが心を満たし、真の平和をもたらすのです。
 イエスは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」(ヨハネ:6-27)と言っています。
 さらに続けて「私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6-35)と言っています。
 私たちの心の飢えと渇きを認め、祈りを通じて、イエスのところへ参りましょう。

日, 08/05/2012 - 06:46

 この週末、20人ほどの子供たちとその親御さんが教会の裏庭でテントに泊まってキャンプをしました。ご飯を担当してくださったお母さんたちはどのくらいの量の食べ物を買うべきか、計算しなければなりませんでした。けれども、今日の福音書では、イエスは5千人以上の人たちに食べ物を与えなければならなかったのです。神が私たちに恵みをお与えになるとき、計算はありません。神はいつも寛大です。必要最小限だけ与える、などということはしません。神様はいつもあり余るほどに与えてくださいます。私たちの神は私たちを本当に愛してくださっているのです。
 神は実に寛大です。聖書では次のような表現でこのことを明らかにしています。「主は言われる、『彼らは食べきれずに残す。』」(列王記下、4-43) それはエリシャの時代の旧約聖書です。イエスは5,000人あまりもの人々を食べさせ、さらに12カゴも食べ物が余ったのです。私たちの神様は優しく、真に人々を愛し、面倒をみてくださいます。
 このような、食べ残しや必要以上ということは、神が私たちにどれほど優しいかということを示しています。神は寛大で、いつもあり余るほどの祝福をくださいます。
 私たちは日常生活において起きている、小さな奇跡に気がついているでしょうか? 生きていること自体、楽しみ、考えついたり、読んだり、行なったりすることなどがすべて「小さな奇跡」なのです。それに気がついて、神に感謝しましょう。(例えば、ホッとさせるような音楽を聴いて楽しむこと-素晴らしい恵みです! 字が読めること-素晴らしい賜物です!)
 神は私たちにその賜物を隣人と分かち合うように望んでいらっしゃいます。福音書に登場した少年は弁当箱に5つの大麦パンと2匹の干し魚を持っていました。少年はそれを隠してこっそり自分だけで食べることもできました。しかし、違いました! 彼はみんなのために気前良くそれをイエスに提供したのです。イエスはその少年の贈り物を人々を助けるために使いました。この少年は私たちのお手本です。
 私たちの願いと感謝の心、両方を持って、イエスのところへ行きましょう。
「助けを求めるすべての人と、心から祈る人のそばに神はおられる。」(詩編145章18節)
 

木, 07/26/2012 - 11:17

  今日の福音(マルコ6:30-34)ではイエスの心がどのようなものか私たちは知ることができます。そしてイエスの心を知るということは、神の心、とりわけ人間に対しての神のを知るということです。
 イエスの弟子たちは忙しくて食べるヒマもないほどでした。イエスは弟子たちのストレスや疲労を思いやって、「人里離れたところに行って、少し休もう」と言いました。2,000年前にイエスは疲れた弟子たちをそのように完全に理解し、そして心配していてくれていたのです。今日、私たちに対してもイエスは同じです。
 イエスは休む計画を立てましたが、邪魔が入ってしまいました。群衆たちはイエスたちがどこへ行くのか予想して、そこへ先回りしてしまったのです。あなたは計画を立てていたのにそれに邪魔が入ってしまった、などということはありませんか? 訪問客や電話、あるいは誰かからのS0Sなど...。よくあることです。イエスはこのようなことを、ご自身が人々と共に生きていくうえの一部として、受け入れていたのです。私心なくイエスはご自身の計画をあきらめていました。イエスは私たちのお手本です。
 「イエスは岸に上がり、多勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ」、と聖書にあります。
 聖書の原典はギリシア語で書かれていて、「深く憐れんだ」という言葉は「スプラニゼスタイ」と言います これは、心の底から深く同情の念で心が動かされる、という意味の大変強い動詞です。イエスに対してのみに使われていて、ナイムの一人息子を失った母親の涙を見た時などに使われています。
 これらは、2,000年前にも、また今日私たち一人ひとりに対しても、イエスの心根がどのようなものなのかを示しています。また、これは私たち一人ひとりに対する、神の心でもあるのです。優しい良き羊飼いであるイエスの心なのです。
詩編23章を祈りの心を持ってゆっくり読んでみましょう。イエスはこの詩編を実現しているのです。「死の陰の谷を歩んでも、私はわざわいを恐れない。あなたが私とともにいてくださるから。」
この詩編のイメージに入って行きましょう。そして良き羊飼いイエスが私たちに与えてくださる平和を味わいましょう。
 

金, 07/20/2012 - 03:05

 今日読まれたエフェソの教会への手紙で、聖パウロは私たちキリスト教信徒はこの世でもっとも豊かである、と言っています。父なる神は私たちの上に霊的な祝福で満たしてくださいました。神は意図的に私たちを選び、神の子供とされたのです。神は私たちを愛し、その子イエスは私たちに希望、平和そして自由を与えてくださいました。エフェソの教会への手紙の最後の部分で、パウロは面白いたとえを使っています。それは、この無償の賜物を受ける約束を保証するために、神は聖霊で「証印」を押した、というものです。
 イエスは私たち信徒一人ひとりに「あなたが私を選んだのではない、私があなたを選んだのだ」と言っています。その通り、私たち信徒はそれぞれ神に選ばれた存在であり、祝福に満ちています。しかし気をつけてください!私たちは特権的なエリートとして選ばれたのではありません。この豊かな恵みを皆とわかちあうように選ばれたのです。イエスは私たち一人ひとりに、「私の愛と平和と希望の証し人となるように、あなたをあなたの属するグループに遣わします」と言っています。
 「遣わす」や、「行け」といった言葉は新約聖書で200回以上用いられており、キーワードとなっています。
 しかし、「私は社会において証し人になる自信はありません」と言う人がいるでしょうし、「そんな資格はありません」と言う人もいるでしょう。
 そんな時に、今日の聖書朗読は保証を与えてくれています。神は証し人となる資格などない、農夫アモスをお選びになりました。そしてお選びになったので、神はアモスに話すべき言葉と皆にそれを伝える勇気をお与えになったのです。イエスは漁夫と徴税人を証し人に選ばれました。しかし、イエスご自身で彼らを選んだので、イエスは同じように話すべき言葉とそれを皆に伝える勇気をお与えになったのです。
 信徒はそれぞれがイエスの証し人となるように求められています。それは日本の中において、自分たちの家庭において、友人たちの中で、ご近所で、学校で、遊んでいる時 あるいは職場でなどさまざまです。今週、祈りの雰囲気の中で私たちが神からいただいている御恵みについて、具体的なリストを作ってみましょう。そしてそれを神に感謝し、分かち合いましょう。神ご自身があなたを遣わしているのです。

日, 07/15/2012 - 07:20

 キリスト教の教えの奥義は神秘と呼ばれています。例えば、三位一体は神秘です。私たちは神はひとつの神を信じていますが、その神の内面は父と子と聖霊から成っています。私たち信徒は「神秘は難しすぎる」と言ってそれを脇に置きがちですが、それはしないでください。むしろ、自分自身に対して、「この神秘の、私の毎日の暮らしにどんな意味をもたらすのだろう」と考えて欲しいのです。(三位一体は、はかない存在である私たち人間は、神の愛に招かれている、ということを意味しています。)
 もう一つの神秘は受肉です。どうして唯一神が人間になりえるのでしょうか?それは神でしかできない技なのです。イエスキリストは100%神、100%人間です。このことの私たちの毎日にどんな意味があるのでしょうか?
 今日の福音書、マルコ第6章を読んでみましょう。イエスは故郷のナザレ村に戻ってきました。これより前に、1章ではイエスはナザレから遠く離れていて、40日間の荒野での修行、ガリラヤ湖畔での活動が描かれています。またイエスはペテロの義母、らい病患者、ヤイロの娘や出血症の婦人を癒し、その教えは人々の心をつかみました。言い換えればイエスは有名になったのです。そしてこれらの後にイエスは故郷に帰ったのです。イエスの友人や親せきはイエスの説教を聞きました。彼らは「彼はこの知恵と力をどこから得たのだろう?」と不思議がりました。もっともでしょう。しかし、彼らは最初から答えを知っていると思い込んでいました。「彼はわが村の大工にすぎない」と。イエスの友人や親せきを含め、ナザレ村の村人たちはイエスを拒みました。あなたは、人から拒絶されたり、不要とされたり、ちっとも感謝されなかったりしたことはありますか? それはとても寂しく、落胆させられるものです。もしあなたがそんな気持ちになった時、イエスのもとをたずねましょう。イエスも人間であることを経験し、それがどんなものであるかよくご存知です。わかってくださるのです。そして私たちとともに、感じてくださるのです。まことにもって、神は私たち一人ひとりのそばにいてくださるのです。イエスは、「疲れたもの、重荷を負ってあえぐものは皆、私のもとへ来なさい。休ませてあげよう。」と言っています。私たちの神、イエスのもとへ参りましょう。
 

水, 07/04/2012 - 23:32

 今日の福音ではイエスは二つの優しい、癒しの奇跡を行っています。それらは、(1)12年も出血症を患っていた女性と、(2)病気で亡くなってしまったヤイロの12歳の娘です。この二つの奇跡に共通して、「触れる」という言葉が四度も出てきていて、「手を置く」「手を取る」という言葉も、大事な意味を持つ言葉として使われています。
 出血症の女性はイエスが自分の病気を治せると信じていました。しかしイエスは彼女の傷ついた心とすべての外見上は見えない傷を理解し、そして彼女をより深い信仰、より深い癒しへと招いたのです。今日生きる私たちに対して、このことが示す意味は私たちもより深い信仰に招かれている、という意味です。私たちはイエスに会い、イエスに触れ、眼と眼を合わせ、心と心を通わすように招かれているのです。私たちの神は遠い、あいまいな神ではありません。それはイエスであり、彼に触るように招かれています。私たちはそれをいろいろなやり方で行うことができます。例えば、聖書でイエスに関する部分を読む、秘跡、特に聖体拝領を通してイエスをいただく、私たちの教会共同体を通してイエスに出会う、貧者への奉仕を通じてイエスと出会う、そしてもちろん祈りを通じてイエスと出会うことができます。
 ヤイロはイエスが自分の娘の病を治すことができると信じていました。しかし彼はより深い信仰、死後の世界(私たちの復活)があるということ、に呼び覚まされたのです。この世での死は人生の終わりではなく、それは永遠の命の始まりなのです。死は私たちの旅路の終着駅ではなく、乗り換え駅にすぎず、そこで私たちは違う列車に乗るのです!
 私がお勧めするお祈りの方法をご紹介します。まず、リラックスして神の光を求めつつ、聖書を開いてマルコ5章21-43節を、非常にゆっくり読みましょう。そして、静かにその情景を思い浮かべるのです。決して傍観者としてではなく、イエスに近い感じで、自分がヤイロあるいは病気の女性になったつもりで読んでみましょう。そしてイエスに自分の悩みを告げるのです。イエスに触れ、そしてイエスがあなたに言うことに耳を傾けましょう。イエスはこんなにも優しく、人間のはかなさを分かってくださいます。イエスは私たちの神なのです。

日, 07/01/2012 - 06:58

 4世紀に聖アウグスチヌスはこの祝日について書いています。冬至の数日後のイエスの誕生日(冬の誕生日)に対してちょうど半年前の夏至の数日後は夏の誕生日として知られています。これが洗礼者聖ヨハネの誕生の祝日のいわれです。
 両親の協力を通じて、神が私たち一人ひとりをお作りになったと私たちは信じています。しかし神は私たちをただ作ったあとは、この世で一人で苦しんでも知らん顔、ではありません。神は私たち一人ひとりを愛してくださり、名前で呼んでくださるのです。神は私たちを守り、それぞれに力を与えてくださいます。これは驚くべき教えですが、私たちは立ち止まってじっくり考えてみる必要があるものなのです。イザヤ書49章の第1節から第6節をを読み、あなた自身にあてはめて考えてみましょう。また、詩編139章を読んで自らにあてはめてみましょう。「私の神は私の力」(イザヤ49:5)何という慰めでしょう!何という力でしょう!  私たちの神は何か遠いところにいて、冷たい、近寄りがたい神ではありません。対照的に、私たちの神は私たち一人ひとりに近く、優しくそれぞれの名前を呼んでくださるのです。神は私たちの人間としての弱さはかなさを分かっています。一言でいえば、神は私たち一人ひとりを愛してくださるのです。
 私たち一人ひとりは人生において何か特別の役割を持っています。例えば、父親であったり母親であったり、または独身を通しても何らかの方法で人々を助けたり、といったことです。実際、私たちはそれぞれ人生において様々な仕事を持っています。教会用語では、この一生の仕事や職業というものを、「天職」や「使命」といいます。神は私たち一人ひとりに、特別な役割を求めていると信じています。神は私たちに使命と同時にその使命が果すのに必要な力を与えてくださいます。「私の神こそ、私の力」ということなのです。
 1952年の有名な邦画「生きる」で黒沢監督は、長年勤めている役人が自分の人生を振り返るシーンを描いていました。彼は自分の今までを無価値に思い、空虚な思いにとらわれていました。もしあなたもそのような思いにとらわれたならば、今日のイザヤ書を読みましょう。
「わたしはいたずらに骨折り、
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。
 主の御目にはわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、私の力。」

日, 06/24/2012 - 07:07

 聖パウロは二度も「私たちはいつも心強い」と言っています。私たちも、たとえ苦境と絶望のどん底にあったとしても、そのように言うことができます。神はあるがままの私たち一人ひとりを愛して下さっているともし本当に信じるのであれば、そのように言うことができるのです。神は本当にそうなのです。
 今日の第一朗読、エゼキエル書では、失意のどん底にある人々が出てきます。かれらはバビロンへ放浪し、失意のどん底にありました。エゼキエルは、「希望を持ちなさい。神はあなたがたを愛しています」と言ったのです。彼は、たとえ話を使い次のように言いました。「神はレバノン杉の梢を切り取って植え、それを再び大木に育てあげる。ですからあなたがたも同じです。神を信じ忍耐強く、希望を持ちなさい!苦難のどん底にあっても、神はあなたを愛しているのです。」
 この神からのメッセージは、今を生きる私たちに、今日も発せられているものです。
 福音ではからし種のたとえ話がありました。からしのタネはホコリの粒くらい小さいものですが、そこには生命が宿っています。土に撒くと、やがて発芽し、木に成長していきます。木の一生の中では、暗い冬があれば明るい夏もあり、収穫の秋があって、生命の宿る春もあります。枝葉を整えるせん定がされる時があれば、肥料がほどこされる時もあります。イエスの教会の時代であろうと、私たちが生きる現代であろうと、人生にもにそれと同じことが言えます。成熟するには時間がかかります。けれども神は働いておられますから希望と忍耐力を持ちなさい。私たちの人生と成熟において、神は主要な働き手です。私たちは神に協力していくのです。パウロはコリント人への手紙第Ⅰ3章6節で「私が播き、アポロが水やりをします。しかし、それを成長させるのは、神です。」と書いています。
 詩編93章の答唱詩編はこれらの教えを次のようにまとめています。
 まず、神に私たちへの愛とそのわざ、私たちへの助けを感謝します。すると私たちはすくすくと茂るナツメ椰子のように栄えるのです。(祈りの象徴であるナツメ椰子の幹の低いところには枝は無く、上の方の枝は人が手を合わせたように見えます。)
 もし神があなたを愛していると深く実感すれば、あなたはたとえ歳をとっていても若々しく日々を過ごすことができるのです。そして生きている実感と心の平安を味わうことができます。神はあなたを愛しているのです。

土, 06/23/2012 - 07:02

  今日読まれた四つの聖書(出エジプト24:3-8、詩編116、ヘブライ人への手紙9:11-15、マルコ14:12-26)において、鍵となる言葉は「コブナント(契約)」です。
 「コブナント」は二つの人々・グループの間でお互いに結ばれる厳粛な約束です。双方は相手に対して約束をするのです。
 ある民族文化においては、血を用いてコブナントをより厳粛に誓うこともあります。例えば、ネイティブアメリカンの場合では酋長同士がお互いの親指を少し切り、その血を混ぜて血を分けた兄弟であるという平和の儀式を行います。
 最後の晩餐においてイエスは種なしパンをと取り、「これは私の体である」と言いました。(ギリシア語原典では体は私自身そのもの、という意味もある「ソーマ」という言葉でした。)私たちはご聖体を拝領する時に、イエスご自身が私たちの心に入ってくる

と信じます。
 聖体の中のイエスは聖書に描かれている同じ優しいイエスなのです。イエスは優しく、話しかけやすく、そして私たち人間の弱さを理解してくださいます。イエスはあるがままの私たちを受け入れてくださり、私たち一人ひとりを愛してくださいます。
 最後の晩餐において、イエスはぶどう酒の杯を取り、「これは私の契約のしるしである私の血」と言いました。「血」は「命」を意味します。病人が他の人から輸血してもらい快方に向かう時、新しい命を得たとも言えます。
 コブナントは約束です。イエスは私たち一人ひとりに厳粛な約束をしてくださいました。イエスは、「私はいつもあなたとともにいる。私は決してあなたを置き去りにしたり見捨てたりはしない。私はあなたを守る。」と約束してくださいました。このイエスの

約束を深く考え、私たちもイエスとの約束しましょう。
「イエス様、私はあなたを信じます。私の人生をあなたの手にゆだねます。」
 イエスはこのコブナントの約束を、ゴルゴダの丘の十字架上で自らの血をもって厳粛に誓ったのです。
 イエスの食卓に招かれたものは幸い。

火, 06/12/2012 - 23:06

 

 神を知らないことは寂しいことです。そのような人は、モノ、富、名声などに安心を求めようとします。しかしそのようなものはうつろいやすく、人間の心を満足させるものではありません。神を知り、神を愛し、そして神を信頼することだけが私たちを満足させるのです。
 キリスト教徒は唯一の神を信じます。しかし、イエスはその唯一の神の内側を教えてくださいました。それは父と子と聖霊から成っており、私たちはそれを信仰の神秘と呼びます。
 父と子と聖霊は相互に作用しますが、神が私たちに対して行うわざについて言及するときに、私たちは父を命とこの世の創り主と言います。(今回ほんの少しの間だけ日食を私たちに見せたのは、この御父なのです!)
しかし、そのように言うと御父である神は遠く、何か冷たいもののように感じられます。イエスは父を「おとうちゃん」と呼んでいました。そして私たちも同じように、呼ぶのです。私の愛する父の呼び名、「おとうちゃん」は、幼児語です。このことは、私たちの神は、私たちが弱いことを知る愛情に満ちた父であり、私たちをあるがままで受け入れてくれる方なのです。彼は自分の息子を人間としてこの世にお遣わしになりました。私たちはその子をイエスと呼びます。人間の形をとったイエスを私たちは穏やかで優しく、寛大で、理解深い方であると感じます。イエスの人間の心を通じて、神の愛情に満ちた心を私たちは見るのです。
 イエスは、人類の代表として父の前で私たちのために祈り、御父にとりなしてくださいます。そし私たちに聖霊を送ってくださるのです。
 聖霊は私たちに愛と平和、弱っている時には力を、迷っている時には導きを、私たちにくださいます。
 聖霊は「唱導者」と呼ばれます。私たちの傍に立ち、私たちを強めて下さる方という意味です。
 三位一体の教えは神秘です。神の内なる命の神秘を解き明かそうとしたり、説明しようとはしないでください。唯一の神から私たちへの愛を味わったほうが良いのです。神は私たちのそばにおられます。神は私たちにその愛の中入るように招いてくださっています。そのお招きに応えることで、私たちは日常の暮らしを味わい深いものにすることができるのです。さあ、わたしたちの父おとうちゃん、イエス、そして聖霊に祈りを通じて出会いましょう。
 
日, 06/03/2012 - 05:21

  今日私たちは、鍵のかかった2階の部屋にマリアとともに集まっていた120人の弟子たちに聖霊が降臨したことを祝います。このお祝いは「ペンテコステ」とよばれていますが、その言葉の意味は復活後50日、という意味です。
  私たちは、「聖霊よ、私たちは弱い者です。どうぞ私たちにあなたの力をお与えください」と祈ります。私たちが弱いと認めることは、弱虫であることではありません。それは、神の前で自分が正直であることを意味します。自分自身の人間の力だけでは私は弱く、キリストが私たちに示した人生の道を歩むことはできません、と認めることなのです。聖霊の力が必要です。聖霊は、力、知恵、平和そして勇気を与えてくれます。しかし、その賜物を受け取るためには、私はそれを必要としている、と認めなければなりません。
  イエスの弟子達はイエスよりエルサレムを手始めに、世界中にうって出よ、とイエスからの使命を受けています。しかし弟子たちは、世の指導者たちがイエス同様彼らも殺害するだろうと恐れていました。彼らはまたイエスの要求を実行に移すことは無理だと感じていました。彼らはイエスが逮捕された時に、臆病で逃げてしまったという裏切りをすでに犯しているのです。
  弟子たちは自分たちが弱いことを実感していたので、二階の鍵のかかった部屋で、聖霊が彼らに下るように祈っていたのです。そして聖霊が下った時に、彼らは臆病や自信のなさに打ち勝つ力を得たのです。大胆に彼らは戸をあけて、イエスとその生き方について堂々と語り出したのです。
  私たちは皆、例外なく、人生において使命を帯びています。それぞれの小さな社会において、平和の道具となるように、求められているのです。しかし、この「聖なる」使命の他に、私たちは自分たちの「日常の」使命、例えば父として、母として、子供として、若者として、高齢者として、それぞれの使命を持っています。さあ、正直にこの「使命」をまっとうするのは、私たち人間の能力だけでは無理だと認めましょう。毎日の生活においても、私たちは神、聖霊の力を必要としているのです。
「聖霊よ、私たちは弱い者です。あなたの力を私たちに送ってください。」

土, 05/26/2012 - 00:01

 この主日の聖書朗読の箇所を、一緒に見ていきましょう。
(1)使徒言行録  何かについておかしな見方を持っていて、それは間違っていると何年もきちんと説明しているのに意見を変えようとしない、そんな人にあったことはありませんか? そんな人はうっとうしいものです。しかしイエスの弟子たちはまさにそのような人々でした。彼らは救い主としてのイエスは憎いローマ占領軍を追い払い、イスラエルを解放するだろうと思い込んでいたのです。しかしイエスは何度も彼らに自分は彼らの心の救い主である、と言っているのです。しかし昇天の時に至るまで、弟子たちはそんな見方を変えなかったのです! イエスは素晴らしい忍耐力を持った方です。その、天に昇られた我が主は、今日においても私たちのための同じ救い主なのです。私たちも自分自身を変えるための聖霊の力を必要としています。
(2)詩編47章 聖書の中で、人々が手を叩き角笛を吹く情景が出てきます。他の詩編では竪琴が奏でられていたり、ダビデ王が神のために踊っていたりしています。言い換えれば、私たちは様々な形で神への祈りを表現することができます。私たちも「すべての技を用いて主をほめ歌う」ことをいたしましょう。
(3)エフェソ人への手紙  教会内の人間関係について書かれています。様々な気質の人がおり、考え方、政治信条、教育水準、仕事や家庭環境などなど、まさに千差万別です。イエスは他人の違いを認めて受け入れるように、私たちに迫ります。多様性の中の一致。イエスご自身によって、私たちは一つにまとまります。
(4)マルコによる福音書  「主は彼らとともに働いた」という言葉についてじっくりと考えてみましょう。誰もが例外なく、神から使命をいただいています。それはある人にはお父さん、お母さんであり、またある人には独身生活です。この主たる使命の他にも私たちには日常生活において度々さまざまな種類の使命が与えられています。これらの使命がどんなものであれ、イエスは私たちと共に働いています。私たちは決して一人ぼっちではありません。イエスとあなたはあなたの人生においてチームを組んでいます。よく考えてみましょう。とても元気づけられることです。そしてこのことを他の人々とともに分かち合いましょう。

火, 05/15/2012 - 00:53

  聖書は永遠の現在形で書かれています! 例えば、最後の晩餐においてイエスはその時の弟子たちに、「私はあなたがたを友と呼ぶ」と言いました。今日、生きている声で、イエスは私たち一人ひとりに、「あなたは私の友である」と言っているのです。このイエスの言葉をあなたの心で聴きとりましょう。
  イエスのこの美しく、私たちを元気づけてくれる言葉の背景としては、まず旧約聖書があります。アブラハムは神より「わが友よ」と呼ばれています(列王記2章、イザヤ書41-8)。モーゼは神に対して友達のように対面し語りかけてています(出エジプト記33-11)。シラ書6-14では、「誠実な友は安全な避難所のようなもの、そのような人がいればあなたは宝物を見つけたようなもの、誠実な友は健康を保つ薬のようなもの」と書かれています。
  イエスはラザロ、マルタそしてマリアの友人でした。ラザロが死んだ時、イエスは真に悲嘆にくれ涙を流しました。(そうなのです、私たちの神イエスは泣いたのです。)
  聖アウグスチヌスは私たちの友人としてのイエスに触れ、こう語っています。「友人とは私たちのことをすべて知っていて、そのうえであるがままの私たちを受け入れてくれる人です。」今日、イエスとはそのような友達なのです。
  1月に私は、ニュージーランドに住む長年の親友に3年ぶりに会いました。私たちはただ座って、私たちにとって大事なことすべてを語り合いました。望みや失敗談をわかちあい、あるいはしゃべることがなくなるとただ黙って一緒にいました。何も言わなくても、深い友情を分かち合えていました。言葉を使わない友情の交歓だったのです。
  祈りによって私たちは友人イエスと語り合います。友人が居ない人、あるいは交友関係で傷ついた人、新しいスタートを切りましょう。イエスは「誠実な友情」を私たちに与えてくださいます。私たちも、主であり、誠実な友であるイエスにに語りかけ、心のすべてを打ち明けるのです。喜びも成功も、疲労困憊も悲痛な悲しみも、失敗・心配・痛み・犯した罪そしてどうしても癒せない怒りなども。イエスはあるがままの私たちを受け入れてくださいます。誠実な友であるイエスに祈ってみましょう。イエスは「私のところへ来なさい、休ませてあげよう」とおっしゃっていて、私たちを招いてくださっているのです。

日, 05/13/2012 - 03:31

  今日の聖書では最後の晩餐でのイエスの言葉が語られています。イエスはご自身が間もなく亡くなることを知っていましたので、この言葉は特に大事です。その言葉は美しいイメージ、私は葡萄の幹であり、あなた方はその枝、というものです。大地にしっかりと根をはった葡萄の木を想像してください。その樹液は木の幹を通って、枝に行き渡っていきます。この、命を支える樹液によって枝は青々とした葉を茂らせ、その枝先には美しい葡萄の房がなるのです。もし枝が幹から切り離されてしまえば、枝はしおれ死んでしまいます。
  イエスは私たちに、命、活力、喜びを与えてくれます。イエスは「私の中で、くつろぎなさい」と言っています。祈りによってイエスと一体となり、イエスの中で憩うのです。イエスの精神は、イエスがくれた愛を私たちが他の人々と分かち合うようにさせてくれます。「私の愛は、単なる言葉やお話しではありません」(ヨハネ第一、3-18)
  この葡萄の木の例え話は温かい朋友愛に満ちています。現代日本に住む私たちはこの温かさを必要としています。先週の新聞報道によれば、30歳以下の83%が将来について悲観的に考えているとのことです。また総務省の調査によれば、30歳以下の30%が、そして全世代の25%以上が、真剣に自殺を考えたことがある、とのことです。これらの統計は大江健三郎の「日本の社会は、希望が無いという危機にあります」という言葉を裏付けるものです。孤独感は伝染病のように広がりつつあります。
  このような統計を目にして、私たちキリスト教信徒は立ち上がらなければなりません。私たちはキリストから命をいただき、キリストと一致しています。イエスの喜び、希望、平和の道具となりましょう。たとえば、まず手始めに、ほほえみと元気づけるような挨拶で、人々と挨拶をかわしましょう。寂しそうにしている人を迎え入れましょう。いじめられている人の傍に立ちましょう、などなどです。ここでよく覚えておきましょう。自分自身の力だけに頼るのではなく、力を与えてくれるイエスに助けを頼みましょう。

水, 05/09/2012 - 02:39

 保土ヶ谷教会は人口3百万の過密都市横浜の中心に位置しています。このようなところでは、羊や子羊、羊飼いなどを見ることはありません。紀元1~2世紀のローマも大きな都市でしたが、初代教会の信徒たちは「羊飼いとしてのイエス」のイメージを好みました。初期のイエス像(レリーフ)は、善き羊飼いの形をとっていました。そのイメージを理解するために、イエスの時代に羊飼いと羊たちはどうであったか見てみましょう。
 羊飼いは、羊の所有者の息子がなることが多く、従って、羊は羊飼いにとって特別なものでした。羊の群れは平均10-20匹程度でした。羊飼いは羊、一匹一匹に名前をつけ、羊もそれを理解し呼ばれたら応じていました。羊飼いはクルークと呼ばれた頑丈な杖と大型のパチンコを武器として、天敵である狼や大鷲から羊を守りました。
 羊はこれらの天敵に対しては無力でしたので、羊飼いの助けが必要だったのです。また羊は方向音痴で、餌場や水場を見つけることができないので、羊飼いの導きが必要だったのです。もし一匹の羊が迷子になった時には、羊飼いはその羊を探しに行きました。羊は羊飼いが一緒にいる時には安心していました。羊は羊飼いの声がわかっていて、羊飼いを信頼していました。
 善き羊飼いイエスは人とみなされましたが、私たちへの愛情は、その時代の羊飼いのようなものでした。これが私たちの神なのです。私たちの神はこんなにも優しいのです。私たちを一人ひとり名前で呼んでくださいます。
 この例え話の美点をしっかりと味わいましょう。イエスは生きている声で今日も私たち一人ひとりに語りかけてくれます。「私は善き羊飼い。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。私は自分の命を私の羊に賭けている。」(ヨハネ10章11-15)
この背景を理解して、祈りの心をもってゆっくりと詩編23章を読んでみましょう。「主は私の牧者....。」

金, 04/27/2012 - 00:47

 あなたは夜、よく眠れなくなるほどストレスを感じていたり、心配事があったりしませんか? または、あなたは暗闇に沈んでいませんか? 人間関係で嫌な思いをしたり、心の傷を負ったりしていませんか? 信仰について疑いを持ったりしていませんか? 地震か津波に飲み込まれてしまう、放射能にやられてしまう、といった抑えようのない不安に陥ったりしていませんか? このような静まりようのない心の不安を感じたときには、今日の福音書にある、生きているイエスの言葉に耳を傾けましょう。「あなたがたに平和があるように。」 これは復活なさったイエスがあなたのために行う祈りです。イエスは、「私の平和をあなたがたに残し、、私の平和をあなたがたに与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ14:27)とも言っています。
 イエスは「私の平和」と言いました。この平和は純粋に神からの賜物です。これは基本的には、愛情と理解に満ちた神とひ弱な私たち人間との間の温かい関係です。この関係は、お互いに随分違った人間同士(そして国同士)においても、同じような理解に満ちた関係が発展していく、というものなのです。私たちは苦しみのまっただ中にあっても平和を味わうことができるという不思議なものなのです。このイエスからの平和は、苦しみに意味を与えるのです。
 今日の福音の中では、平和とは程遠く、苦しんでいる弟子の姿が描かれています。彼らは、臆病にもイエスを裏切ってしまいます。そして罪悪感に打ちひしがれてしまいます。イエスが復活したと言われても素直に信じることもできず、裏切った自分たちに復讐するために現われた亡霊と思ったのです。そしてイエスは再び現われました。イエスは別に彼らを叱ることもせず、「あなたがたに平和があるように」と言われました。 しかし弟子たちはなお、信じることができず、恐れおののいていました。彼らを落ち着かせるためにイエスは焼き魚を食べたのです(幽霊は物を食べたりしません!)。この情景は、神イエスがどんなに穏やかで優しく、そして理解に富んでいるかを示しています。私たちもイエスのもとへ行き平和を乞い願いましょう。今週はルカ福音書の24章を読み、イエスに、「私の心が開かれるよう、聖書を理解させてください」と祈りましょう。

土, 04/21/2012 - 17:21

 詩編118章の始まりは「主は恵み深く、憐れみは永遠」となっています。しかしどのように恵み、憐れみ深いかということを実感するためには、私たちはイエスの具体的な行動例を見る必要があります。今日は、ご復活後のイエスの憐れみに満ちた優しさの例を見てみましょう。
 マグダラのマリアは寂しさと悲しみのあまり深く嘆いていました。イエスは優しく「マリアよ」と彼女の名前を呼びました。これは憐れみに満ちた優しさです。
 二人の弟子たちは打ちひしがれ、重い足取りで、エマオへ戻って行くところでした。イエスは優しく聖書について説明しました。これは憐れみに満ちた優しさです。
 ペトロはイエスを知っていたのにもかかわらず、三度もイエスを否みました。イエスは彼を叱るどころか、三度も「ペトロよ、あなたは私を愛していますか?」と尋ねました。これは憐れみに満ちた優しさです。
 今日の福音では、トマスは、心が深く傷ついていました。彼は悲しく、失望していました。彼は誰にも会ったり話したりする気にはならず、人を避けていました(あなたはそんな気になったことはありませんか?)。そののちトマスは戻りましたが、「イエスが復活したなんて信じない」と言いました。イエスは奇跡によりその姿を現し、「平和あれ」と言いました。そしてトマスを呼んで、イエスの栄光の体にある愛の証拠である傷を触るように言ったのです。トマスは心に深い傷を負っていました。イエスは自分に触らせることで、その傷を治そうとしたのです。イエスはトマスを叱らずに彼を溢れる愛で包み込んだのです。
 私たちの多くが心に傷を負っています。例えば、裏切り、失敗、抑鬱、依存、許せない恨み、恐れ、ストレス、怒り等々です。
 今日、私たちはイエスの憐れみに満ちた優しさに触れ、癒しを得ることができます。今日、イエスは私たちの上に息を吹きかけ、私たちのために祈ってくださいます。イエスは「私の平和をあなたがたに与える」と言ってくださいます。私たちはこのイエスの憐れみに満ちた優しさに出会うことができます。それは聖書を通して、祈りを通して、ご聖体拝領を通して、教会共同体を通して、または貧しい人を助ける行いを通して、出会うことができるのです。今日、生きている声で、復活なさったイエス、私たちの神はこのように言います。「疲れた者、重荷を担ってあえぐ者は、私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:18)。トマスとともに私たちは「わが主よ、わが神よ」と応えましょう。

日, 04/15/2012 - 06:34

 イエスの時代のユダヤは男性優位社会でした。男性が常に一番で、女性ははるかに低くおかれた社会だったのです。しかし福音においては女性は輝かしい地位に置かれています。神にとっては皆、平等なのです。
 イエスが十字架に架けられた時、ヨハネ以外の弟子たちはすべて逃げてしまいましたが、マリアと数人の女性たちは十字架のすぐ下に留まっていました。イエスの死後、優しい心をもって墓へ行ったのも女性たちでした。彼女たちは香油をイエスの遺骸に塗ってあげようとしていたのです。そのかわりに、彼女達はイエスの復活を知り、信じる最初の人となったのです。復活したイエスに会った最初の人たちでした。しかし、ルカによれば「女性たちは弟子たちに見たことを話しましたが、弟子たちはまったくのたわごととして信じようとはしませんでした(ルカ24-11)」。
 女性達はお墓に行って死と直面する勇気を持っていました。彼女らは勇気をもって悲しみと失望に立ち向かいました。死後の世に信頼をおいていました。私たちはどうでしょうか。
 まさしく、彼女らは悲しみ、失望そして死の現実に立ち向かったからこそ、イエスの復活の真の意味を経験することができました。その意味とは神であり人間でもある本当のイエスは生きており、常に私たちとともにいる、ということです。私たちはそれから逃れようとでもしているのでしょうか?
 私たちは復活の深い意味を信じているでしょうか。復活された主は、特に私たちが苦しみ、失敗、失意、悲嘆にある時にこそ私たちと繋がっている、ということを信じているでしょうか。主は、私たちに希望をくださいます。私たちはこの人生の旅路において、決して一人ではありません。イエスはその旅路を共に歩んでくださいます。それが復活の意味なのです。
 これらの女性達とイエスについてどのように考えますか?イエスが私たちに分け与えてくださった、美しい賜物を私たちは隣人と分かち合うでしょうか?
 ご復活において、平安と喜び、そして希望が皆さんすべてにありますように。

水, 04/04/2012 - 03:37

 今日の日曜日から聖週間に入ります。今日は枝の主日または受難の主日と呼ばれます。私たちは枝の祝福で始まる儀式を行ったのちに、福音書(マルコ11章1-10節)を読み、教会へ向けて行列を行ないます。これは1600年も続く伝統で、2000年前にロバに乗ったイエスがエルサレムに入城したことの再現です。ロバは重要です。馬は戦争で使われるのに対して、ロバは平和の象徴です。私たちの神イエスは人間としてこの世にやってきました。彼は平和の王です。私たちが枝を持っているのは、イエスの足跡をなぞって人生の道を歩むことを象徴しています。イエスは私たちとともに歩んでくださるのです。
 イエスは神の栄光を脇に置き、真の人間となりました。(フィリピ2:6-11) イエスは人間としての苦しみを経験したので、私たちが苦しみにある時も私たちと共にいてくださいます。(〝共に″、ということがとても大事です!)
 あなたが苦しみにある時に、実際問題、あなたは神を近くに感じるでしょうか? 多くの人はそうは感じません。多くの場合、うつろで見捨てられたかのように感じます。これは人間としてとてもよくある経験です。真の人間としてのイエスも、「私の神よ、私の神よ、どうして私をお見捨てになるのですか?」と叫んだのです(イエスは詩編22章を十字架上で祈っていました)。「主よ、私を見捨てないでください。あなたは私の力、早く私を助けてください。」(詩篇22章) 私は彼の存在が感じられない時ですら、イエスが私の傍にいるということで大きな励ましを感じます。
 今週は聖週間と呼ばれます。(聖木曜日には最後の晩餐を想いおこし、聖金曜日には私たちは十字架上の死を思い出します。復活の日曜日にはイエスの復活を祝います。)しかし、教会の外では店は普段と変わらず開いており、私たちも普段通り働きます。しかし、私たちは 心の中で今週を特別な一週間といたしましょう。聖書を開き、詩篇22章とマルコによる福音書14,15章をゆっくりと読みましょう。イエスが私たちを愛するがゆえにこのような苦しみを引き受けてくださったことに思いをはせましょう。イエスは私たちのために平和を勝ち取ったのです。

日, 04/01/2012 - 07:25

 私は熱烈にイエスが神であると信じます。同時に、熱烈にイエスは真の人間であるとも信じます。100%神、100%人間。
 本当の人間としてイエスは、権力者がイエスに敵意を持っていて、最後には彼は殺されるかもしれないとわかっていました。彼らが自分を殺そうと計画していることも知っていました。人間誰しもそうであるように、イエスは恐怖と心配を経験しました。これは自分の未来について恐れを感じた時に、大きな慰めになります。神が私の気持ちを理解してくださると確信を持って、神のところへ行くことができます。イエスご自身もそのような恐れを味わったのです。今日の福音書では、イエスは「いま、私は心騒ぐ」と言っています。
 一粒の麦の種が大地に落ちて死ぬことによって新しい命が生まれます。イエスが十字架上で死ぬことによって私たちに永遠の命がもたらされました。この命の中で、イエスは私たちに希望(これは、命が形となったものです)を私たちに与えるのです。
 イエスに従う人々は、隣人のために死ぬことが求められています。例えば、私たちは自らの意見を抑え、隣人の意見に耳を傾けるよう求められているのです。同様に、他人のために時間を使ったり、自分の利便を犠牲にすることが求められています。こういった行為の一つひとつが小さな死なのです。しかし、この死は新たな命を生みだすものなのです。
 私たちは皆、このことはわかっていながらも なかなかできません(これが聖書では「原罪」とよばれているものです)。私たち自分自身の心を見てみましょう。
 聖書で、最も美しい改心の行為は、詩編51章です。
 神は私たちが真に改心する時に許してくださいます。
「私はあなたの悪を赦し、再びその罪に心を留めることはない。」(第一朗読)


 

日, 03/25/2012 - 21:41
 神は私たち一人ひとりを愛してくださいます。神の愛は無条件のものです。善人、悪人、どっちつかずの人、皆等しく100%の愛が注がれます。その愛に応える人もいれば、そうでない人もいます。
 第一朗読では旧約聖書の歴代誌において神を捨てる人々が描かれています。しかしその時も神は人々を見捨てはしませんでした。聖書においては、人々は自分自身のせいでバビロン流浪を招いたと強調しています。詩編136章が示す通り、彼らは悲しみに満ち、故郷を恋しがっていました。神は、人々が神を信じなくなったのにもかかわらず、彼らを見捨てずにバビロンの新しい王キュロスに働きかけ、彼らを解放させたのです。
 第二朗読、エフェソ人への手紙を祈りの心をもってゆっくり読んでみましょう。これはとても美しいものです。神は私たち人間をとても愛するがあまりその息子を人の形をとってこの世にお送りになりました。「神は慈しみ深く、寛大である」のです。その時から、イエスを通し神は私たち人間にとって非常に近いものになりました。人間であることを経験したことから、その弱さを含めて人間をよく理解してくださる神がそばにいて、いつでも話しかけることができるようになったということは、私たちにとって素晴らしい贈り物です。しかし、ここで注意しておかねばならないことは、これは一方的な賜物であるということです。私たちが努力してこれを勝ち得たものではない、ということであり、全くのプレゼントなのです。
 ヨハネによる福音3・14でイエスが言った「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とは、イエスの十字架上の死を意味しています。十字架上のイエスは彼がどんなに我々を愛しているかを示しています。最大の愛の行為は自分の命を友人のために捧げることであり、それは私たちの主イエスが私たち一人ひとりをどれほど愛しているかということなのです。
 イエスが命を私たちにくださったことで、私たちは光の中を歩む人々となりました。ここが私たちの側で大事な部分です。私たちは神の愛を受け入れ、光の道を歩む選択をするように要請されているのです。
 神は私たちに無条件の愛を注がれました。神は私たちをありのままを受け入れてくださいます。私たちは、他人をあるがままで受け入れているでしょうか? 私たちは神を拒んでも、神は私たちを許してくださいました。私たちは他人を許すでしょうか? それこそが「光の道を歩む」ということです。 これをこの四旬節に実行しましょう。
火, 03/20/2012 - 07:51

 今日の第二朗読(コリント1・22-25)において、パウロは「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」と言っています。多くのユダヤ人は、救い主が十字架上で罪人として死ぬということを、受け入れることができませんでした。哲学好きのギリシア人は、そのようなことはありえない、と言いました。「十字架上のキリストは、神の力と知恵」とはどのようなものでしょうか。じっくり考えてみましょう。この意味は最初は難しいかもしれませんが、祈りの心を持ってよく考えれば、私たちは慰めを得て、新しい人生を歩むことができるのです。
 カトリック教会には十字架にかけられたイエス像がありますが、わたしたちはそれを愛する者の写真のように、つまりよりよく思い出せるように、扱います。十字架そのものを拝むわけではありません。私たちは実際のイエスを想いおこし、崇敬するのです。福音において、イエスが1悪徳商人や彼らの生贄用家畜を神殿から追い出す情景が描かれています。これは今後は動物の生贄は不要であり、イエス自身の体が生贄として捧げられるということを示しています。イエスは神の子羊、とも呼ばれているのです。
 動物の生贄は旧約聖書においては、人間が神を愛する証拠として、また彼ら自身が神へ捧げられる象徴として、捧げられていました。私たちはイエスのもとに結ばれ、父なる神に、私たちは神を愛し私たちの一生を神に捧げるということを伝えます。
「神よ、私の人生をあなたの御手にゆだねます」(詩編31章)
 十字架を手に取るか、あるいは十字架上のイエス像を見つめてください。5分ほど、少なくとも、祈りの心をもって見てみましょう。心の中で、「これが私の神、イエスです。イエスは私に新たな人生を与えるために、自らの命を捧げました。真の人間であり、真の神であるイエスは、心と体の痛みに苦しみました。ですから、私が苦しむときに、特別な方法で彼は私の傍にいます。イエス様、私は「ありがとうございます」と心の底から私は言います。
「十字架上のキリストは、神の力と知恵」

木, 03/08/2012 - 06:55

 今日のミサでの聖書朗読箇所を見てみましょう。第一朗読の創世記では二つのポイントがあります。一つ目に神は人をいけにえとして捧げることを憎悪し、厳しく禁じました。(紀元前1900年のアブラハムの時代、カナンの人々は彼らの神モラに子供達を捧げていたのです。) 二つ目は、アブラハムは 神が約束したことを、信じていたということです。神はアブラハムの面倒をみる(「私はあなたの盾になる」)、そしていつもともにいると約束しました。神はアブラハムの子孫の繁栄も約束しました。アブラハムは深くこれを信じていました。洗礼の時に神は私たちを神の子供とし、私たちの面倒をみると約束してくださいます。
 これに対して私たちは何と答えるでしょうか? 答唱詩編が私たちの答えです。「私は、厳しい苦難の時にもあなたを信じます。主よ、私はあなたのしもべです。」
 第二朗読は力強いものです。「神が味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。」イエスは私たちを愛しており、そのため「私たちのために死んだだけてなく、さらに死者のうちから復活した」のです。イエスは私たち人間の代表として、私たちの父、神に対して祈ってくれるのです。すばらしいことではありませんか。
 福音書では神がイエスに対し、苦難の前に勇気を与えている情景が描かれています。ゲッセマネの園では苦しむ人間のイエスが描かれていますが、今日読まれた箇所では栄光に包まれた神としてのイエスが描かれています。(三人の弟子がこの両方を目撃しています。)父なる神は、「これは私の息子である。私は彼を愛している。」と言っています。これがイエスに勇気を与えているのです。
 洗礼の時に父なる神は同じことを私たちに言っています。「あなたは私の子供である。私はあなたを愛しています。私はいつもあなたと共にいる。私はあなたをまもる。」
 私たちは、神を信頼しているでしょうか? 私たちは、私たち一人ひとりが皆、神の愛する子供であると信じているでしょうか。将来がどうなるかなど私たちにはわかりません。しかし神が私たちのそばにいれば、だれが私たちに害を及ばすことができましょうか。私たちをまもると約束してくださった神を信じるよう、私たちも招かれているのです。
「ああ神よ、私の生涯をあなたの御手にゆだねます」(詩編31:16)

金, 03/02/2012 - 20:25

 教会において四旬節はとても特別な季節です。それは神とともに過ごす40日間の旅です。この旅は灰の儀式とともに始まります。灰は、私たち人間は必ず死んで灰になることの象徴です。これは病的で不健全なことでしょうか? 決してそうではありません。反対に、それは希望に満ち溢れた儀式なのです。一人ひとりが十字の形に灰を塗ってもらい、「悔い改めて良い知らせ(つまり、福音)を信じなさい。」と言われます。
 「悔い改める」とは人生における重要なことを深く考え、新たなスタートを切ることです。(私たちは私たちの全人生について新たなスタートを切るのです!)
 「良い知らせ」とはイエスのメッセージ、「神は無条件に、一人ひとり、あるがままの私たちを、愛してくださる。」ということです。神は愛なのです。
 今週、折に触れて次の短い祈りを思い起こしてください。
 「神よ、私の父よ、あなたはあるがままの私を愛してくださいます。ありがとうございます。」
 「神よ、私の父よ」とは、あとうちゃん、私はあなたの子供です、ということです。神の心はこんなに弱い私への憐れみと慈しみで満ちていて、私の心を理解し、あるがままの私を受け入れてくださいます。
 「私を愛してくださいます」とは、神の愛はまことに温かいものであるということです。それはどの人間にも、例外なく与えられるものです。私たちの神は、人を罰する神ではありません。神は人間の弱さを理解しています。神は、私たちを神の子として愛してくださるのです。私たちは神の愛に包まれているのです。
 「あるがままの私」とは、私が思う、あるべき私、ではありません!
 どんな人でも完全な人間はいません。私たちは皆、失敗や欠点をもっています。私たちの神は、「善人」あるいは「聖人」のためだけのものではありません。神はその非常に大きな愛によりその御子イエスを罪人である私たちのところへ送りました。
 神の助けをいただいて、私たちのおとうちゃんである神がどんなに私たちを愛しているか気がついた時、私たちは大きな安らぎを得ることができます。そしてそれは、私たちが苦しみの真っただ中にあってもそうなのです。私たちは大きな希望を経験します。そしてこの愛と希望を他の人々と分かち合うのです。
 「ああ、神、私の父よ。あなたはあるがままの私を愛してくださいます。」 悔い改め、良い知らせを信じましょう。

金, 01/13/2012 - 22:39

 今日は主の公現の祝日です。公現(エピファニー)とはギリシア語で「出現」や「開示」といった意味があります。今日、私たちは神にその御子イエスを私たちに見せてくださったことを感謝します。
 ルカによる福音書では、羊飼い達がイエスを見に馬小屋にやって来る情景が描かれています。彼らはユダヤ教を信じる者たちの代表でした。同じく馬小屋を訪れた三人の賢者たちはユダヤ教徒ではなく、非ユダヤの世界すべての国々と人々を代表しています。ここで大切なことは、イエスはあらゆる時代の、あらゆる国の人々のためにいる、ということです。
 賢者たちは星に導かれてやってきました。
 人は人生の旅路において、そのような導いてくれる星が必要です。
 私たちはすぐに道を見失ってしまいがちです。人生はいったい何の為であるのかわからなくなりがちです。自分たちの安全のための蓄財に励んだり、一時的な慰めにすぎないモノや出世に心を奪われてしまいがちです。そのような「気晴らし」は人の心を満たすことはできません。神のみが私たちの心を真に満足させてくれるのです。聖アウグスチヌスが祈りの中で次のように言っています。
「主よ、あなたは私をお造りになったのですから、私の心はあなたのもとに行くまで安らぐことはできません!」
深い意味で、イエス様と出会い、イエスに私たちの人生の導き星となってくれるように祈りましょう。
 三人の賢者のようにイエス様に贈り物を捧げましょう。例えば他人への優しさ、沈んでいる人への励ましの言葉、あなたを傷つけた人への許し、そして特にイエスに祈りの時間を捧げましょう。
 

土, 12/31/2011 - 22:22

 あなたにとって、クリスマスが本当に意味するものは何ですか?
 神から人間へのメッセージとして聖書に最もよく出てくるものの一つとして、「恐れるな、私はあなたとともにいる」があります。キーワードは、「共に」と言うことばです。旧約聖書においては、それは使命を果たすための力と勇気を神が与えてくれるものでした。
 しかし馬小屋で生まれたイエスはもっと深い意味を与えてくださいました。神ご自身が、天国の栄光をわきに置いて、人間になられたのです。イエスは100%神であり、100%人間であったのです。
 私たちの神、イエスは、か弱い人間性を経験しました。神は、私たちがどのように反応し、感じるか、どのように喜び苦しむかを知っています。なぜならば、イエスも同じ経験をしたからです。言い換えれば、神は私たちと共にいるのです。
 人生の旅路において、私たちは決して一人ぼっちではありません。神であるイエスが共に歩いてくださるのです。
 神が人間となったその時から、神は近い、手の届く存在となりました。
 私たちの神、イエスは私たち一人一人を名前で呼び、こう言うのです。
「○○○(あなたの名前)よ、恐れるな。わたしはあなたと共にいる。」
 これこそがクリスマスの深い意味です。

月, 12/19/2011 - 08:50

 「恐れるな、私はあなたと共にいる」と神はダビデ王と聖母マリアに言いました。神はダビデに「あなたの遠征の間、ずっと私はあなたと共にいた」と言ったのです。詩編89章21節と24節で神はダビデに言います。「私はしもべダビドを選び、私の手はいつも彼と共にあり、私の腕は彼を強める.....彼はとこしえに私の愛を信頼できる。」(現代英語訳)と言っています。この、神が私たちとともにいるという約束は、アブラハム、モーゼ、ギデオンや他の預言者たち、そしてマリアに対してなされました。また、イエスのこの世での最後の言葉は、「私はいつもあなたとともにいる」でした。
 この約束は聖書に出てくる有名な人に対してのみされたものではなく、私たち普通の人々に対してもなされたものです。
 イエスの、この励ましに満ちた言葉をよく味わいましょう。イエスは私たち人間とともにいらっしゃいます。それが、クリスマスの意味なのです。それがかいば桶の中の幼子イエスを私たちが見る時、感じるべき意味なのです。神ご自身が人間となり私たちとともにいる。イエスは人生の旅路において私たちの同伴者です。私たちは決して一人ではありません。イエスは私たちに力と勇気を与えてくれます。イエスは、「私たちの弱さを一緒に感じ、.....時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近付こうではありませんか。」(ヘブライ4:15-16)
 神は、人間性を共有し、その喜びも悲しみもおわかりになっています。神は真に私たちとともにいるのです。これこそがクリスマスの真のメッセージです。このメッセージの意味を深く理解することによって、平和がもたらされるのです。
 この知らせはベツレヘムの馬小屋からもたらされたものでした。「恐れるな、私はあなたとともにいる。平安あれ。」

日, 12/18/2011 - 02:51

 今日、待降節第三主日には「喜びの主日」と言われる興味深い別名があります。
 信仰の喜びは神からの賜物です。それは心の深いところに根付くので、苦しみの中にあっても、その深い信仰の喜びは絶えることはありません。
 今日の第二朗読で読まれた使徒パウロのテサロニケの教会への手紙では、「皆さん、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と書かれています。 このような「信仰の喜び」を味わうための、お勧めのやりかたを紹介します。
1)自分の心の状況を見つめ、喜びを深く求めていることを認識する。そして神に、この最も喜ばしい信仰の賜物を与えてくれるよう祈りましょう。大いなる希望を抱いて待ちましょう。神はこれを熱心に祈るものに必ず与えてくださいます。
2)自己中心的な態度を捨てましょう。他人のことを思い、親切に思慮深く行動しましょう。「与えることによってこそ与えられる」のです。喜びを他者に与えることで、自分の心の中で喜びを味わえるのです。
3)他人の良いところを賞賛し、味わいましょう。私たちをとりまく世界の美しさを堪能しましょう。そしてこのような素晴らしさと美しさについて神に感謝しましょう。自然は私たちの心を明るくしてくれます。それは神の賜物です。
4)そして、一番大事な点です。静かな環境で神に祈り、どんなに神があなた個人を愛してくださっているか感じましょう。神は実にあなたの面倒をみてくださいます。そしてあなたを名前で呼んでくださいます。神の目にあなたは値高い存在なのです。あなたは愛されています(イザヤ43章)
 あなたがこの喜びにあずかれるよう、私は今日も祈っています。

木, 12/15/2011 - 23:52

 今日の聖書朗読では、「道」、「小路」、「街道」といった言葉が出てきます。「道」や「小路」は、紀元1世紀ころの信者達にとっては特別な意味を持っていました。洗礼を通して、彼らはイエスの道に入ったのです。イエスと同じ道を歩いた、という意味です。神は人となり、私たちと同じ人生の道をたどったのです。しかし、ここに重要な真実があります。今日も、イエスは私たちと同じ道を歩んでいるということです。人生の旅において私たちは決してひとりぼっちではありません。イエスは私たちのそばにいて、助け、力、勇気を与えてくれるのです。イエスは、「私は道である。人生の旅において、私はあなたとともにいる。」と言っています。もしあなたがこのことを祈りを通じて深く考えれば、生き生きとした希望が心の中で沸き起こってきます。たとえ苦難に直面しようとも、その希望は残るのです。その希望の根幹は、神の私たちへの愛です。イエスは私たちとともにいます。困難な道のりを私たちとともに、歩んでくださるのです。イエスは、「私はあなたから離れたり、見捨てたりはしない」(ヘブライ13-5)と言っています。
 ラジオ、新聞、テレビでは憂鬱なニュースであふれています。金融危機、政治家や企業経営者の背任行為、物価高などなど。高齢者は、年金は充分だろうか、などと将来を不安に思います。盗み、殺人、あるいは天災など。そのうえに、もちろん、私たち自身全員がいずれは死へ向かっているということもあります。私たちはいつ死ぬか、知らないのです。しかし、来れば来い!、なのです。このような状況であればこそ、わたしたちには希望が必要なのです。
 希望とは未来に対する自信です。私たちの未来は、私たちを愛する神の御手にあります。「恐れるな!私はあなたを名前で呼ぶ。あなたは私の目に価高く、私はあなたを愛する。恐れるな、私はあなたと共にいる。」(イザヤ43-1~5) このような神ご自身から私たちへの約束は私たちに大きな希望を与えてくれます。
 今週、祈りのためにしばし静かな時間を持ちましょう。どんなに神があなたを愛し面倒をみてくれているか感じ取りましょう。それこそが私たちの希望の源です。そして、信頼の中で、私たちは次のように言うことができるのです。「慈愛に満ちた神、お父ちゃん、私はあなたの御手に私の人生をゆだねます。私の未来もあなたの手に任せます。私はあなたを信頼します。」 それが希望なのです。

木, 12/08/2011 - 13:09

 今日は待降節(Advent, 「到来」という意)の最初の日です。神はイエスという人間の形でこの世にやってきました。イエスの誕生の準備のため、私たちの信仰の基本信条の幾つかを考えてみましょう。
 あなたにとっての神とは何でしょうか。「神」という言葉を聞いた時に、どのようなイメージや感覚があなたの心の中に浮かんできますか?
 今日読まれた聖書では神はこのように言われています。
 (1)神は父であり、我々はその特別に愛されている子供たちです。神はわたしたち一人ひとりを名前で呼び、それぞれの面倒をみてくれます。神とは、「おとうちゃん」、やさしい父親です。
 (2)神は私たちの贖い主(イザヤ書)。人を奴隷状態から解放するためには、誰かがいけにえとなるか、自由や幸福を勝ち取るために巨額の賠償を払わなくてはなりません。それがイエスなのです!
 (3)神は私たちを粘土から造り出す陶工です。陶工はろくろの上の粘土に心をすべて注ぎます。陶工の手(そして心)は優しく、自分の作品に誇りを持っています。しかし陶工は焼き上がったあとの陶器が割れやすいことも知っています。陶工である神は私たちのことをよく理解しています。
 (4)神は牧者であり私たちはその愛する羊の群れです(詩編80)。良い牧者は羊一匹一匹を知っており、名前をつけて呼んでいます。そして羊を危難から守るのです。イエスは「わたしは良い牧者である」と言っています。
 (5)神はブドウ畑の管理人です。ブドウの蔓をきちんと管理することは大変な手間です。神は私たち一人ひとりの面倒をみてくれます。
 (6)神は、イエスを通して、私たちに憐れみと安らぎをもたらしてくれます。(コリント人への第一の手紙)
 (7)神は約束に忠実です。(コリント人への第一の手紙) 私たちの神は、私たちに厳粛な約束を与えてくださっています。「私はいつもあなたとともにいる。私は常にあなたの面倒を見る。」私たちが、万一、神を忘れたり拒んだりしても、神が私たちを忘れたり拒んだりすることはありません。神はその100%の愛を与え続けてくださるのです。これが「神は忠実である」という意味です。
 今日の福音ではイエスは私たちに「目を覚ましていなさい」と三回言っています。それは私たちを神に対して目覚めさせるものです。祈りを通して、神の愛に対して目覚め、その愛を味わいましょう。私たちの神は、父、贖い主、陶工、牧者、ブドウ畑管理人、安らぎの源、常に約束に忠実である神、であるのです。このことをよく理解いたしましょう。

土, 11/26/2011 - 04:20

 今週は聖書週間です。聖書は、神様から私たちへの個人的なメッセージであり、私たちに慰めと挑戦を与えてくれます。今日読まれた聖書の箇所などは、極めて具体的にそれを示しています。旧約聖書であるエゼキエル書と詩編23章は、イエスとは預言の実現であることを示しています。イエスは「私はよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:11)」と言っており、また「羊は羊飼の声を知っている。彼はそれぞれの羊の名を呼んで連れ出す。(ヨハネ10:3)」とも言っています。イエスは、「迷える羊を探し出し、肩に担いで家に帰る良い羊飼(ルカ15:5)」なのです。
 しかし、ここに問題があります! 工業国日本では、羊や羊飼といったものは、縁遠く、よく知らないものです。イエスの時代、しばしば羊の持ち主の息子が羊飼いとなって、10-20匹の羊の面倒を見ました。そんな小さな群れなので、羊飼は一匹ごとに名前をつけて世話をし、狼から守ったり、牧草地や水場に連れて行ったりしました。羊は弱い動物で羊飼に頼っていました。もし私たちが羊と羊飼のような関係を神と結ぶことができたならば、詩篇23で描かれているような素晴らしい慰めを得ることが出来ます。あなたは、深い雲や霧、暗闇やまた死の陰の谷に迷い込んだことはありますか? もしそうなら怖がることはありません。良い羊飼いであるイエスがそばにいてあなたを守ってくれるからです。今日の第一朗読のエゼキエル書と詩編23を読んでみましょう。それはとても心温まる慰めなのです。
 今日の福音書で、イエスは私たちを試しています。私たちは実際の行いによって隣人に愛を与えているでしょうか。それとも、依然として、自己中心的にふるまっているのでしょうか。私たちの人生の終わりに、王であるキリストは、私たち一人ひとりに対してこのような質問をします。「あなたは貧者に対して優しくしましたか? あなたは、誰かと話したいと心の渇きに苦しんでいる人たちを助けましたか? あなたは自分のアパートにやってきた新しい入居者にようこそと微笑みかけましたか? 心身の病気で自宅にこもりきりになっている人々に理解を示しましたか? さて、答えはどうでしょうか? イエスの言葉、「他人にこのような優しさを行う時、あなたは実はそれを私に対して行っているのです。私の永遠の命の王国においでなさい!」
 聖書は私たちに慰めと挑戦を与えています。

日, 11/20/2011 - 08:14

  今日の福音の中のイエスは私たちに、「あなたはこの人生で何をしようとしているのですか?」という大きな課題を投げかけています。私たち一人ひとりは神からその人生においてなすべき仕事を与えられています。そして神はその仕事をやり遂げるための賜物や才能を我々に与えてくださっています。誰ひとり、例外なく、私たちにはライフワーク(生涯かけた仕事)というものがあり、それを完遂するための能力を神から与えられているのです。
 たいへん才能に恵まれた人たちがいます。今日の福音の例え話でいえば、5タラント貰った人たちです。例えば、音楽家、芸術家、作家、陶芸家、彫刻家のような人たちです。私たちの多くはそれほどの才能は無い普通の人間ですが、やはり貴重な存在です。というのも、先の聖書の例え話でいえば、1~2タラント貰っているのです。
 聖書の中で、もっとも悲しい部分のひとつは、「1タラントを貰ったものは、土に穴を掘り、主人の金を隠しておいた」男の人の話です。私たちへの課題は、「自分にそれがあてはまるだろうか?」「(神からの)賜物を隠していないだろうか?」ということです。
 1~2タラント貰った人の例として、主婦の例え話があります。主婦(2700年も前の!)として裁縫に才能がありました。頭がいい人もいれば、手先が器用な人もいました。雄弁に語ることができる人もいれば、聞き上手の人もいました。包容力のある温かい笑顔という才能を持った人もいました。私のニュージーランドでの幼稚園時代、クラスに水頭症の男の子がいましたが、彼の見えない才能は、周りにいる私たちを苦しんでいる人に優しくさせるということでした。
 今週、次のことをやってみてください。
1)自分の才能は何であるか、明確に考えてみてください。他人と比較することではありません。何を私たちが持っているか、神が最もよく知り、神が決めているのです。神を信頼しましょう。
2)その才能の根源は神からであるので、神に感謝いたしましょう。こうしてこそ、私達は才能が自分自身のものではなく、神から借りているものだと気がつくのです。その結果、私達は謙虚になれるのです。
3)どのようにその才能を人々とわかちあえるか、決めましょう。
「受け取ったものを分け与え、生まれた時と同じ裸の状態で死ぬことによって、私たちは永遠の命に生まれ変わるのです。」(アシジの聖フランシスコの祈り)

水, 11/09/2011 - 11:45

  聖書における「知恵」とは私たちを励ましてくれる言葉です。ヘブライ語とギリシア語では女性名詞です。さて、この「知恵」とは何でしょう?
  それは、勉強や聡明な知識や学びに重きを置く世間一般で言う「知恵」とは全く異質のものです。それならば勉強などはどのような意味があるのでしょう。ある人は大学教授になるかもしれませんし、勤めている会社のトップに登りつめるひともいるでしょう。しかしそのようなことははかないもので、人間の心を本当に満足させることはないのです。
 聖書における知恵とは、学がある者にも無い者にも、求めれば私たちみんなに神から与えられるものです。「もしあなた方の中で知恵を必要とする者があれば、神にそれを求めなさい。そうすれば与えられます。神は寛大なのです。」(ヤコブ 1:5)
 天からの知恵を強く望みましょう。今日の詩編63節ではそのような渇望が述べられています。神からの知恵は、私たちの人生の闇を照らすランプが、輝き続けるために必要な油のようなものです。「彼女(知恵)を思って目を覚ましていれば、心配もすぐに消える。」(知恵の書、今日の第一朗読)
 神から与えられる知恵は人生の優先順位をきちんとつけてくれます。知恵は神が私たちをどれほど愛してくださっているかを示していて、その神は優しい愛に満ちています。友であるイエスとともに天国への道を旅することが、私たちの人生の目的であることを知恵は示してくれます。知恵の贈り物は私たちが正しい選択ができるように助けてくれます。
 しかし、知恵は私たちの日々の暮らしのためのものでもあります。聖書では、縫製や大工、テント制作、あるいは海での操船などについての知恵が語られています。言い換えれば、この知恵は私たちの日常生活すべて、家庭、学校、職場、あるいはリタイア生活において、役立つものです。
 私たちはこの知恵を祈りを通じて得ることが出来ます。知恵の賜物を願い、毎朝祈りましょう。すなわち、毎朝神に日々の日常の行動についての導きと啓発を与えてくださいと願うのです。そして夜に静かに想う時、私たちはその違いに気がつくのです。そうしたら神にその素晴らしい知恵の賜物を感謝いたしましょう。

木, 11/03/2011 - 04:46

 今日の福音ではイエスは我々に「神を愛しなさい、隣人を愛しなさい、自分自身を愛しなさい」と言っています。そしてまた別の箇所では、「あなたの敵を愛しなさい」(マタイ5:41)とも言っています。
 「愛する」と言う言葉にはいろいろな意味があり、例えば「サカナが好きだ」などはとても軽い意味です。今日の説教では、「愛する」とは、人をあるがままで受け入れる、という意味で使います。
 私たちは、「お父ちゃん」である我らの神をあるがままで受け入れているでしょうか? 私たちはその神の愛する子供たちです。私たちが良い時も、悪い時も、またいい加減な時でも 神はいつ、どんな時でも私たちのことを気遣っています。お父ちゃんは子供たちの弱さを全部知っていて、そのうえであるがままの私たちを受け入れてくれます。それが、神が私たちを愛してくださることなのです。
 ひるがえって、私たちは隣人をあるがままで受け入れているでしょうか? 隣人とは家庭の中から始まります。すると受容と愛は、さざ波のように広がって行き、私たちの教会コミュニティーの中、職場、学校、地域社会、我が国全体、そうそして全世界へと広がっていくのです。優しくしてくれる人やウマがあう人を受け入れる(つまり愛する)のは簡単です。一方、不親切で冷たく、人をバカにするような人を受け入れるのは難しいものです。ですからイエスが言う「愛する」ということはステキな温かい感じではなく、自分の敵を「愛する」という明確な意思決定を意味しているのです。私たちは、そのような難しい人たちをあるがままで受け入れることができるでしょうか? 我々はそもそも自分自身を愛せるでしょうか?
人間だれもが弱みと欠点、限界を持っています。我々は自分自身の人間性と体を受容する(この特別な意味で、「愛する」)ことができるでしょうか? 老化し若いころできていたことができなくなっても自分自身を受け入れられるでしょうか? 老いの限界を受け入れる、つまり自分自身を愛することができるでしょうか。
 三つの重要なポイントがあります。(1)神の助けや力なくしては、イエスの意味するところの「愛」の実践は不可能です。人間の力だけでは不可能なので、神に助けを求めることが必要です。(2)言葉よりも聖書で、イエスが人々をどのように愛したか読んでみましょう。神は私たちを同じように受け入れてくれます。つまりはあるがまま、ということです。イエスの十字架上の死は彼がどんなに私たちを愛してくださっているかの証しです。(3)その愛を他の人々と分かち合いましょう。あなたが属している小さな場所で、あなたはその愛の証しとなるのです。

木, 11/03/2011 - 05:55

 福音書にはたびたびファリサイ人が取りあげられています。彼らは単に2,000年前の歴史上の人々でしょうか。とんでもありません。私たちひとりひとりの中にファリサイ人の心があります。私たち人間は偽善という偽りの仮面を顏につけ、虚栄、プライド、他人との競争心を持っています。私たちは自分自身を他人と比べ、教育、品行、外観などにおいて自分の方が優れているとして、しばしば他人を見下します。私たちは今日に生きるファリサイ人なのです。
 イエスは今日生きている私たちに次のように言います。「あなたがたのうちで一番偉い人は、仕える者になりなさい。・・・・・・へりくだる者は高められる。」(マタイ23:11-12)
 キリストに従う者は、謙遜し他の者に仕えるということを求められるのです。
 けれども私たちはそれがとても下手です。イエスは我々のお手本です。彼は尊い師でしたが、弟子たちの足を洗うという召使の仕事をしました。そしてこう言ったのです。「あなたにお手本を見せたのですから、私がしたようにあなたがたもそれをまねるとよい」と。(ヨハネ13:15) 私たちはこの「洗足の心」を持っているでしょうか。
 真実に謙遜であるということは、私たちは自分自身の長所と短所を理解しておく必要があります。私たちはみな、何か特別にできることがあります。音楽、手先の器用さ、聴き上手などがその例です。これらはみな神からの授かり物ですから、その賜物を神に感謝しましょう。神へ感謝することにより、この賜物が自分自身が作ったものではないことに気付きます。感謝と謙遜は密接に結びついているものなのです。
 神の前で私たちは自分たちの弱さや欠点を認め、神に力を求め、その力に意識的に頼ります。それが謙遜です。
 今日のミサの詩編131章は完全な詩篇です。このとても短い詩編で祈りましょう。「神よ、わたしはおごらず、高ぶらず・・・。」 しかし、ああ主よ私は傲慢になってしまいます。どうか私自身とあなたを知って、へりくだる心をお与えください。それにより私の心が平安になれるのです。母の手に安らぐ幼子の、心静かに憩うことができます。神よ私はあなたに全てを委ねます。

木, 10/20/2011 - 03:40

 旧約聖書においては、ユダヤ教でない人々に対して神がそのわざを現すことはほとんどありませんでした。神は異教の王であるキュロス王を通してユダヤ人をバビロン捕囚から解放させました。これは神が今日もキリスト教徒でない人々にもそのわざを現すということを示しています。それとともに、このことは世界中のどんな人も神によって愛されている、ということも教えています。
 第二朗読では聖パウロはテサロニケの初代教会の人々に対し、「祈りのたびに、あなたがたのことを思い起こしています。」と言っています。今日、この言葉について考えてみましょう。私たちは、自分自身のために神に祈ることにはたけていますが、他人のために祈ることを忘れてはいないでしょうか。私たちは視野が狭く、自己中心的になっていないでしょうか。「とりなし」の祈りは大切です。福音書では百人隊長が自分の部下の健康が回復するようイエスに祈っていますし、ティレの異教の母親は自分の娘のためにイエスに祈っています。例えば、私たちはタイやパキスタンにおける洪水の情景を見ていますが、彼らのために祈っているでしょうか? 依然として苦しむ東北地方について見聞きしていますが、彼らのために祈っているでしょうか?親御さんのみなさん、子供たち、孫たちのために祈っていますか? 誰かが病気だと聞いた時に、その人たちのために祈っているでしょうか? 祈るときには、心を開きましょう。
 私たちは日本のために祈っているでしょうか? 政府や市民リーダー達のために祈っているでしょうか?聖パウロはテモテへの第一の手紙 2:2-4の中で次のように言っています。「我々の暮らしが平穏なものとなるよう、王や権力を持っているその他の人々のために祈りましょう。この種の祈りは、全ての者を救おうとする神を喜ばせます。」この「王たち」は今で言う政府にあたります。
 福音書ではイエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」といっています。(ここでいうカエサル(皇帝)とは今では政府あるいは我が国に該当するのでしょう。)言い換えれば、良いクリスチャンとは、その国の良い市民、国のために祈り、全ての市民の平和のために働く良い市民であるのです。神を全ての前に優先させるということで、私たちは日常生活の中で団結できるのです。
 クリスチャンの間でも、もちろん政治的な見解の相違はあります。イエスは12人の弟子についてすべての政治的主張を認めています。ガリラヤからの左翼思想の者もいましたし、マテオと情熱家のシモンは右翼思想でした。全てはイエスのもとに団結していたのです。これは私たちのお手本です。

土, 10/15/2011 - 05:12

 聖書学者は「宴会のテーマ」という言葉を使います。これは新・旧両約聖書において頻繁に出てくる「食事」を意味します。例えば、宴会、最後の晩餐、夕食、宴、ご飯、などです。食事は温かい、気の休まる家族的な親しみのひとときです。このことが、聖書において何故食事が重要なのかという理由です。神との親しさを味わい楽しむように、神自身が我々一人ひとりを招いているのです。親しい雰囲気の中での楽しい食事は、私たち一人ひとりとの神の親しみの象徴です。誰もが招かれているのです。
 日常生活において結婚披露宴に招かれることがあります。招待状が来て、出欠の返信を求められています。私たちは、「喜んで出席させていただきます」と書くことができますし、義理で「はい、出席いたします」と返事することもあります。「欠席させていただきます」と書くこともできますが、そうした時は、「多忙のため」「所用がありまして」あるいは「都合がありまして」などと言い訳を書くことになるのですが、一番悲しいのは、招待状を見てそのまま机の上で放置されてしまうケースです。
 イエスは食事会に私たちを招いています。親しさと友情を私たちに示しているのです。イエスは優しい方で、「我々の目から涙をぬぐってくださる」(イザヤ)方なのです。善き牧者として私のために宴会を準備してくれるのです(詩編23章)。
 このこのイエスからの招待に、私たちはどのように応えるのでしょうか。喜んでの「ハイ」でしょうか?義務感からの「ハイ」でしょうか。私たちは本当に忙しくて「ノー」と言っていると思っているのでしょうか? あるいは私たちは虚無感、無関心、怠惰から招待状を無視してしまうのでしょうか。
 ちょっと考えてみてください。「神やイエスと親しい」なんて素晴らしいではありませんか。これが、心の飢え、渇きをすべて解決してくれます。神のみが唯一、私たちの憧れを満たしてくれるのです。
 私たちはイエスと出会い、彼のあたたかさを次の過程を通じて味わうのです。1)聖書を読む、2)祈り(基本的に神との親しさを味わう祈りです)、3)隣人、特に恵まれない人たちへの優しさ(マタイ25章)、4)聖体拝領という特別な方法でイエスと出会います。
 お招きに応えましょう。イエスのあたたかさを隣人と分かち合いましょう。

日, 10/09/2011 - 07:32

 今日は教会暦では第26主日ですが、ここ保土ヶ谷教会ではご年輩の方々のために特別なミサをたてます。今日の特別な聖書朗読は次の通りです。
1)民数記6:22-27 モーゼは人々を祝福します。「平安あれ!」
2)詩篇23章 牧者の詩篇。イエスは「私は善き牧者である」と言っています。
3)イザヤ43:1-5 今日、神は次のようにおっしゃっています。「私はあなたを名前で呼ぶ。私はあなたを愛しています。あなたは私にとってとても大事なもので、私はあなたと共にいる。」

1957年に私は日本語学校でヘルマン・ホイベルス神父から日本文化を習いました。彼の本、「人生の秋」のなかでホイベルス師はとても美しく、力強い言葉を語っています。

最上のわざ
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人の為に役立たずとも、
親切で柔和であること、
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことの故郷へ行くために。
おのれをこの世に、つなぐくさりを
少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後に一番良い仕事を残してくださる。
「それは祈りだ」
手は何もできない。
けれども、最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終に神の声を聞くだろう。
「来よ、わが友よ、われ なんじを見捨てじ」と。

ヘルマン・ホイヴルス
「人生の秋に」より

日, 10/09/2011 - 08:16

 心配事やいろいろな問題そして痛みにさいなまされている時、誰かに「心配しないで」と言われたとしましょう。あなたはどう反応しますか? 人は電気を消すようには、心配事を消すことはできません。しかし、イエスは「心配することはない」と言い、今日の聖書朗読の中で聖パウロも同じことを繰り返しています。第5節には、「主はとても近くにおられる」という重要なメッセージがあります。パウロはイエスの「恐れるな、私はあなたと共にいる」という言葉に共鳴しているのです。イエスは私たちが苦境にあるとき、私たちのすぐそばにいます。ですから私たちはその心配を彼の手にゆだねてしまうことができるのです。詩編55章23節は「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる」と言っています。他の翻訳(現代英語訳)では、「主よ、あなたに私たちの悩みを話せば、あなたは私たちを破滅から救ってくれます。」となっています。聖ペトロの第一の手紙では、「思い煩いはすべて神にお任せしなさい。神はあなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」と言っています。
 私たちの心配、傷、痛みそしてストレスは私たちの祈りの原材料であると聖書は言っています。「どんなことでも思い煩うのはやめなさい。感謝を込めて祈りをささげ、求めているものを何でも神に打ち明けなさい。そうすれば平安の神である主はあなたと共にいるでしょう。」(フィリピ人への手紙4:6,9)
 頼みごとで祈るときに感謝の心をもって祈るとは面白いと思いませんか? 私たちは過去において神が私たちに与えてくれた加護を感謝します。そして、過去において私たちの面倒をみてくれた神は、今後もその加護を続けると実感できるのです。そして苦衷のさなかに希望がうまれるのです。懇願の祈りの中に感謝の心を持つのはキリスト教徒の祈りの中で、重要な要素です。
 やってみてください。「そうすれば、平安の神、主があなたとともにいるのです。」(フィリピ人への手紙4:9)

土, 09/24/2011 - 19:23

  イエスの時代、例え話は教えを広める手段でした。例え話のテーマは身近な生活の事柄から取り上げられていますが、その内容は、世の常識とは異なる驚くべき内容であることが多かったのです。今日の例え話は、全く、給料の支払方法とは関係はありません。今日の私たちに対し、神の慈しみについて語っているのです。
 イエスの時代、特にファリサイ人は宗教をカースト(階層)次第のものにしていました。ファリサイ人は自分自身を特別に最高位に置き、その下には普通の人々、そしてもっと下には、罪人と決めつけられてしまった人々がいました。しかし、はるかその下には、さらに「異邦人」がいたのです。罪人(例えば、安息日に働かざるを得ない羊飼いも入っています)と異邦人は神殿の中に入ることはできませんでした。神殿の目的は、人々が神に近付き、祈りを通して神と出会い、そして神の慈しみを味わうことができるようにするというものです。例え話の言葉を使えば、ファリサイ人は「我々とその祖先は神の葡萄畑で12時間も懸命に働いたのだから、我々は神の祝福にふさわしいのだ。我々はそれを自ら稼いだのだ!」 イエスはこのような考え方を強く否定しています。神の祝福はわけへだてなく、すべての人に与えられるものです。神は寛大です。神の憐れみは、聖人であろうと罪人であろうと、すべての人に注がれます。(詩編の中の一語、「すべての」に注目してください。) 神は慈しみ、愛、憐れみに満ち、弱い子供たちである私たちをあるがままで受け入れてくださいます。私たちは1時間しか働いていませんが、それでも神の愛を100%いただくことができます。
 ですから、今週、私たちの心の中にある静かな神殿を訪れ、神が私たちに注ぐ慈しみ、愛、憐れみを味わいましょう。神は私たちのそばにいます。一方、わたしたちは神のそばにいるでしょうか?静かな祈りの中で、神に近付いていきましょう。
 「神が見つかるうちに神を探しましょう、神が近くにいるうちに神を訪れましょう。」 「助けを求めるすべての人と、心から祈る人のそばに神はおられる。」(答唱詩編)

日, 09/18/2011 - 08:09

 私たち人間は皆異なっています。それは良いことです。しかしその違いが対立を生んでしまうことがあります。聖書はこの人間関係の崩壊という問題について、明確な例をもって示しています。カインとアベル、イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウ、極彩色のコートを着たヨセフとそれを妬む兄弟などです。旧約聖書ではモーゼの掟は目には目を、歯には歯を、でした。しかしイエスは何度も何度も何度も、常に許し続けなさいと説くのです。
 これが、イエスの愛の掟の最も難しい部分なのです。人間関係の中において、私たち誰もが何らかの傷を心に負っています。イエスの道に従うことで、その傷に何ができるのでしょうか。今日の福音の中では、負債を負った二人が出てきます。最初の人の負債額は、普通の労働者の年収の1,643年分にあたるものでした。彼の主人はその負債全額を免除してあげます。しかしその寛大な主人のもとを去ったその人は、次に彼が月給3ヶ月分のお金を貸していた人のところへ行ったのです。彼は冷酷にその金額の即時返済を求めたのです。返済しなければその小額負債者を処罰しようとしたのです。私たちはみなこれは不公平というでしょう。男は冷血漢で自己中心的でした。神はとてつもない寛大さで私たちを許してくださいます。その一方、私たちは他の人に対して残酷で自己中心的ではないでしょうか? 神は私たちに無条件、無限の愛をくださります。神はただ、愛を私たちの上に注いでくれます。時として私たちは神を忘れたり、神の子である隣人を傷つけたりします。神は私たちを愛することはやめません。神は私たちを完全に許してくださるのです。
 イエスはものたいへんな挑戦をイエスに従う者たちへ示しています。許しなさい! ここに、あなたを傷つけた人たちを許すためのステップを書いておきます。
1. 自分自身に向かって、本当にそうしようと思いつつ、「わたしは、Aさんを許したい」と言いましょう。
2. 実際、Aさんを許すなどできないと気がつくのです。確かに、人間の力だけで許すことは不可能なのです。ここで神の助けをたのみましょう。
3. どんなに深く、神があなたのことを愛してくださるか、どれだけ神があなたのことを許してくださったか、思い出してみましょう。(詩編103章参照)
4. そしてあなたを傷つけたその人を許し始めましょう。それは長い時間がかかり、一生かかるかもしれません。しかしそれで、あなたは安らぎのうちに死を迎え、より重要なこととして、神と共にいることができるのです。

水, 09/07/2011 - 03:00

 人を馬鹿にしたり傷つけたりするなど、悪いことをした時には、自分が悪いことをしたと認め、「ごめんなさい」と言うしかありません。
 しかし、今日の福音ではイエスは、私たちにもっと困難なことを求めています。誰かに侮辱されたり、冷たくされたり、何らかの形で傷つけられた時に、傷つけられた自分のほうから、その傷つけた人に向かって、「仲直りしましょう」と言うのです。そしてそれがもしうまくいかなかったら、他の友達にも一緒になってもらい、もう一度仲直りするように努力するのです。イエスは弟子たちに、「傷つけられた人の方から、和解しようとし始めなさい」と言っています。
 このイエスの求めに対して、私の個人的な反応は次の通りです。
 私:「イエスさま、それは無理です!あなたが求めることは、誰にもできるわけありません」しかしイエスはこう答えるのです: 「あなたが人間の力だけでそうしようとすると、無理でしょう。しかし、私があなたに与える謙遜と勇気と力をもってすれば、それは可能になります。あなたが弱っている時に、私はあなたの力となります。」
 そして、私は聖パウロの次の言葉を思い出し、聖パウロと共に言うのです。
 「キリストの力が私の中に入っているので、私は自分が弱くなった時にこそ強いのです。」(第2コリント人への手紙12章10節)
 イエスは平和と健康への道を指し示してくれます。私たちのうちのあまりにも多くが、時として何年にもわたる、恨みやわだかまりをもっています。恨みやわだかまりは、霊的なガンのようなものです。イエスは健康へ導いてくださります。
 もしあなたを傷つけた人がもうすでに故人となっている場合には、可能であればその墓前に立ち、和解しましょう。その「死者」は生きていて、あなたの声を聞き和解してくれます。(これは、墓前に行かなくても家ですることもできます。)
 重要な点は、イエスが弟子たちにこのような困難な挑戦を求める時には、イエスは常に私たちの側に立ち、導き、勇気そして力を私たちにくださるということだと思います。イエスは言っておられます。「恐れるな、私はあなたと共にいる。」

月, 08/22/2011 - 23:07

 私は、心の中に平和への憧れを強く持っています。私の心の平和、家族の、教会の、日本そして世界の平和を私は願っています。この世における誠実な人誰もが平和を希求していると私は思います。
 平和は神様からの賜物です。今日の詩編85章には次のようにあります。
 「神は平和を約束される....正義は神の前を進み、平和はその足跡に従う」 そして福音ではイエスが次のように平和を語っています。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」 イエスは嵐の最中にこのように言ったのです。福音では、弟子たちは嵐に翻弄される小舟におり、その舟は今にも沈みそうでした。今日の私たちも人生において嵐に遭うことがあります。それは苦しみ、病気、失敗、怪我など様々です。時として私たちは神から見放されているような気にもなります。神が遠く静かであるように見えるのです。しかしよく覚えておいてください。今日の福音の情景では弟子たちはイエスを見ていません。しかしイエスは自分が彼らのために祈っていた山の上から、弟子たちを見ていたのです。今日、苦しくて、イエスは近くで助けてくれないと感じる時があるかもしれません。しかし、イエスは、山よりも高いところ、天国におられて、私たちのために祈ってくれているのです。福音と同じように、イエスは降りてきて私たちに対して言うでしょう。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」と。ですから、苦難(嵐)に陥ったときはいつでもイエスに救いを求めましょう。「主が来られるのは夜明けが訪れるのと同じくらい確かなこと」(ホセア6:3) 希望を持って主が来られるのを待ちましょう。私たちの神は、遠く、無関心な神ではありません。神は近く、温かい存在で、私たちのこの世の苦しみに気を配ってくださいます。神は私たちを愛し、受け入れてくださいます。
 列王記の中でエリヤは静けさの中にのみ神からの声を聞きました。私たちも毎日5分間の静かな時を持ち、イエスの声を聞きましょう。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。私はあなたと共に居る。」 私の神よ、あなたの御手に私の命を委ねます。
 

金, 08/05/2011 - 06:13

 私は御受肉の奥義を愛しています!イエスは100%神であるとともに100%人間であります。人間としてのイエスは、我々と同じ人間としての経験と反応を持っていました。
 イエスの従兄である洗者ヨハネはヘロデ王により残酷に殺害されました。イエスはショックを受け、悲しみに沈み、一人になりたいと思いました。なんと人間らしい反応でしょう。私たちの神であるイエスは、悲しみの時も私たちと共にいます。
 そして、イエスは彼に従ってきた群衆を見ましたが、少なくとも1万人はいました。イエスは彼らの切なる願いや心の渇きを感じ、彼らをとてもあわれに思いました。聖書原本のギリシア語版では、めったに使われない動詞、福音書で9回しか使われていない言葉が使われています。それは非常に深い同情を意味する言葉です。本当に心の底からイエスは、困難にある人々と共感したのです。そのイエスは、今日、私たちに対しても同じように共感してくださいます。これが私達の神、穏やかで優しく、思慮深く、共感してくださる神です。  
 今日の福音の中でイエスは人々を食事に招きました。聖書の中では食事をとること(とりわけ神と)は、親密さと友情を意味します。これが今日イエスが私たちに与えてくださるものです。イエスは、親しく打ちとけた友情を、私たち一人ひとりと持ちたいと招待してくれているのです。
 この神様との友情こそが、私たち、人の心の憧れを満たしてくれる唯一のものです。この神様との親交だけが私たちの心の渇きと飢えを満たしてくれるのです。
 聖アウグスチヌスはいろいろな方法で心の渇きを満たそうと探したあげく、イエスへの転向という賜物を得ました。自著「告白録」で彼は、「神よ、あなたは私たちをあなたご自身のためにお造りになりました。私たちの心はあなたのところで落ち着くまでは、安らぎを得ることはできません。」
 イザヤが私たちにつぎのように挑んでいます。「あなたの心を満足させることがないものに、何故あなたは給料で得た金を使うのでしょう?」
 「疲れた者、重荷を負ってあえぐ者は皆、私のところへ来なさい。休ませてあげよう。」というイエスの招きにこたえ、この温かさを人々と分かち合いましょう。

土, 07/30/2011 - 01:20

 オランダの画家ヴァン・ゴッホ(121年前に死去)は生涯貧乏でした。(生前彼が売った絵は1枚のみでした。)ゴッホは病気がちであり、たびたび医者に診てもらわなければなりませんでした。しかし彼にはお金はなく、あるとき支払を絵で済ましてもらいました。ところが医者はその絵の価値がわからず、物置にしまったまま忘れてしまいました。100年後、その絵が出てきたときには、絵の価値は何百万ドルもあるとわかったそうです。(新宿の損害保険会社が買った「ひまわり」は8千7百万ドルしたそうです。)医者は贈り物をしまったまま忘れてしまったのです。彼はそれがどんなにすばらしい贈り物であるか、わからなかったのです。
 私たちも信仰の賜物をいただいています。しかし私たちはそれを当たり前のことと思い、心の物置にしまいっぱなしにしてはいないでしょうか。また、その信仰の賜物の価値が、この世の中で、最も価値があるものであるとわかっているでしょうか?それは神様からの素晴らしい贈り物なのです。
 今日読まれた聖書の例え話が、私たちにとって慰めであり、挑戦であるのはこのことです。例え話の言い方に従えば、わたしたちはすべてを売り払う用意ができているでしょうか。つまり、私たちの心、考え、活力すべてを生きている信仰の贈り物とする用意ができているでしょうか。100%、キリストの従者となる覚悟ができているでしょうか。
 私は、信仰という言葉を、自信を持って神様に近づき、そのあたたかい交わりを味わうことのできる特権、という意味で使っています。私たちの神、アッバ(おとうちゃん)は私を愛してくださいます。イエスはわたくしの人生の旅路の友であり、聖霊は私に慰めと力を与えてくださいます。私たちは、今この世にいる間、祈りを通じて神様と交わり、この神様との親しい関係を育てていく必要があります。この神様との親しい友情を楽しみましょう。
 信仰が最も大切な財産となれば、それは私たちの日常の暮らしに大きな影響を与えます。日常の暮らしは味わいのあるものとなります。家庭生活はあたたかいものとなり、日々の労働は意味深いものに、そして自己中心を捨てて他人に奉仕することにより心の平安が得られるのです。
 もう一つの効果は、決して一人で苦しまずにすむことです。イエスが私たちと共に苦しんでくれます。
 苦しみは邪悪なものであり、神からのものではありません。しかし苦しみから神はよいものを引き出してくださいます。しばしば、苦しみの果てに、人として、キリスト教徒として、成熟を得ることができます。「神を愛する誰のところにも、神はそこにいて、働きをなしています。(ローマ人への手紙8章28節)」  信仰とは何と素晴らしい賜物でしょうか。神に感謝。

日, 07/24/2011 - 15:43

 今日読まれた「智恵の書」では「神よ、あなたは寛容をもって裁き、おおいなる慈悲をもって私たちを治められる」とあります。また詩編86にはこうあります。「神よ、あなたはあわれみに満ち、恵み深いかた。怒るにおそく、慈しみとまことにあふれておられる。」
今日の福音書の前のこの二つは、イエスの例え話をよく言いあらわしています。
 イエスの例え話は、小麦に根元から雑草がからみあって育っている情景です。雑草を引っこ抜こうとすると小麦までいっしょに抜けてしまいます。畑の持ち主は、「そのままにしておこう。あとで収穫のときに分けるから。」と言いました。
 このイエスの例え話の意味は、「他人を裁き、救いようのない悪い人などと決めつけるな。神は彼らを裁かず、愛情を注ぎ、回心し更生することを待っている」ということです。言い換えれば、神の愛とともに常に希望はあるということです。雑草は小麦になれるのです。
 基本的にこの例え話は優しさ、忍耐そして神の愛を説くものですが、もう一つ、重要な教えがあります。イエスの教会には、とても良い人、普通の人、なまぬるい人、堕ちてしまった人、そして悪人としか言えない人がいます。イエスは、これらすべての人に居場所があると言っています。イエスは我慢強く彼らの回心を待っています。イエスは罪人の友であり、100%完全な愛を、聖人にも罪人にも注ぎます。ですから罪人も我々の共同体に受け入れましょう。
 そしてさらに、この例え話の根底にある真実をお話しします。 小麦と雑草があるように、人間だれにでも、良い部分と悪い部分があります。完全な人間はひとりとしていません。私たちは、誰でも、欠点を持っています。私たちは謙虚に私たちの欠点を認めているでしょうか? 自分の欠点を知り、それを大雑把でなくきちんと明確に認識すればするほど、いかに神は忍耐強く、愛情深く、同情に満ちた方だと実感するでしょう。
 そうしてこそ、私たちも周りの人たちに対して優しくなれるのです。

 

日, 07/17/2011 - 02:12

  私たちキリスト教信者は聖書とは地上の私たちに対する神様からのメッセージであると信じ、神の言葉と呼んでいます。今日の福音の中で、イエスはあるたとえ話をしています。たとえ話は日常生活からとられたお話ですが、深い教えを含んでいます。今日のたとえ話の中でイエスは、神の言葉(つまり聖書のメッセージ)とは農夫が畑にまく種のようなものだと言っています。種がまかれた先の土地が固ければ、種は発芽しません。表土が薄く、石ころだらけの土地に落ちた種は発芽しますが、すぐに枯れてしまいます。雑草だらけの土地に落ちた種は発芽しますが、じきに雑草に窒息させられて実を結ぶことはありません。一方、よい土地に落ちた種は、有り余るほど実をつけることになります。
 神様は私たちの心に神の言葉を播いてくださりました。神様は私たちの心の中の土地を整えるように求めているのです。
 例えば、私たちの心は神の言葉が窒息するほど雑草が茂ってしまっているということはないでしょうか。日常が「忙しすぎる」として聖書を開き、神の言葉を考える余裕もないと言う人もいます。おそらく、自分が忙しいと言っている人は神様と会おうとしない言い訳にすぎないのではないでしょうか。
 いったい毎日何分、いや何時間、テレビやパソコンあるいは携帯電話のために使い、一方、何分お祈り(神様との出会い)のために使っているのでしょうか? 
 現代社会では、私たちはテレビ、パソコン、携帯電話などからくる実にたくさんの言葉によって圧倒されています。私たちは自覚的に、また意識的に、毎日神に祈る静かなひと時が必要です。そして神様の言葉を取り上げて、それについて考えるのです。こうした方法によって私たちは心のなかの土地を豊かにすることができるのです。そして、イエスが言ってくださるように、私たちは幸せになれるのです。
 具体的に、次のことを私はお勧めしたいと思います。
   聖書の先に揚げた部分について、非常にゆっくりと読んでみましょう。そのようにこの部分を読んでいると、神様はあなたの心に平和、力、慰め、そして時には挑戦の種をまいてくれるでしょう。

水, 07/06/2011 - 02:08

 神様からの「大きな招き」を欲しいとは思いませんか? もしそうなら、あなたの悩みをみんな神様に打ち明けてしまいましょう! それが今日のイエスから私たちへのメッセージです。イエスは「疲れた者、重荷を背負ってあえぐ者はみな、私のところへ来なさい。休ませてあげよう。」と言って招いてくれているのです。イエスは, 少数のお気に入りの人たちだけではなく、私たち全員を招いてくれていることに改めて注目しましょう。現代の競争社会の中では、私たちは実に多くの「重荷」を背負っています。ストレス、心配、失望、失敗、人間関係の破綻によるこころの傷、自分の人格の様々な限界、老いからくる弱さ、悲しみ、孤独、依存症、こらえようのない怒り、そのはかさまざまなことが「重荷」となってのしかかってきます。
 イエスは、祈りを通して、これらの重荷をすべてイエスに渡してしまうよう私たちに言っています。
 イエスは私たちに平和と平穏、そして喜びを与えてくれます。何という約束でしょう! 何と素晴らしい招待ではないでしょうか。この招待に応えようではありませんか!
 そして、イエスは言うのです:「私のクビキを負いなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのクビキは負いやすく、わたしの荷は軽いのです。」
 1957年から10年間、私は地方の教会で働いていました。その頃、農家の人達が牛にスキを引かせ田を耕すのをよく見ました。その頃は農業機械などまだなかったのです。クビキとは、固くて丈夫な木で造られた牛の肩に装着する器具で、牛が引くものに繋がっています。
 このようなクビキはイエスの時代から使われていました。しかし福音の中のイエスは、二頭立て用の、二連クビキのことを話しています。つまり、イエスは私たちが重荷をひとりで担うな、と言っているのです。神としてのイエスが我々のすぐ横で、私たちに力と励ましをくれるのです。それだから、重荷が楽に、軽くなるのです。私たちは人生の旅路で孤独を感じることはありません。
 次のように、三段階で、イエスに祈ってみましょう。
 1)イエスに、あなたがイエスのもとに来ていることを祈ります。そしてしばしの黙想。
 2)そして、あなたの疲れ、ストレス、重荷などをすべてイエスに話してみましょう。そして再び黙想します。
 3)するとイエスが、「私はそれをあなたとともに担ってあげよう」と言ってくださいます。この言葉を充分時間をとって味わいましょう。

金, 07/01/2011 - 06:04

 イギリスのカトリック教会の司教、ヒューム枢機卿が1985年にエチオピアに行った時のことです。当時エチオピアはひどい飢饉に襲われていました。枢機卿がある村を訪れた時、両親を亡くした小さな男の子が枢機卿の手を握りました。そしてその子は枢機卿の手で自分の飢えたお腹をさすり、それからその手を自分の頬をもっていき同じようにさすったのです。この男の子は私たちが持つ二つの基本的な欲求をよく表しています。ひとつは体のための食べ物であり、もうひとつは心のための食べ物、つまりは愛です。食べ物は力を与えてくれます。私たちは物質的な食べ物と、霊的な食べ物、両方を必要としています。
 聖体拝領において、イエスは私たちに食べ物を与え、私たちの心に力を与えてくれます。最後の晩餐(最初のミサ)で、イエスはパンを取り、「これはわたしの体である」と言いました。(「体」とはここではイエスご自身を指します。)
 ご聖体をいただくとき、生きているイエスが私たちの心の中にやってきます。イエスは私たちが人生の旅路を続けるための力を与えてくださいます。
 私の初聖体は1938年でした。アリスというシスターが初聖体の準備の中で、イエスに親しい友達として話すよう教えてくれました。そのとき教えてもらったことは、
 1)私たちに賜物をくださったイエスに感謝すること、
 2)イエスに恥ずかしがらずにお願いすること、「求めよ、されば与えられん」、 
 3)特に、キリストの愛を皆と分かち合うことができるようにお願いすること、
 私の聖体拝領後の祈りは、基本的には今もこの通りです。
 聖体拝領は非常に特別な、祈りを通じたイエスとの親しい交わりの時間です。イエスは今も生きている声で、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」と言って下さいます。この親しい交わりは聖体拝領にておいて実現するのです。
  まことに、「イエスの食卓に招かれた者は幸い」なのです。

木, 06/23/2011 - 06:46

  私たちクリスチャンは唯一の神を固く信じています。しかしその神様の内部には、父と子と聖霊が存在しています。この、内なる命がありながら全体としてひとつの神として作用している(三位一体)、という啓示は神秘と呼ばれています。つまりは、我々人間には完全には理解できないのですが、神であるイエスがそのようにおっしゃったので私たちはそれを信じるのです。
 ですから、今日私はこの神秘を頭で理解しようとするのでなく、心で味わうことを薦めたいと思います。実際、「心」は頭よりも重要です。
 まず、現代のたとえ話をお話ししましょう。私の良く知っている家族は、両親と4人の子供たちがいて、幸福な、とても暖かい家庭でした。その両親が2歳の子供を養子にとりました。その子供は虐待されていて、養子に来たときには体中あざだらけで、一言もしゃべることができませんでした。体に触られると、恐れで体を丸めるような子供でした。お父さんとお母さん、4人の子供達は温かい家庭にその子を歓迎し、その子も少しずつ応えるようになっていきました。6ヶ月後には笑うようになって、言葉が出てきました。だんだんと、その子は幸せな大人へと育っていったのです。彼は今では30歳になり、2人の父親となっています。
 洗礼の時には「父と子と聖霊の名により私はあなたに洗礼を授けます」と言います。この言葉の意味は、私たちは神様の子どもとなり、その三位一体の暖かい家庭的な雰囲気の中に引き取られる、ということを意味しています。ですから、私はその愛を味わうことを強く薦めます。聖ヨハネはその書簡の中かで、簡潔に「神は愛である」(ヨハネ1、4:8)と言っています。
 パウロのテモテ人への第一の手紙の中では、「神は唯一ひとつであり、その神と人間との間には、そのどちらでもあるイエス・キリストが仲介者として存在しているのです。」とあります。(テモテ1、2:6) これは、人間となった神であるイエスが、天の父の前で、私たちの代表として私たちのために祈る、ということを意味しています。その祈りの結果として、私たちの人生の慰め、力となる聖霊が私たちの上に送られてくるのです。これは複雑に聞こえるかもしれません!
頭で理解しようとするよりも、これを心を使って感じ取りましょう。あなたへの、神のとてつもない愛を味わいましょう。

水, 06/15/2011 - 12:53

 あなたは打ちひしがれた気持になったことはありませんか? 仕事や心配で押しつぶされそうな気持になったり、人生が大変な重荷のように感じられたことはありませんか? もしそうならば、明らかにあなたは聖霊の助けを必要としています。
 使徒言行録の中で、イエスの弟子たちは為すべき仕事を与えられました。しかし彼ら弟子たちは不安や恐れの気持ちでいっぱいで、そのような仕事をする能力などないと信じて疑いませんでした。彼らは自分たちの弱さを認識し、聖霊の助けと力を求めて祈ったのです。今日、私たちは、彼ら弟子たちがどのように聖霊を受け、恐れを知らぬ伝道師となってイエスの教えを伝えたかを思い起こしましょう。
 日本語では「助け主、聖霊」という言葉を使います。(英語では、パラクリートまたはアドボケートがその意味ですが、私にはなぜかあまりピンときません。)
 年をとり、若さのエネルギーが衰えてきて、私は自分自身の限界を認めざるを得なくなりました。それとともに聖霊の助けと力に頼るようになったのです。そうすると人生は本当に面白く、また楽しくなりました。皆さんにも(聖霊に頼ることを)お勧めします。例え、あなたが若かったとしてもです!
 第二朗読では、「聖霊の助け無しでは、誰も『イエスは主である』とは言えない。」とあります。初代教会では、「イエスは私の主である。」は最初の信仰宣言であり、今でも私たちの信仰の最も根本的かつ大事な部分であります。これは、イエスは私の神であり、かつイエスは私が信頼し私の人生すべてをその手に委ねる主人である、ということを意味します。「私の人生すべて」とは、私たちの日常の仕事、祈り、出来事、そして未来をも意味します。主イエスは優しく、愛情にあふれ、よく面倒を見てくれる私の神です。私はイエスを信頼することができます。「主よ、御手に、私の霊を委ねます。」(詩編31-6)
 しかし聖霊の助けなしには、心の底から「イエスは私の主である。」と言うことはできません。「聖霊、来て下さい。」と祈りましょう。

水, 06/08/2011 - 18:42

 今日はイエスが神として天国に戻られた日の記念日です。神ご自身が天国より降りてこられました。神であり続ける一方、マリアを通じて神は真の人間となりました。この世におけるイエスの33年の一生を振り返りましょう。
 イエスは動物小屋で生まれました!(このことですら、人生において大切なことは何か、物質的な物事か、それとも心を祝福してくれる霊的なことかを私たちに教示しています。)30年にわたりイエスは家族とともに暮らしました。家庭生活と家庭的な価値観が神のみ前に大切であることを意味します。イエスは、育ての父である大工ヨゼフの見習となりました。わたしたちの日常の行動と労働は、神の目に価高いことなのです。わずか3年間のみ、イエスは公に宣教活動を行い、弟子をとりました。イエスの教えの中心は、神は愛であり、神は私たちの近くにいて、私たち一人ひとりを気にかけている、ということでした。イエスは人々に優しく接し、とりわけ病者、悩んでいる者、失敗者などにはそうでした。イエスは全く無実であったのにもかかわらず、十字架上で罪人として死に、その命をわたしたちのために捧げました。このことは、イエスがどんなに私たちを愛しているかを示しています。この優しいイエスの心を見れば、私たち誰もが「これこそ、今の私たちに向けられた真の神様の心である」と言うことができます。今日、イエスに向かって彼のこの世での一生に感謝しましょう。
 しかし、それは2000年前の、中東の小国での出来事でした。イエスの天国への帰還(つまり、昇天)によって、イエスは時間や特定の国の制約から解放されたのです。今、神として、イエスは私たちとともにいるのです。
 今日の福音の重要な最後の言葉として、イエスは今も私たちに生きている声で、次のように語りかけています。
 「私はあなたと共に常にいる。」
 私にとって、それは我々人間が持てる最大の励みであり、慰めであると思います。ですから、そのことについてイエスに感謝し、その優しさを私たちの隣人と分かち合うことで、イエスへの感謝の念を明確に形にしましょう。感謝と喜びで私たちは、「手を打ち鳴らし、神に喜びの叫びをあげよ」(詩編47節)

月, 05/30/2011 - 03:40

 日本のノーベル賞作家、大江健三郎はインタビューの中で、「日本にいる私たちは危機に瀕しています。私たちは希望の無い社会にいるのです。」と言いました。
 物質的なものを優先する人たちは、すべてこの問題に直面します。
 今日の第二朗読の中で、聖ペトロは「...あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって...」(1ペトロ3:15)
 そこで、私自身の希望についてその理由をお話します。私の理由は、次の通りです。
 私は死後に天国で永遠の命を得るだろうか? 私は天国を勝ち取れないけれども、今この世で神を知ることができ、私を安全に守ってくださる愛情に満ちた神の優しさに頼ることができ、そしてついには天国の門を開けることができるのです。私は神を信頼し、その信頼を高めるよう頼むのです。それは神の賜物なのであり、これが私の究極のそして最も深いところにある希望なのです。
 しかし、この世においても私の未来はあります。癌にかかるだろうか、脳卒中か心臓発作になるか、それとも交通事故に遭うのか? 私にはわかりません。心配するよりも神様にまかせておけばいいの! そうなのです、人間である以上何らかの心や体の苦しみはあるでしょう。しかし、わたしが苦しんでいる時に、神の愛情に満ちた優しさは常に私と共にいます。私にとって、それが希望です。
 今日の福音では、「...あなたは私の父に愛され、わたしもあなたを愛します。」 神はわたしのすべての弱さを知っていて、それでなおあるがままの私を受け入れてくれます。それが私の希望がよってたつところなのです。神は私を全体的に愛してくださいますので、わたしは希望を持つのです。
 神は、例えば「人類愛」などの大きな概念でなく、それぞれ個人的に面倒みてくれます。それはちょうど羊飼いが羊一匹ずつ名前で呼んで、導くように私たち一人ひとりの名前を呼びます。私は神を信頼できます。これが私の希望です。
 聖書には癒しと希望にあふれた次の助言があります。「安全を求めて神のもとへ行きなさい...。この希望は私たちの魂にとって、固く頑丈な錨のようなものです。」(ヘブライ:6:18-19)
 そのような錨は、人生の荒波の中で、私たちに大きな励みと希望を与えてくれるのです。l
 この希望を他の人たちと分かち合いましょう。
 

日, 05/29/2011 - 07:57

  「人生と何だろうか? この世で自分が生きる目的は何だろうか?」という難しい問いがありますが、今週はこれについて考えてみましょう。
 日本語でも英語でも、特別な味わいがある言葉があります。たとえば、「家」(home)という言葉には温かみがあります。「家屋」や「住居」にはこのような温かみはありません。今日の福音朗読では、イエスは「心配するな。私の父の家には、住む所がたくさんある。」とあります。
 これは、実に「お入りなさい!あなたを歓迎します!」という意味なのです。
 最近2週間ほど会議に出席するため海外にでておりました。泊まった部屋は海を見下ろす素晴らしいもので食事も美味しかったのですが、自分の家に帰ってみると、「ただいま!ああ、落ち着いた!」と独り言を言ってしまったのです。
 かつて、不和な家に住んだことがありますが、その時は帰宅するのが好きではありませんでした。しかし、もしあなたが良い家に住んだ思い出があれば、それを思い出してください。そしてパウロの言葉「この世においては永遠の住み家はなく、天国にあなたの永遠の家が待っているのです。」 家族と住む自分の家の暖かさは、天国がどういうものであるかのヒントです。
 この世で生きる目的は、天国で永遠の家に住む準備することです。すでに私たちの場所や部屋は天国において確保されています。天の父、私たちの神の家ですから、天国は私たちの本当の家です。父の家は子供たちの家でもあるのです。
 私たちの死をそのような見方でとらえるのは難しくはありません。死とは、文字通り、「帰宅 (ホームカミング)」なのです。
 では、どのように私たちは天国に行くのでしょうか?天国への道とは何でしょうか?
 イエスは、「私は道です。」と言っています。イエスは難しい指図はしていません。イエスは「わたし自身が道なのです。」と言い、私たちの人生の旅路を同伴してくれます。イエスと結びつくことによって、私たちの足取りが重い時にイエスは私たちに力を、心が落ち込んだ時には勇気を、暗い時には光を、与えてくださいます。イエスと共に人生の旅路をたどり、私たちの父の家に安全に到着いたしましょう。私たち一人ひとりに特別な場所が用意されています。何と素晴らしい目的地でしょう!

火, 05/17/2011 - 00:31

 紀元1世紀のローマ、ネロ皇帝の迫害から隠れてキリスト教徒が集まった地下教会には、イエスが自分の羊の群れを守る羊飼いとして描かれた彫刻があります。しかし当時でもローマは大都会で、羊など滅多にいないものでした。人口過密の日本の都会に住む私たちも、私たちの神であるイエスを、優しく温和で、世話をしてくれる羊飼いとしてとらえてみましょう。
 旧約聖書では神を羊飼いとして描かれている場合が多くあります。最もよく知られ人気がある箇所は詩編23節でしょう。「主はわれらの牧者」 イエスは旧約聖書の預言の実現なのです。
 イエスの時代には、1人の羊飼いは彼の群れ、およそ10~20頭を、子羊として生まれた時から世話をしていました。羊一匹ごとに名前をつけて、また羊のほうもちょうど現代の飼い犬のように、羊飼いの声を聞き分け、反応していました。羊飼いは優しく、また狼や鷹などの天敵から羊を守りました。
 羊は脆弱な存在であり、えさ場や水場へ導いてやらなければなりません。羊はよく迷子になります。羊飼いはこのような羊の世話をするのです。
 私たち一人ひとりは羊であり、イエスは私たちの羊飼いです。今日の福音に、「羊はその羊飼いの声を聞き、羊飼いは自分の羊を名前で呼び、連れ出す」(ヨハネ10-3)という箇所があります。
 これらについてよく考えてみましょう。私の神イエスは、一個人としての私を名前で知っているのみならず、その名前を優しく呼んでくださるのです。神は私の面倒を見、私のために命をかけてくれるのです。それほど私のことを愛してくださるのです。
 今週、ぜひとも詩編23節をゆっくりと祈りの心を持って読んでみましょう。それを、神の羊飼いであるイエスへの祈りといたしましょう。もし心の闇に苦しんでいる人がいれば、激励に満ちた次の言葉をよく噛み締めましょう。「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、私はわざわいを恐れない。あなたが私と共におられるからです。」(詩編23-4)
 良い羊飼いである私たちの神がどんなに優しく、何もかも受け入れてくださる方であるかを実感し、そして同じく優しさと寛容を私たちの隣人に与えましょう。

月, 05/09/2011 - 22:38

 このような話を聞いたことがあります。あるお母さんが小さな子供を寝かしつけようと電気を消した時のことです。「お母さん、暗くしたら怖いよう」と子供。お母さんは「大丈夫、イエス様が一緒だから心配しないで」と言いました。しかしその子は「うん、でも誰か見える人がいい!」と言ったそうです。そうだと思います。私たちは復活なさったイエス様を目で見ることはできません。しかし、もしそのお母さんが子どもと一緒に祈ってあげれば、二人ともイエス様の存在を感じることができるでしょう。
 今日の第一朗読では「主が私の右におられるので、わたしは決して動揺しない」(使徒言行録2・23)とあり、詩編では「神は私のそばにおられ、私は決してゆるがない」(詩編16・8)とありました。そして有名なエマオへの道行きの場面では、復活なさったイエス様が打ちひしがれた二人の弟子と共に11キロ歩き、聖書の深い意味を説明します。最初、この二人はイエスが自分たちと一緒にいたことがわかりませんでした。しかしイエスが彼らの信仰の目を開いたのです。イエスとの出会いとは、私たちが必ず持っている欲求であり、その欲求に対してイエスは信仰の恵みによって応えてくれるのです。心の目を開いてくださるよう、イエスにたのみましょう。
 どうすればイエスに出会うことができるのでしょうか。エマオへの道行きの場面が、その方法を教えてくれます。
 (1)聖書を開き、ゆっくりと祈りの雰囲気の中で、読みましょう。特に福音書が良いです。そしてイエスにエマオの二人にしたようにその意味を教えてくれるよう頼みましょう。
 (2)私たちは「パンを裂くこと」、つまり聖体拝領を通じてイエスと出会えます。親しい友としてイエスと話しましょう。
 (3)自分自身の都合を忘れて人に尽くす時にイエスに出会うことができます。「最も小さい者にしたのは、すなわち、わたしにしたのと同じである」(マタイ25・40)とイエスは言っておられます。
 (4)祈りのための共同体、特にミサの場において私たちはイエスと出会うことができます。「二人、また三人が、私の名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・20)
 人生の旅路を一緒に歩いてくださる人がいるというのは実に素晴らしいことです。
 今週、イエスとより深い形で出会いましょう。

水, 05/04/2011 - 18:30

 今日の日曜日は「神の慈しみの主日」です。私たちはしばしば「慈しみ」という言葉を使いますが、神の慈しみが私たちの日常生活に影響を与えるほど、真実にその意味を胸に刻んでいるでしょうか? 神の慈しみを真に理解すためには、私たちは聖書を開き、イエスがその時代の人々に対して示した明確な慈しみの例を、祈りの心を持って考えてみる必要があります。そして現代に生きる私たちも同じ慈しみを味わうことができると実感する必要があります。「イエスは変わることはありません!イエスは昨日も今日も永遠に同じなのです。」(ヘブライ人への手紙13:8)
 遠藤周作はイエスの奇跡を慈しみの物語と呼びました。私たちは何故イエスが奇跡を行なったのか尋ねることができます。それぞれの奇跡の裏には、イエスがその人と共に、そしてその人のためにどのように感じたかが現われており、それはあわれみ、思いやり、慈しみなのです。イエスはナイムの寡婦の深い悲しみと涙をご覧になり、彼女の一人息子を甦らせて母親の元に戻しました。それは、ハッキリと形を現した慈しみです。イエスはその母親と共に感じ、悲痛を分かち合ったのです。
 イエスの復活を信じずにかたくなであったトマスをイエスは責めませんでした。イエスはトマスの疑念を理解し、彼に対し極めて優しく接しました。これも、明確に形を現した慈しみです。
 今日、私たちは同じイエス、私たちの神と出会うことができ、同じ慈しみを味わうことができます。聖書、特に福音書を読むことにより私たちはイエスと出会い、静かな祈りを通じてイエスと出会うことができます。イエスが生きている声で私たちに語りかける交わりの場において、私たちはイエスと出会うのです。「主の平和」
 困っている人に対して親切を行なった時、私たちはイエスに出会います(マタイ25章)。聖変化の時に私たちはイエスに出会います。このようなイエスとの出会いを通じて、イエスは私たちに対し慈しみを施します。
 神の慈しみは、神の親切、共感、理解、思慮深さ、変わることのない堅固な愛、許し、忍耐強さ、優しさ、そして親密さです。「慈しみ」、何と多くの意味を持つ豊かな言葉でしょう。慈しみは神の主要な特徴です。神は慈しみを例外なく与えてくださるのです。

日, 05/01/2011 - 00:21

 今日はイエスの復活という素晴らしい祝日、イースターです。
 福音書に描かれている復活を理解するには、まずはお墓をイメージすると良いでしょう。アリマチアのヨゼフはお金持ちでしたが、イエスの信奉者でもありました。イエスが(無実の!)罪人として十字架上で死ぬとヨゼフは「私自身のために用意しておいた墓を使ってください。(マタイ27:57-61)」と言ったのです。 この墓は崖下に切り開かれたもので、入口にはぴったりとはまる大きな石があり、遺体は石棚の上に置いてありました。石を転がして入り口をふさぐと、墓の中はとても暗くみえます。
 日曜日の朝、死んだはずのイエスの遺体に油を塗ろうと婦人が来ると、入口の石が外されて、墓は空になっていました。
 イエスは死からよみがえったのです。イエスは生きていました! イエスは神であり、光でした!
 私たちの自分の心の扉に重い石はありませんか? 自分の心の中は暗くなっていませんか? ほらあなの闇は、プライド、わがまま、怒り、ねたみ、憤慨、自己嫌悪、自分を傷つけた者への許し難い思い、出し惜しみ、劣等感、恐れ、不安などなど数えきれません。
 復活したイエスに祈りましょう。イエスは「私は世の光である」と言っています。自分の「石」についてイエスに話し、「イエスよ!、どうか私の心の扉のこの重い石を取り除いてください! イエスよ!!、あなたの暖かい、命を与える光で私の心を照らしてください」とお願いしましょう。
 今日、よみがえったイエスは私たちの神、私たちと同じ人間であることを経験した神なのです。イエスは私たちをわかってくださり、復活したのです。これはイエスは今でも生きており、今も私たちの間におられる、ということです。今日も、生きている声でイエスはこう言います。「恐れるな、私はあなたとともにいる。」
(PS.余震がくると私は心の中で、イエスの言葉「私はあなたとともにいる」を思いおこします。)

水, 04/20/2011 - 19:28

 今日の日曜日は、枝の主日と受難の主日という二つの呼び方があります。王であり、主であり、神であるイエスを讃えるため、枝の行列を行ないます。そしてイエスの受難の箇所の聖書朗読があります。ここではまさに、イエスが痛みの中で真に人間であることを示しています。パウロによる福音書を読むと、この時、真に神であるイエスはその神性を脇に置き、真に人間となっていたことが描かれています。イエスは100%神であると同時に、100%人間でもあったのです。
 神であり人間でもある方がこのようにひどく苦しむことの意味は何でしょうか。この、温和で優しく罪のない人がこんなに苦しむということは何を意味しているのでしょうか? この33歳の若者が、あざけられ、拷問を受け、極限の痛みの末に十字架上で死ぬことは何を意味しているのでしょうか?  
 この意味するところは次のことです。。神はわたしたちを、こんなにも、愛してくださるということです。神はあなたや私を、それぞれ愛していて、愛する私たちのためには、その命さえあっさりと投げ出したのです。聖パウロは「イエスは私を愛し、私のために命を差し出されたのです」と書いています(ガリラヤ人への手紙2:21)
 イエスは私たち一人ひとりに「恐れるな、私はあなたと共にいる」と言っています。特に私たちが、心配、恐れ、心の痛みや体の痛みにとらわれている時、イエスは私たちと共にいます。イエスご自身、恐れ・空虚感・屈辱・裏切りなど心の痛みを体験しています。そしてまた、イエスご自身、イバラの冠、鞭打ち、手と脚へのくぎ打ちという肉体的な痛みを体験しました。イエスは私たちの共感者であり、近寄りやすい方なのです。イエスは人生の旅路を私たちと共に歩んでくださるのです。
 遠藤周作は著書、「イエスの生涯」の中で、こう書いています。「永遠に人間の同伴者となるため、愛の神の存在証明をするために自分がもっとも惨めな形で死なねばならなかった。人間の味わうすべての悲しみと苦しみを味わわねばならなかった。もしそうでなければ、彼は人間の悲しみや苦しみを分かち合うことが出来ぬからである。人間にむかって、ごらん、わたしがそばにいる、わたしもあなたと同じように、いや、あなた以上に苦しんだのだ、と言えぬからである。人間にむかって、あなたの悲しみはわたしにわかる、なぜならわたしもそれを味わったからと言えぬからである。」(「イエスの生涯」第10章)
 受難の主日のメッセージは、「神は私を愛してくださる」ということです。

水, 04/13/2011 - 02:28

 今日、私がお勧めしたいのは、新約聖書を開きヨハネによる福音書11章を祈りの心をもってゆっくりと読むことです。イエスが死んだラザロを生き返らせた故事は現代の私たちに多くのことを教えてくれるからです。この場面でのイエスは私たちの神そのもので、神とはどのようなものであるかを示しています。現在の私たち一人ひとりに対して神は優しい心で接してくださるのです。イエスはラザロ、マルタそしてマリアを愛していました。イエスは彼らの親友でありました。同じように、イエスは私たち一人ひとりを愛してくださっていて、私たちの親友です。神であるイエスはマルタの悲しみと涙を見てとても深く憐れみ、ご自身も涙を流されました。その涙はイエスの心から流れたものです。我々の神であるイエスが、友の悲しみを見て泣くという光景を想像してみてください。イエスは現代の私たちに対しても、同様です。
 東日本大震災の地震と津波により大きな被害を被った現在、私たちは落ち着かず、不安と恐れにおののいています。この恐怖と闘うために、わたしたち一人ひとりに与えられているイエスの愛を味わいましょう。天災は起こるものです。決して天罰ではありません。絶対に違います。この苦境を私たちは神の愛を味わうために使いましょう。
 イエスはマルタと現代の私たちに次のように言います:「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」そして、マルタと私たち一人ひとりに尋ねるのです:「このことを真に信じますか?」私たちの答えはどうでしょうか?
 私たちは、実は半生半死、になってはいませんか? すでに実質的に死んでしまっていてお墓に入っているということはありませんか? 包帯にくるまれがんじがらめになってはいませんか? 言いかえれば、自由を奪われてはいませんか? 毎日の暮らしが、真に、喜び、自由、安らぎとともにあるものとなっていますか? 死の前に真の生(命)があり、イエスはそれを現代の私たちに与えようとしているのです。墓の中から出ることを拒んではいないでしょうか。光、力そして導きを求めて、詩編130を用いて神に祈りましょう。イエスはラザロと私たち一人ひとりに言っているのです。「墓から出て来なさい!枷をはずして、自由になりなさい!」

火, 04/12/2011 - 06:07

 四旬節中の日曜日の聖書朗読は、大昔から、復活祭における洗礼の準備のためのものでした。ですから、読まれる部分はイエスの教えの要約といえるところです。
 今日の第一朗読では、神の道具である預言者サムエルを通じて、神がエッサイの8人の息子のなかから王を選ぶ場面が描かれています。エッサイは準備を整え、7人の年長の息子たちを紹介しました。最年長のエリアブは強く容姿も優れた男でしたが、神は彼を選びませんでした。そして他の6人の息子たちも選ばれませんでした。「あなたの息子はこれで全員ですか?」とサムエルが尋ねると、エッサイは「末っ子のダビデがいますが、羊の番をしています。」と答えました。神はダビデを選びました。これは、「自分の弱さを知っていて、それゆえ神をより頼む人」を神は選ぶ、ということです。現代の私たちは自分自身の弱さを素直に認め、全面的に神が与えてくれる力に頼ろうとしているでしょうか? これはイエスが私たちに示してくれた生き方の重要な第一歩です。
 次に、詩篇23節が読まれました。イエスは私たちの羊飼いです。イエスは私たちを闇から光に導いてくれ、守り保護してくれます。彼の導きを受け入れるでしょうか?
 エフェソの教会への手紙の中で、パウロは「光の子として歩みなさい」と言っています。(この言葉は受洗式において、過ぎ越しのロウソクに灯がともされ、受洗者に渡される時に使われます。)パウロは「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」とも言っていますが、こちらのほうは、私たち一人ひとりにとって大きな挑戦です。
 福音書(ヨハネ9・1-38)についてですが、私たち自身も心の盲人であることを認識しましょう。例えば、自己中心的でいることでまわりが見えなくなったり、プライドによって自分の欠点が見えなくなったり、先入観で真実が見えなくなったり、忙しすぎてすぐそばにある神の世界の美しさが見えなくなったり、繊細を欠く言動で他人を傷つけていることが見えなくなったり、あるいは、うぬぼれ・俗人根性によって貧しい人の心を踏みにじっていることに気づかなくなったりなどです。
 この福音書の盲人がどのように信仰に目覚めて行ったかを見てください。最初、彼は「イエスさんとやら」と言い、次に「預言者イエス」と言うようになり、最後に「主イエスよ、私は信じます」と言うようになりました。私たちの信仰も深まっていくものです。私たちも祈りましょう。
「主イエスよ、わたしは真に盲人です。どうか私の心の目を開けてください。」

火, 03/29/2011 - 19:34

 私たち一人ひとりへの神の愛は本当にすばらしいものです。
 イエスはこの愛を、とても不幸なサマリア人の女性に対して、具体的な形で示しています。彼女は結婚に失敗していました。彼女は孤独で、途方に暮れ、そして傷付いていました。村の井戸の水を汲むのに、涼しい早朝ではなく、人目を避け、真昼に一人で来ていました。彼女は井戸端に座っているイエスを見て驚きます。イエスは疲れ、のどが渇いていました。「水を一杯ください。」とイエスは言いました。ユダヤ人とサマリヤ人は伝統的に憎み合っていたので、このサマリア人の女はとても驚きました。そしてイエスはこの女と会話を始めましたが、この場面はわたしが聖書の中で最も美しいと思う部分です。この場面は現代の私たちにもたくさんのことを教えてくれます。聖書を開き、ヨハネによる福音書第4章を読んでください。
 まず、イエスはこの女が犯した過ちすべてを知っていましたが、彼はあるがままの彼女を受け入れました。イエスは彼女を叱ったり戒めたりはしませんでした。イエスは彼女の傷ついた心、寂しさ、当惑を感じ取っていました。イエスはこの女性が安らぎ、生きる意味、愛と喜びを渇望していることをわかっていました。イエスは彼女に次のように言いました。「あなたに命の水を与えよう。この水を飲めばあなたの心の渇きは癒される。」 "生きた水"や"命の水"ということばで、神と彼女の間の楽しく温かい関係を示したのです。聖アウグスチヌスが祈るように、「神よ、私の心はあなたのところでのみ憩うことができるのです」
 サマリアの井戸での場面は過去の出来事の話ではありません。私たち一人ひとりの心の井戸で、イエスは今日も待っています。私たちもイエスに対して心を開きましょう。私たちも自分の言葉でイエスに話しかけることができるのです。愛情豊かなイエスとの会話は本当の祈りです。心の渇きとともに井戸へ行き、イエスが与えてくださる命の水を味わいましょう。イエスはこう言っています。「荷物が重くて疲れているなら、私のところへ来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)

月, 03/07/2011 - 07:26

 あなたには心配事がありますか? 困難に陥っていたり苦しんでいたりしませんか? 自分の将来について不安がのしかかっていませんか? 死や病気を恐れていませんか? 貯金が足りないと心配していませんか?...
 もしこのようにいろいろ心配事があったならば、どうぞ今日のイザヤ書と詩編62章と福音書を何度も繰り返し読んでください。読めば大きな慰めが得られます。
 そのイザヤ書は短いものですが、人々が家畜のように荷車に入れられ、遠いバビロンに強制連行されていったことが描かれています。彼らの故郷である美しいエルサレムにおいては神殿はがれきの山と化していました。「神は我々を見捨てた。そもそも神などは存在するのか?」と彼らは泣き叫びました。その時、イザヤの声を通して、神は次のように答えました。聖書の中で最も美しい表現のうちの一つです。「母親が自分の乳飲み子を忘れることができようか。たとえそんなことがあったとしても、私がにあなたを忘れることは決してない。」
 これらの言葉の素晴らしい意味をよく考えてみましょう。そうなのです。神は私を私自身の名前で呼んでくださり、そして母のように愛し守ってくださいます。そしてこの重要な一節を読んだ後、詩篇62章の答唱を読んでみましょう。「神は私の救い、私の力、私ののがれ場。神にすべてをゆだねよう。」 
 そして福音書を読んでみましょう。弟子たちは自分たちの将来について不安を感じていました。イエスは次のように言います。「空の鳥を見なさい。あなたを愛する神は、小さな鳥一羽一羽がどこを飛んでいるか知っています。神は小さな花が一輪一輪どこに咲いているか知っています。神の子であるあなたたちはもっと大事です。愛情深いお父ちゃんである神様はあなたの面倒をみてくれます。ですから、あなたの心配をすべて神にゆだね、神を信じなさい。
 次のことをよく覚えておいてください。愛情深く優しい神として神を知ることがなければ、神を信じることはできません。神は私たち一人ひとりを心配してくれます。私たちは神を知ることがなければ、神にすべての心配を託すことはできません。私たちは、神を遠いところにある神秘的な存在として見てはいないでしょうか。
 聖歌391番の歌詞にこうあります。「ご覧よ、空の鳥。こんなに小さな命にでさえ、心をかける父がいる。友よ。」 神の偉大な愛を信頼しましょう。
 最後に、皆さまに今週(第8主日)の聖書を何度も読み返すことをお勧めします。ゆっくりと時間をかけて考えながら読みましょう。

木, 02/24/2011 - 16:35

 東京の上野公園に、有名なロダンの「考える人」の巨大な銅像があります。これは世界中に20体しかないオリジナルのうちの一つだそうです。初めて見た時、私は考えているだけではなく祈っているようにも思えました。
 今日の第一朗読のシラ書では「主の知恵は豊かである」と言っています。詩篇119章18節では「主よ、教えの偉大さを悟れるように、私の目を開いてください」という一節があります。そして第二朗読(Ⅰコリント2・6-10)では、パウロが「この世の知恵」と、「神が私たちに与えてくださる知恵」について語っています。
 私たちは人間の力によって、考えに考え抜き、勉強に勉強を重ねますが、それでいったいどこまで行けるのでしょうか? おそらく会社で出世したり、「良い」大学に行けたり、あるいは良いモノを手に入れることができるかもしれません。しかしそれらは一時のもので、本質的には大したことではありません。それはこの世の知恵で、まことに浅いものなのです。
 神からの知恵というものは、まず第一に神からの完全な贈り物である、ということです。詩篇119のように私たちからの祈りに答える形でやってくるものです。この知恵は、神の愛情に満ちた優しさを見せ、聖書を通じて 今日も生きているイエスとの出会いを与え、私たちに人生の真の目的を自覚させてくれます。この知恵は霊的なレベルの話です。しかし、私たち人間は、霊、心、体から成るひとつのものです。神の知恵は、私たちの日常の暮らしのためのものでもある、と聖書は言っています。神の知恵が働いている例としては、裁縫の技術、大工としての建築、テントの制作、航海の方法、葬儀での歌唱、そしてエレミア書には、無学な老婆が高級軍人に助言するという面白い例もあります。言い換えれば、神の知恵は私たちの日々の暮らしのためにあるのです。例えば、時間の使い方(テレビ、見過ぎではないですか?)、物事を上手く進めていく方法、パソコンの使い方、買物や料理の方法、日常の仕事のやり方などについて導いてくれます。しかし、精神的に怠惰な人にはこの知恵は届きません。神の知恵が必要であることを認め、祈りでそれを求めている人のみが手に入れることが出来ます。ヤコブの手紙第1章5-8節を読みましょう。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなく咎め立てしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」
追伸:私個人の知り合いに、ある熟練の経済学者がいますが、彼は祈り、また自分の技がどこからきているか悟っていて、それゆえ、謙虚です。

木, 02/24/2011 - 17:30

 今日の福音でイエスは最大のチャレンジを私達に投げかけています。
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
 無理! ありえない! あいつから受けた私の心の傷は深すぎる。そんな人を愛する(受け入れる)なんてできない....。
 その通り、イエスご自身からの助けと導きがなければ不可能です。不可能であることを認めて、神に助けを求めましょう。
 典礼聖歌390番で私達は、「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう」と歌います。この聖歌の祈りを見て、イエスの助けを乞いましょう。

キリストのように考え:
 サマリヤ人部落の人々はイエスを拒絶しました。ヤコブとヨハネは、「主よ、天から雷を落として村を焼き払いましょう。」と言いましたが、イエスの考えは異なりました。イエスは彼を拒絶した人たちですら愛し(受け入れ)ました。イエスは忍耐強く待ったのです(ルカ9:54)。
 不貞の罪で女が捕らえられた時に、厳格なファリサイ人達は「石で打ち殺せ」と叫びました。イエスの考えは異なっていました。彼は罪を憎みましたが、罪人のことはとても愛していたのです。(ヨハネ8:3)

キリストのように話し:
 ヨハネによる福音書第4章を読んでみましょう。イエスは井戸端の外国人であるサマリア人の女の話しを聞き、話をしています。イエスは優しい、良い聞き手です。彼女は幾多の「結婚」をしてきた人でしたが、イエスは彼女を受け入れたのです。

キリストのように行い:
 イエスについて「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(マタイ12:20)と言われています。これはイエスは優しく、また弱く倒れて傷ついた人たちに対して理解ある方である、ということです。ひるがえって、私たちはどうでしょうか。
 イエスは一日中説教をしてとても疲れていました。その時、母親達がイエスのところへきて、子供達への祝福を願いました。弟子たちは母親達に対して腹を立てましたが、イエスは、とても疲れていて面倒だったはずにもかかわらず、その母子達を祝福しました。(マルコ10:14) 私たちはどうでしょうか。

キリストのように愛そう:
「敵を愛し、自分を迫害する者のために良いことをしなさい。彼らのために祈りなさい。」ローマ兵がイエスの手に釘を打ち、同時に長老たちはイエスを嘲弄しました。イエスはその者たちのために祈ったのです。「父よ、彼らをお許しください。かれらは自分たちが何をしているのかわからないのです。」(ルカ23:33)
 私たちはそのように他人を愛しているでしょうか。このように人々を愛する(受け入れる)ためにイエスの助けを求めているでしょうか。やってみましょう。

火, 02/08/2011 - 17:49

 今日の福音は先週に続いてイエスの山上の垂訓です。イエスは先週、私たちが真に祝福されうると8回も述べています。祝福される、という意味は幸せであったり、神、自分自身、周りの人々そして環境と安らかな関係であったりということです。
 私自身のことを言えば、私はクリスチャンの家庭に生まれました。私がどんなに祝福されていたかを真に実感したのは日本に来た時でした。神はその息子イエスを知ることが出来るという素晴らしい祝福を私に与えてくれました。私にとってそれはこの世での最高の宝物です。
 この説教を準備するために、もしキリストを知らなかったならば私の人生はどんなであっただろうとしばらく想像してみました。この試みは少し怖いものでもありました。想像しているうちに、私は空虚で、暗く、生きがいを失ったように感じたのです。私は3回も大病を患いましたが、イエス無しでは絶望していたことでしょう。ハシゴを外されたような気持ちになったのです。
 イエス無しでどうなるかと、一人静かに想像してみた結果、イエスが私の人生においてどんなに大きな意味を持つかを深く悟ることができました。イエスは私の人生に味わいを与え、暗闇の時に光を、希望を与えます。みなさんの経験はどのようなものでしょうか?
 今日の福音ではイエスは「あなたがたの人生における良い味わいを、他の人とも分かち合いなさい。あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」と言っています。私たちみんなにそう言っているのです。この世には、マザーテレサのような大きな光もあります。しかしイエスは私たちに小さな光、小さな一本のロウソクであれ、と言っています。まず最初に自分たち自身の家庭で優しく、思慮深くなることから始めましょう。してもらうことを当たり前と思わずに、感謝の言葉を述べましょう。家庭から始めて、次にこの光を家の外に、学校、職場、友人に拡げていきましょう。さらには飢えた人、家のない人や寒い冬に温かい衣類を持たない人々に伝えていきましょう(今日の第一朗読のイザヤ書のように)。今日のイザヤ書は、光の子供として私達は重荷(クビキ)を人に負わさず、不寛容(指をさすこと)を避け、人のゴシップ話をしない(悪口を言わない)ことを説いています。
 信者の皆さん!今週は祈りの中でどんなに私たちが祝福されているかを実感しましょう。それからその祝福を他の人々とわかちあいましょう。

金, 02/04/2011 - 06:39

 預言者ゼファニアは神の名において「主を求めよ!」と叫んでいます。この問いかけに私たちが応じれば、「憩い(=平和)」と「脅かす者の無いこと」が神から褒美として与えられます。イエスは「心の貧しい者は幸いである」と言っています。神の国に入ることが褒美となります。イエスは飢え、貧困、苦しみを賞賛してはいません。聖書の中で、飢えかわく人、捕われ人、見えない人、身寄りのない子供とやもめ(詩編146節参照)にとって神こそ信頼すべき方でした。
 聖書でいう「心の貧しい」とは神に頼る、という意味です。それは人間としての限界と平和に暮らしていけないことを認めるということです。そのように謙虚に認めることによって、私たちを助け強めてくれるために神がそこにいることに気がつくのです。神は私たちの唯一の希望です。
 次の問いを自分自身に投げかけてみましょう。
 神を深く必要として、神を信頼しているでしょうか。自分の人生において中心に置くのは何でしょうか。物質的なモノ、成功、それとも神でしょうか。自分が持っている資産をどのように使うのでしょうか。その資産はしまいこんでおくものですか。特に必要のない物を買って、使ってしまうのでしょうか。自分の時間をどう使いますか。テレビを見過ぎたり、パソコンの前でネットサーフィンをやりすぎたりしていないでしょうか。物質的な繁栄と成功を最優先してはいないでしょうか。自分の物を貧しい人と分かち合っているでしょうか。貧者に施しを与えることは、キリスト者であることの基本です。
 今日私たちは「カトリック児童福祉の日」を祝います。子供たちが、人として成熟していく過程で他人への思いやりを伸ばせるように、この日が決められました。私たちは子供たちに(もちろん大人に対してもですが)自分の幸せのみを考えてはだめで、世界の可哀想な子供達の幸せを考えるように求めるのです。そして貧しい子供達のために犠牲と寄付をするように言うのです。おそらく子供達はおやつや何か買いたい物を我慢したりして、お金をためることができるでしょう。教皇様がその献金を世界で最も援助が必要とされているところへ送ってくださるのです。

注:これから復活祭までの間に、日本の教会においては次のような祈願日があります。
・カトリック児童福祉の日(1月の最終日曜日)
 「カトリック児童福祉の日」は、子供達が使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定されました。この日の献金は全世界からローマ教皇庁に送られ、世界各地の恵まれない子供たちのために使われます。
・世界病者の日(2月11日)
  教皇ヨハネパウロ二世は、1984年2月11日(ルルドの聖母の記念日)に使徒的書簡「サルヴィフィッチ・ドローリス-苦しみのキリスト教的意味-」を発表し、翌年2月11日には教皇庁医療使徒職評議会を開設しました。そして1993年からこの日は、「世界病者の日」と定められ、毎年教皇メッセージが発表されています。医療使徒職組織の設立、ボランティア活動の支援、医療関係者の倫理的霊的養成、病者や苦しんでいる人への宗教的な助けなどが重要な課題となっています。
・四旬節愛の献金(四旬節中)
  教皇は四旬節に向けてメッセージを発表し、キリストを信じる全ての人が四旬節の精神をよく理解して、回心と愛のわざに励むよう呼びかけます。この呼びかけにこたえて日本のカトリック教会は、虐げられ、差別され、見捨てられ、いのちの危機にさらされている人たちとの共管を大切にするよう一人ひとりに訴えるとともに、四旬節中の「愛の献金」を奨励しています。この「愛の献金」は、カリタスジャパンを通じて海外諸国と日本各地に送られ、難民や孤児、そして貧困、失業、飢餓などに苦しむ多くの人々の命を守るため、また彼らの自立を助けるために使われています。 

金, 01/28/2011 - 23:49

 私自身の経験に基づく例え話です。何年も前に私はある家を祝福しました。家のどこも実にキチンとしていました。家具は輝くばかりで、一点の曇りもありませんでした。私は家の祭壇を祝福し、玄関、居間、台所、寝室、洗面所を祝福しました。どこにも汚れはありませんでした。最後に、聖水を撒こうと何も考えずに、手元の戸を開けようとしました。そのとたん、家のお母さんが叫んだのです。「神父様、そこはだめ!」 そこは窓のない暗い部屋で、ひどく雑然としていました。物置だったのです。
 私たちは、まさに不完全な人間であるからこそ、心の中に暗い場所があります。外面は綺麗でキチンとしているように見えるかもしれませんが、心の底の隅には闇を抱えています。
 人によって違いますが、それらは、罪悪感、恐れ、病気、孤独感、期待外れ、失望、抑鬱、恨み、深い悲しみ、裏切りや恩知らず、あるいは誰も感謝してくれないことによる心の傷、不寛容な心、ストレス、嫉妬、誘惑、疲労などなど、です。
 あなたの心の闇は何でしょうか。2分間、ちょっと静かに考えてみて、何であるかしっかり特定してみましょう。
 そして、さらに2分間(あるいはそれ以上)の時間を使って、イエスに自分の心の底まで光を注いでくださるよう頼みましょう。イエスは「私はあなたの心の光である」と言っています。今日読まれたイザヤ書と福音では、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が差し込んだ」(マタイ4-16)とあります。あなたの心の中で、イエスを夜明けの光としてください。
 イエスは今日、福音を通じて、「悔い改めよ!」と言っています。これは、あなたの心の中に闇があることを認め、イエスの温かい、癒しの光を照らしてくれるよう頼みなさい、ということを意味しています。今週、詩編27章をゆっくりと読み、お祈りすることをお勧めします。「神は私の光、私の救い、私は誰も恐れない。神を待ち望め、強く、たくましく、神を待ち望め」(詩編27)

土, 01/22/2011 - 15:09

 皆さまに提案があります。今週「私の神こそ私の力!」と何度も唱えてみましょう。この言葉は今日の第一朗読からきている言葉で、私たちの毎日の暮らしに大きな意味を持っています。「私の神」とは神を呼ぶ、とても温かい呼び方です。神様も私個人のことを知っていて、「私を名前で呼んでくださいます。」
 それでは「私の神」とはどのようなものでしょうか? 私たちはその優しいイメージを人間として現れたイエスを通して見ることができます。イエスは真の神の自画像なのです。
 今日の福音では洗者ヨハネはイエスに、私たち人間の原罪を取り除く「神の子羊」という称号を与えています。イエスの時代にはユダヤ教を信じる人々は罪を告白すると神がその罪を許す象徴として子羊をいけにえとして捧げました。イエスは十字架上で自らの命を捧げて、私たちの罪の許しを勝ち取りました。それゆえ、初代キリスト教会の信者達はイエスを「神の子羊」と呼びました。
 私は罪悪感に苦しむ多くの人達を見てきました。過去に悪いことをし、そのことについて重い罪悪感を今も引きずっているのです。私たちキリスト教徒は、神の前で正直に失敗を認め、真に悔悟するならば、神は完全かつ絶対的にその罪を許すと信じています。神のみ前においてその罪は消滅するのです。神は私たちを完全に許すのです。一方、私たちは自分自身を許すでしょうか。
「私の神こそ私の力」。私達の日常の責任、職務や仕事を果たすためだけにも、神からの力が必要であることを認めましょう。神にその力を頼みましょう。「私の神」は喜んでその力を与えてくださいます。
 そして私達は人間であるからこそ、それぞれ固有の弱さを持っています。あなたの弱さは何でしょうか? 挙げてみてください!そして「私の神」にそのために力を願いましょう。
 人間の弱さに対して神が力を与えてくださるということは、旧約聖書でも新約聖書でも不変のテーマです。旧約聖書(預言者たちへ)でも新約聖書(マリア、ペトロ、パウロへ)でも示されています。イエスは今日、パウロと現代に生きる私たちに次のように言います。「あなたが弱った時に私の力はもっとも強くなる。」(第二コリント人への手紙12:10)
私の神こそ私の力。(イザヤ49:5)

水, 01/12/2011 - 21:36

 今日読まれた聖書は、現在に生きる私たちには理解が難しいものです。しかしこの難しさにしっかり向き合えば、答えはおのずとわかってきます。聖霊が私たちを照らしてくれるのです。西暦1~2世紀のキリスト教信者も今日の聖書を理解することができませんでした。悔い改めた罪人のためのものであるヨハネの洗礼の列に、イエスが並ぶなどということがなぜありえたのでしょうか? イエスは決して罪人などではありませんでした。それを思えば答えはわかります。そしてそれはとても意義深く、私たちへの励ましの意味があるものです。イエスは自らの行いによって、彼が救おうと思ってやってきた人々との連帯を示したのです。神であり、また人間でもあるイエスは、私たちのうちの一人です。彼は私たちとともにいます。イエスは私たちの人間としての弱さ、はかなさを理解して受け入れます。私達の神はとても近く、情けの深い神なのです。
 昨年6月、私は結婚式のためにハワイ、ホノルルの平和の聖母大聖堂に行きました。この教会は150年前に建てられ、1864年に司祭となった若いベルギー人神父ダミアン・デ・ブーステルが居たところでした。ダミアン神父は自ら希望して、ハンセン病患者が強制収容されている離島、モロカイ島に行きました。当時のモロカイ島は混沌としていて家も水も無く、時には食糧も無く、医者はおらず、死者を埋葬をする人すらもいませんでした。ダミアン神父はハンセン病患者の村で家を建て、水を引き、傷口に包帯を巻き、死体を葬りましたが、当初ダミアン神父を受け入れた村人はごく少数に過ぎませんでした。その後ダミアン神父自身もハンセン病に罹患してしまいましたが、その時からダミアン神父は完全に人々に受け入れられるようになりました。ハンセン病患者達は、「彼は我々とともにいる。彼は私たちの苦しみを理解している。」と言ったのです。モロカイ島で16年過ごし、ダミアン神父は1889年に49歳で死にました。ダミアン神父は、ハンセン病の聖ダミアンとして列聖されました。(ダミアン神父の最晩年、後藤昌直というハンセン病の専門医がダミアン神父と病人達を治療しに訪れています。)
 さてイエスに戻ってみましょう。ヨハネの洗礼を受けることでイエスは私たちにこう言うのです。「私もあなた達のうちの一人です。私はあなたがた人間の困難がわかります。私は人間であることを経験したのです。疲れた者、重荷を担ってあえぐ者は、私のもとへ来なさい。休ませてあげよう。」
これは素晴らしいことではありませんか。

水, 01/05/2011 - 21:39

 家族がクリスマスや新年を祝うためにしばしば集まる時に、教会もイエスとマリア、ヨセフの聖家族を祝います。
 今日の第一朗読(シラ書)は2200年も昔に書かれたものですが、現代の私たちにとっても非常に役に立つことが書かれています。年老いた人々は物忘れがひどくなったり思考力が落ちたり、あるいは耳が遠くなったりします。シラ書は私たちに、「彼らに同情しなさい。自分が健康で力があるからといって、彼らを軽蔑してはならない。」と言っています。自省してみましょう。「思考力、記憶力、聴力が落ちてきて苦しんでいる人達に対して、私は同情しているでしょうか?(ここでいう同情、とは「共に苦しむ」という意味です。)老人がノロノロしていたり、物をなくしたりした時に、自分は忍耐強いでしょうか? 私たちがこれを実践するには、神の助けが必要です。常にこれを求めましょう。
 第二朗読ではイエスが何度も言った言葉を聖パウロが繰り返しています。「許しなさい、許しなさい、許しなさい!」 パウロは私たちに許す方法を示しています。まず第一に、自分の良心に照らして、神があなたを何度も許しているという事実を思い出す、ということです。それから、自分が人を許せる心を持てるように祈るのです。「主よ、あなたは私を許しました。私も、○○さんを許したいのです。」
 パウロが夫や妻にに述べている助言は、愛、優しさ、寛容、そして思慮深さといったものは、双方向のものである、ということです。
 福音ではヨセフと幼子イエスを腕に抱えたマリアの国外逃避行の苦難が描かれています。彼らは難民でした。そのような困難にあって、彼らは神を信頼しました。神は私たちの面倒を見てくれると約束しているのです。
 過去50年にわたり、私は結婚準備講座で、夫婦が、そして後には家族が共に祈るよう強調しています。共に祈ることで心は繋がります。共に祈る家族は、心が繋がり続けます。あなたは食前の祈りを家族全員でしていますか? やってみましょう。それはとても良いものです。

水, 01/05/2011 - 22:53

 今日は主の公現の祝日です。公現、エピファミーとはギリシアの言葉で、開示や公開といった意味を持つ言葉です。神は自分の息子、救い主を私達に見せたのです。
 聖書には2段階の意味があります。ひとつは歴史的な事実の叙述です。そして二つめは、二千年の時を超越した、現在に生きる私たちへのメッセージです。生まれたばかりの幼子イエスのもとに最初に駆けつけたのは羊飼い達でした。彼らはユダヤ国民を意味します。その次に到着したのは遠国から来た三人の賢者達でした。彼らは、ユダヤ人ではない私たちを表しています。神の前ではユダヤ人も非ユダヤ人も平等です。誰でも一人ひとりが神の愛と恩寵を等しくいただくことができるのです。今日、私は、神が御子イエスを私にあらわしてくださったことを感謝します。イエスは私の闇の光です。イエスは私の人生において意味を与えてくださいます。そして日々の生活に真の味わいをもたらしてくれます。
 しかし、三人の賢者のように、私はイエスを探し求め続けなければなりません。イエスをもっとよく知り、私の人生にもっと影響させるようにする必要があります。これは私の、人間としての努力だけではできないことです。私にも導いてくれる星が必要です。愛にあふれた神は常にこの導きをくださいます。この導きを乞い願い、そしてその導きに従いましょう。
 三人の賢者は贈り物をイエスにささげました。私たちも救い主に贈り物を捧げましょう。黄金のかわりに静かな祈りの時を、乳香のかわりに隣人に沸き立つような温かい思いやりを、甘く香る没薬のかわりに自分を傷つけた人に対して許しを、捧げましょう。
 このように聖書における三人の賢者の場面は深い意味があります。イエスを知ることで素晴らしい贈り物が与えられます。それはイエスを探し続けなさいという声、神と隣人のために何かしなさいという声です。
 2011年が皆さまにとって素晴らしい一年となりますように。

金, 12/24/2010 - 13:37

 今日は伝統的に「喜びの主日」あるいはラテン語で「ゴダテ」と呼ばれる日です。
 「喜び」や「歓喜」という言葉が第一朗読のイザヤ書に7回出てきます。この日曜日は私たちが自分たちの生き方を見直す日でもあります。つまり、精神的な「棚卸し」をするということです。私たちは優しい人生の同伴者イエスとともに、私たちの良心がどうであるか常に調べるのです。
 例えば、私たちの暮らしに信仰の喜びはあるでしょうか。この喜びを得るためには、私たちは祈らなければなりません。祈りを通じて私たちは神の慈愛に満ちた優しさに出会うことができます。私たちの「おとうちゃん」は私たちの面倒をちゃんとみてくれます。すべてを神の御手にゆだねましょう。そうすれば喜びが訪れます。
 イザヤは「弱った手」「よろめく膝」「おののく心」と表現しています。言い換えれば私たち人間はかよわい存在であり、自分自身だけでは自立できないということです。私たちはこれら人間の弱さを認め、神に助けと勇気を乞い願っているでしょうか。神を信頼しているか、それとも、この人生の旅路を自分だけでなんとかなると意地を張ってはいないでしょうか。
 第二朗読では聖ヤコブが患者について語っています。私たちは神様が定める時期を自分の人生において待つ準備ができているでしょうか。ヤコブはまた、他の人を裁くことについて警告しています。私たちはすぐに相手の不平を言ってしまいがちです。こんな例えがあります。私たちは相手の人の目の中のかんな屑は気になりますが、自分の目に丸太が突っ込まれても気がつかないのです。
 福音書では、待降節のお手本、洗者ヨハネが示されています。彼は有名な説教者で群衆が彼の説教を聞きに来ていました。しかしヨハネは身を退けてイエスに前に出るように譲ったのです。それは彼の使命でした。一方、私たちは前に出たがったり、一番になりたがったりしていませんか。他の人が優先された時、気を悪くしたりしませんか? 言い換えれば、私達は謙遜の心を持っているでしょうか?
 私たちは人間としての弱さを持っていることを認め、神の助けを頼みましょう。これによって私たちに平和と喜びがもたらされるのです。これこそが、イエスの誕生日であるクリスマスに最もふさわしい準備なのです。

金, 12/24/2010 - 14:21

 今日読まれたイザヤの預言、そしてマタイによる福音においても、インマヌエルというヘブライ語が出てきます。これは「神はわれわれと共におられる」という意味です。イエスの降臨はイザヤの預言の実現です。イエスは私たちとともにいる神なのです。
 この子供に神から与えられた名前について見てみましょう。イエスというのが彼の人間としての名前です。イエスはイエスの時代から1,000年前にいたダビデ王(紀元前1010
~970年)の子孫です。イエスは私たちと同じ肉体と心を持った、真の人間でした。イエスは肉体の痛みや、裏切り、誤解、拒絶などによる心の傷を感じました。イエスは、実に、本当に人間なのです。イエスは山(天国を意味します)から降りてきて、私たち人間と共にまた山を登ってくれるのです(答唱詩編 詩編24:3)
そして、なおかつ、イエスは真に、本当の神なのです。100%神であり、100%人間である。これは受肉の神秘と呼ばれます。
この神秘を崇敬の念をもって受け入れ、味わいましょう。
 私たちの神イエスはインマヌエルであり、私たちに非常に近い存在です。私たちの神は人間であることを経験したので、私たちのことをよく理解しており、弱い人間である私たちを受け入れてくれます。
 イエスは私たちの人生の旅路を、手と手を携えて、ともに歩んでくださいます。イエスは私たちの日常の仕事において、学校での学業において、家事をするお母さんのそばに、常にいてくれるのです。イエスは、特に、私たちが悩み、苦しみ、寂しさ、空虚感、恐れや心身の痛みに襲われている時に共に居てくださいます。もちろん、楽しい時や成功した時、幸せな時でも一緒です。
 これが真のクリスマスの意味です。神は人間性の悲しい状況をご覧になり、我らを憐れみ、天の国の栄光をわきにおいて、人間となられました。
 この時期、我が国のどこにでも見られるクリスマスの電飾を見る時に、イエスが私たちの冷たい闇に光と温かさを与えるためにやってきたことを思い出してください。イエスは私たちとともにいる神なのです。

 

 

木, 12/09/2010 - 17:05

 待降節は希望の季節です。このことについて考えてみましょう。希望は心の平安の大事な要素です。素直に自分自身に向きあってみましょう。「自分の心の希望を曇らすような、将来への不安はないだろうか?」
 私達は心配事が多く、落ち着かない世の中にいます。朝鮮半島がまた不安定な状況です。日本国内においても、いじめ、自殺、スキャンダル、家庭崩壊、失業などがあります。こんな状況で、希望を持つなどということは、不可能です。そう、不可能、人間の力だけで解決しようとするのは不可能なのです。希望は神様からのプレゼントです。神にそのプレゼントをくださるよう、お願いしましょう。
 今日の第一朗読ではアハズ王の政治指導を嘆くイザヤが読まれています。イザヤはダビデ系の王アハズがもはや生命を失っている木の切り株のように見えました。(エッサイはダビデ王の父でした。) しかし、イザヤは希望を預言します。新しい若枝がその切り株から伸びて行くのです。その若枝とはイエス、ダビデの息子(ダビデの子孫という意味)であると私たちは信じています。イエスは、悲しい現世に生きる私達にとって、希望の源です。
 私達の希望は何に基づいているのでしょうか。その礎はイエスの教えです。優しいお父さんである私達の神は、私達一人ひとりを、あるがまま個人的に愛してくださっています。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせて下さる。」(マタイ5章45節) これは神が、あるべき私達ではなく、あるがままの私達を無条件に愛してくださる、ということなのです。
 聖パウロは、第二朗読で示されているように、私達が勇気をふるって神からの希望を受け取るように言っています。失敗から絶望のどん底へ落ちて行ったエレミアを思い出してください。エレミアは「主よ、わたしを癒してください。あなたは私の唯一の希望です。」(エレミア17章14節)と叫びました。神はエレミアに(そして私達一人ひとりに)答えています。今日も、生きている声で、神は次のように言っています。「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えるものである...。心を尽くして私を探しなさい。私がわかるようにしてあげよう。」(エレミア29章11-14節)
 今週、神様の希望のメッセージについて考えてみましょう。
 神様は私達一人ひとりを愛してくださいます。神様は本当にあなたを気にかけてくれるのです。
 これこそが、わたしたちに希望を与えてくれるのです。

木, 12/02/2010 - 06:38


 私にとって、「王様」とは、宝石のついた王冠をかぶり豪華なマントを羽織ったような誰か遠い存在です。しかし聖書でいう「王」の意味は正反対で、「羊飼いである王」という意味です。これは、一人ひとりを個人の名前で呼ぶような、人々にとても近い人、人々を導き護る人で、イエスはまさにそのような王なのです。
 イエスは「目に見えない神」を具現化した存在です。イエスの優しい人間としての心を見る時(イエスは同時に100%神でもありました)、私達は神ご自身の心を見ることができます。イエスを通して、私達は真の神に会うことができ、神がどんなに人間を愛してくださっているか実感することができます(本日の第二朗読、コロサイ人への手紙参照)。
 今日の福音、とりわけイエスと「良き罪人」との美しい会話を見てみましょう。罪人はイエスを名前で呼び、肩書などで呼ぶことはしませんでした(これはルカによる福音書の中では唯一の例です)。イエスとその悔悛した男は、苦しみを共に分かち合いながら、兄弟となりました。
 私たちがイエスに祈る時に、イエスはこの世の王様のように遠い存在となっていませんか? イエスは私たちの兄弟です。イエスの父と私たちの父は同じ人です。私たちは家族なのです。今日の第一朗読で人々がダビデに言ったように、私たちも「私たちはあなたの血肉なのです。」と言えるのです。イエスは今日も「天の私の父に従う人は誰でも私の兄弟姉妹なのです...」(マタイ12:50)と言っておられるのです。
 イエスは私の兄弟であり友人です。イエスは私たちの神です。
 ですから私たちが祈る時、この聖書にあるお祈りのように、「イエスよ、」と親しみをこめてイエスの名前を呼びかけてみましょう。このイエスご自身が望んでいる親しみをこめたやり方は、私たちの祈りに特別な味わいを与えてくれるでしょう。
 そして私たちも、自分自身の臨終を迎える時に、兄弟イエスの次のような美しい言葉を聞くでしょう。
 「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる。」

金, 11/26/2010 - 10:59

 今日の福音ではイエスがエルサレムの破壊、そして世の終末までの時代を予言したことが語られています。この二つはともに苦しみから始まっています。
 あなたは今、苦しんでいませんか? もしそうなら、イエスからの興味深い二つの励ましに思いを馳せてください。
 「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」(今日の福音、ルカ21章18節) 
 「あなたの髪の毛一本づつすべて数えられている。だから、恐れる必要はない。」(ルカ12章7節)
 これは、神があなたを知っていて、あなたの面倒を見、そしてあなたをとても個人的かつ親密に助けてくれるということを明確に述べているのです。一言でいえば、神はあなたを愛しているのです。愛情に満ちた私達の父、神は子供である私達に次のように言います。「私はあなたを名前で呼ぶ。私はあなたを愛している。私の目にあなたは値(あたい)高い。恐れるな、私はあなたと共にいる。」(イザヤ43章)
 初代教会の筆者は聖書的な意味での愛、知恵、そして神のこの世での力あるわざを表現するのに「摂理」という言葉を使いました。神はどこにでも存在するのです。神の力よりも、神の愛に力点が置かれます。それは、神の力は私たちを守り、導くために使われるからです。
 神の愛は私たちとの間に結ばれた、私たちを守り導くという契約と結びついています。この美しく、また励ましとなる教えは、イエスが言った神をあらわす一言に集約されます。その言葉は、「アッバ(おとうちゃん)」。穏やかで優しい、愛情に満ちた父親で、子供である私達-弱く、頼りなく、苦しんでいる私達-をあるがままで受けとめてくれる存在です。
 そんな神への私たちのお返しは、信頼です。「アッバ、あなたの御手に私の全人生をゆだねます。私はあなたを信頼します。私はすべてをあなたにまかせます。」 少なくとも5分間、静かな祈りの中ですべての悩みをわれらの主、愛情あふれる父である神の御手にゆだねましょう。あなたは自由と安らぎを感じるでしょう。
 「あなたの全ての悩みを主にまかせなさい。主があなたの面倒を見てくださる。」(ペテロ第一の手紙5章1節)

水, 11/17/2010 - 06:30

  ペテロ岐部と187人の日本の殉教者が恐ろしい拷問に耐え、勇敢に亡くなっていったことを思うと、自分の信仰やイエス・キリストが私達みんなに与えてくれた希望がどんなにありがたいものか、深く理解することができます。彼らは皆、明確に復活の希望を持って殉教者の死をとげたのです。復活、それは完全な神の愛に包まれた素晴らしい死後の世界です。殉教したマカバイの7人の兄弟とその母親も、恐れや悲しみの中ではなく、復活という素晴らしい希望のうちに死んでいきました。この世は私達の人生の旅路の終着駅ではなく、むしろ単なる乗り換え駅にすぎません。私達を愛してくださるお父さんと共に過ごす、もっと素晴らしく、もっと満ち足りた人生に入って行くのです。私達は神の子なのですから、死んだ後は、子供が父の家に帰るようなものです。聖パウロが第2朗読で言っているように、「私達の父である神は、神の愛と尽きることのない慰めを私達にくださいました。確かな希望と慰めは私達を強めるのです。」 神様と私達全ての友人とともに過ごす、喜びに満ちた日々が天国において待っているのです。これが今日の聖書のメッセージです。
  今日の福音の中で、サドカイ派(死後の世界や復活を信じない)の人々が、イエスをワナにかけようと、未亡人について馬鹿げた神学上の質問をしています。イエスは穏やかにこの「釣り」質問をやり過ごし、復活そのものについて焦点を当てます。そうです、死後の世界はあるのです。
  神は、現在この時点もまた死んだ後も私達のことを気にかけてくださる、私達の神です。それは生きているものの神です。普通の会話では、「Aさん夫妻はお亡くなりになりました」と言うでしょう。しかし実際にはAさん夫妻は今も神様と共に生きています。死は終わりではなく、むしろ新しい始まりなのです。
  このような神とはいったいどのようなものでしょう? 人間イエスを見ているうちに、私達は真の神の心を見ることができます。イエスは優しく親切でした。彼は弱った人、傷ついた人をありのまま受け入れました。イエスは人々と共にいて彼らの困難を共に感じ、彼らと共に泣きました。私達今日も自分の復活と死後の世界を目指して人生の旅路を歩んでいますが、イエスの私達に対する接し方は同じです。イエスは旅人である私達の同伴者なのです。「主は真実な方です。必ずあなた方を強め、悪いものから守ってくださいます。」(使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 3-3)

日, 11/07/2010 - 16:29

  何年も前に私は、「主よ聖なる不安の賜物を私にお与えください」という祈りを読みました。この祈りを私は今もしています。ザアカイは、この「聖なる不安」を持っていた人でした。
 実際、ザアカイは現世的な意味ではまったく申し分のない暮らしをしていました。外見ではお金持ちでしたが、心の中はとても貧しく、やるせのない気持ちでいっぱいで、自分の人生に大きなものが欠けていると感じていました。(あなたはこのような気持になったことはありませんか?)
ここで重要な点はザアカイは、自分に何かが欠けていると素直に認めたことです。その事実に目をそむけたり、他のことでまぎらわそうとしませんでした。ですから彼はイエスの言葉を聴こうとしたのです。しかしザアカイは小男で群衆の中の後姿のイエスしか見ることができず、何も聞けませんでした。けれでもザアカイのイエスへの思いはあまりにも強かったので、彼は世間体を無視して木によじ登りイエスの言葉を聴こうとしたのです。(あなたは自ら木に登ろうとしますか?)
 群衆の中にいたイエスはザアカイに気がつきます。(イエスに気づいてもらえる....素晴らしいことでね!) イエスはザアカイを見上げて、親しく彼の名を呼び、「ご飯でも一緒にどうですか?」と言ったのです。イエスにあってからは、ザアカイは真の心の平和を持つことができました。イエスはザアカイの心の渇きを満たしたのです。
この話は単なる2,000年前の出来事ではありません。あなたは、聖なる不安、心の渇きを持っていませんか?(私たちは、TVばかり見たり、お酒に頼ったり、自らを忙しさにまかせたり、いろいろなことで紛らわすことはできますが、本当に解決することはできません。)
 今日、生きている声で、イエスは私たち一人一人を優しく呼んでくださいます。イエスは私たちの渇きを満たしてあげたい、と思ってくださっているのです。ですから、私たちもザアカイのように木に登りましょう。具体的には、イエスとともに静かな時を過ごし、私たちが何に乾いているか、話し合いましょう。詩編42節(谷川に水を求めてあえぎさまよう鹿のように...)、あるいは詩編63節(神よ、私の心はあなたを慕い、からだはあなたを渇き求める...)を読み、祈り、そして深く神を求める気持ちを高めましょう。
 私たち一人ひとりがザアカイなのです。木に登りましょう。そうすれば、私たちの名前が呼ばれ、祈りの中でイエスとの友情を楽しむことができるでしょう。

水, 10/20/2010 - 01:37

 私が日本語語学学校に入った最初の日に教わった言葉は、「ありがとうございます」でした。それはとても美しい言葉で、どの言語でも最も大切な言葉だと思います。私達人間は生きて行くために助け合わなければなりません。私達の食べ物や生活必需品は他の誰かが働いて作ったものです。「ありがとう」と感謝することで、他の人に幸せと生きる意味をもたらすことができるのです。
 他人が私達を助け、支えているということを認識しましょう。そして自分の家の人や家族に「ありがとう」と言いましょう。そうすることで私達の日常はより幸せに、また意味深いものとなります。私達はあまりにも多くのことを当たり前のことのように思っています。
 私は横浜市営バスの11系統によく乗ります。そこで教会学校の子供がバスから降りる時に「ありがとうございます」と元気よく運転手に言うのに気がつきました。これを聞いて運転手とバスに乗っているほかのみんなが嬉しい気持ちになるのです。
 しかし、私達の「ありがとう」は心からのものでなくてはなりません。口先だけのものであってはならないのです。心からのものとするために、私達は明確にどのような形で、助けてもらっているのか知っておく必要があります。家庭での大きなものから、レジ係の人がしてくれるようなちょっとした助けまで、いろいろです。
 神様は私達に命を与えた時から、たくさんのお恵みをくださいました。神様は私達の面倒を見てくれるのです。神様は私達を愛し、「私の目にあなたは値高く、私はあなたを愛する。私はあなたを名前で呼ぶ。おそれるな、私はあなたとともにいる。」(イザヤ43)と言っているように、本当に私達のことを気にかけてくださいます。神様に感謝することを忘れないようにしましょう。
 今週、神様が私達にどんなお恵みをくださったか、ちょっと静かな時間を持って考えてみましょう。私達が苦しんでいる時ですら、神様は私達の脇に立って一緒に居てくださいます。ナアマンや皮膚病のサマリア人がしたように、私達も簡単な「ありがとう」を神様に言ってみましょう。繰り返しになりますが、その言葉は心からのものとするために、いただいた恵みが何であるか、きちんと知りましょう。あなたは音楽が得意ですか? 手先が器用ですか? 思慮深いですか? あるいはおしゃべりが上手ですか? 何かにせよあなたは神様から恵みをいただいています。ですから「神様、ありがとう」とお祈りいたしましょう。

火, 10/05/2010 - 20:48

 皆さんは、痛みや苦しみ、あるいは心配などに打ちのめされた気持ちになったことはありませんか。そんな時、神様に祈りが通じないとか見捨てられたと感じませんか?そして神様の存在すらも信じられなくなり、まったく絶望的な気持ちになったりしませんか?
 もしもそんな風に思ったら、今日の第一朗読の預言者ハバククも同じ気持ちであったことを思い出してください。ハバククの「主よ、神よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いて下さらないのか。」という祈りは、礼儀正しい言葉使いではまったくありません。しかしこの祈りはハバククの心からまっすぐ来ているもので、これこそが神が欲する祈りの方法なのです。私達も怒りや失望、あるいは疑いを神に対して感じたときには、包み隠さず神にそのように言いましょう。神はハバククに(そして現代の私達ひとりひとりに)次のように答えています。
「私は遅いかもしれないが、確かに、間違いなくやってくる。」 この返答は神の預言者ホセアへの答え「主、神がやってくるということは、夜明けと同じように確かなこと(ホセア6:3)」と共鳴しています。
 神への崇敬は良いことですが、私達は神へ敬意を払い過ぎてはいませんか? 神へ礼儀正しくするあまり、私達の祈りの言葉が本心からではないものになってはいませんか? 神は、偽りの仮面で飾りたてた私達ではなく、ありのままの私達を望んでおられるのです!
 イエスの弟子たちは、召し出されたのは許すためだと、何度も何度も言われました。「そんなことは無理だ。」と彼らは思いました! その意味で彼らは、「神よ、私達の信仰を強めてください。」と叫び祈ったのです。
 信仰は神との温かい関係です。それは神からの究極の賜物であり、稼ぎ出すものではありません。(イエスの時代のファリサイ人は、律法を全て守ることで神からの贈り物を勝ち取れると思っていました。) 今日の福音にある、召使と主人の短い例え話は、神の慈しみは神ご自身からの、純粋な、稼ぎ出したものではない、賜物であると言っています。ですから私達は「神よ、私の信仰を強めてください。」と叫ぶのです。
 もしあなたが不幸に感じているのであれば、私達の優しい神様に叫びましょう。例えば、「起きてください! 主よ、何かしてください! どうしてあなたは眠っているのですか?(詩編44:24)」、あるいは「私の神よ、私の神よ! どうして私を見捨てられたのですか? どうしてそんなに遠くなのですか? あなたは私の呻きを聞いて助けにきてくれないのですか?」(詩編22:1)
これらの聖書の祈りは私達の祈りのお手本です。さあ、私達も叫んでみましょう。

土, 09/25/2010 - 22:17

 聖書やイエスのメッセージは慰めであるとともに、挑戦であるという両面があります。この二つのバランスが大切です。今日、私たちはイエスに試されています。イエスは「神とお金、どちらかを選びなさい」と言っています。どちらを優先しますか? お金を選ぶということは、カネやモノに過度にこだわり、自分自身の安楽、名声、出世を追求するということになります。さあどちらか選ばなければなりません。
 アフリカに次のような言い伝えがあります。昔むかし、おいしいものに目が無いハイエナがいました。ある日このハイエナが道が二手に分かれているところにさしかかると、左側からとても美味しそうな食べ物の匂いが流れてきました。しかし、同時に右側からももっといい匂いがしてきたのです。右に行くべきか左に行くべきか。ハイエナは決めることができませんでした。そこから先に進むことが出来ず、飢え死にしてしまったのです。私達はこんなではありませんか?
 カネやモノそのものは悪いものではありません。しかしそれらが私達の人生の中で最優先されてしまうと、私達は神と出会えなくなってしまいます。イエス自身はナザレ村で大工として様々なものを木材から造り対価を受け取っていました。
 イエスは言います。「友人を勝ち取るためにお金を使いなさい。そうすればあなたは永遠の家に招き入れられるでしょう。」(ルカ16:9) 貧者に贈り物をするのはクリスチャンの生き方の一部です。貧者に贈り物をすることによって(私達の収入に応じて)私達は貧者の精神的な友人となります。私達が死に天国の門に到達する時、彼らは私達を迎え入れてくれるでしょう。これはマタイ25章によりはっきり示されています。「私は飢え、渇き、家が無く、服が無く、病んでおり、投獄されていましたが、あなたは助けてくれました。来て、あなたのために用意されていた王国を受け取りなさい」と。 たとえば、私達はハイチやパキスタンの可哀想な兄弟姉妹に心を留めてみましょう。
 イエスは私達に挑戦します。「あなたは二人の主人に仕えることはできません。神とお金の両方に仕えることはできないのです。」(ルカ16:13)
 神を選ぶことにより私達は人生に意味を見出し、心の平和と喜びを得ることができるのです。

木, 09/16/2010 - 08:22

 土曜日の新聞(2010年9月11日)の見出しには「100歳超の23万4千人が行方不明」とありました。
 迷える子羊の例え話でイエスは私たちに、「誰ひとりとして神から忘れられることはなく、どの人もそれぞれ大切」というメッセージを伝えています。これはイザヤ書43章「神は言われた:あなたは私のもの。私はあなたを名前で呼ぶ。あなたは私の目にあたい高く、私はあなたを愛する。恐れるな、私はあなたと共にいる。」という預言の実現です。
 神は愛です。私たちがどうであれ、神は私たち一人一人をいつくしんでくださいます。私たちが、良かろうと悪かろうと、それによって神の愛がとまるということはありません。
 これがルカによる福音書15章のメッセージなのです。そこには、神による無条件の愛が三つの例え話により示されています。第一が迷える子羊の話、第二になくなった銀貨の話、そして第三が放蕩息子の話です。
 聖書を開きルカによる福音15章をもう一度読んでみましょう。読む前に、今あるがままの自分を神がどんなに愛してくださるか本当にわかるように、心に光をお与えくださいと、イエスにお願いしてみましょう。そしてゆっくりと読むのです。
 最初の話、迷える子羊はあなた自身です。神はわたしをこんなにも愛してくださるのです。神はわたしを探し求めてくださるのです。私は見つかりたいと思っているでしょうか?
 次の話、なくした銀貨の話です。あなたは何かを何日も探したあとに、それを突如見つけたことはありませんか?どんなに嬉しいことでしょうか。「喜びに満ちた神」とは素敵ではありませんか。私たちが信じる神は、嬉しく、喜びに満ちた神なのです。
 最後は放蕩息子の話です。このよく知られた例え話の中では、まず、父親が負った心の傷について考えてみましょう。この心の傷にもかかわらず、父親は息子を愛することをやめませんでした。そして息子が戻ってくる姿を遠くに見つけると、駆け出して迎えに行きました。これは私たちに対する神の接し方と重なります。神は私たちを温かく迎えてくださいます。神は、私たちが理想とするような姿の私たちではなくても、今あるがままのわたしたちを受け入れてくださるのです。
 誰でも、例外なく、神に愛されています。この愛は、それぞれ個人的な、親しい愛情です。善人にも悪人にも注がれる、無条件の愛なのです。
 神がいかに深く私たちを愛してくださるか、よく考えてみましょう。 
 この真実に気付けば、あなたはとても楽になるのです。

火, 08/31/2010 - 07:53

 今日の福音ではイエスは私たちに謙遜であること、別なハッキリとした言い方をすれば、「席を他人に譲ること」を説いています。
 ここで私たちは、「いえいえ、私は何もできませんから」とか「私なんか才能ないですから」などという、ニセの謙遜やウソの従順にならないよう気をつけなければなりません。謙遜は真実に基づくものです。
 人間誰しも、何らかの才能と何らかの弱さを持っています。
 自分がどんなことに才能があるか、しっかりとらえることは重要です。音楽、手先の器用さ、知性、話し上手、聞き上手、読書家、などなど才能の種類には限りがありません。

 自分にどんな才能があるかわかったら、そのことを神に感謝しましょう。才能とは神から私たちに、他の人たちと分かち合うように、貸し出された賜物なのです。才能を神のおかげであると感謝するようになれば、うぬぼれることはなくなります。(つまりは、考える才能だけが、あなた自身の努力なのです。)
この、神への感謝の祈りが真の謙遜なのです。
 同じように、あなたの弱点についてきちんと考えてみましょう。例えば、隣人と比べてうわべでは自分のほうが才能があると思いますか?逆に嫉妬を感じますか?不平不満を抱えこみますか?短気ですか?力があることを得意がりますか?見せびらかしますか?攻撃的な運転をしていませんか?...などなど短所の種類も限りがないのです。
 自分自身の短所がわかったら、神に助けを求めましょう。短所とは人間である以上切り離すことのできない不可分の一部です。私は弱い、なぜなら私は人間だから、ということなのです。
 つい先週、私が混んだ電車のシルバーシートの前で立っていた時のことです。私は79歳です。私の前に座っていた三人の高校生は私を見るなり目を閉じてタヌキ寝入りし始ましたが、他の席から若者が立ちあがり私の肩をたたき、「どうぞ座ってください」と席を譲ってくれたのです。それぞれ、自己中心・うぬぼれと、思慮深さ・謙遜の具体的な例ではありませんか!
 自分の席を他人に譲る、ということは広い意味があります。例えば、自分が賛成しない事柄であってもキチンと相手の話を聞くでしょうか。運転する時に他の車に道を譲ってあげるでしょうか。イエスが言っている謙遜とは、日々の暮らしのためのものです。「へりくだる者は高められる」(ルカ14-11)

 

水, 08/25/2010 - 18:36

 我々の教会はカトリックと呼ばれます。この「カトリック」という言葉の意味は、「すべての諸国民、すべての階層や社会の人々、すべての人が含まれる」ということです。これが今日のイザヤ書と詩編(117章)、そして福音書のテーマです。
 「主は言われる。わたしは彼らのわざと彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。」(イザヤ66)
 「すべての国よ、神をたたえ、すべての民よ、神をほめよ」(詩編117)
 「人々は東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席につく。」(ルカ13-29)
この聖書の教えは私たちに慰めと挑戦をあたえてくれます。
1:慰め
私たちは神の子供となるように神によって選ばれ、私たちもそのことを知っています。(ヘブライ人への手紙) 私は自問自答します。なぜ神は私を選ばれたのだろうかと。これには答えが無く、私はただ「ありがとう」と感謝するのみです。
しかし、私は神が私を選んだ理由を知っています。それは、この神からの恵みを他の人々と分かち合うためです。
2:挑戦
イエスは、彼の召命者たちが自分たちが他の人達より優れていると思うようなエリートグループとなってはならないと、非常に強く宣言しています。そのとおりで、彼ら召命者たちは他の人の為に働かなければなりませんが、決して他の人たちを見下してはなりません。これは大きな挑戦です。神からいただいた賜物は他の人々と分かち合うためのものなのです。
 第二朗読(ヘブライ人への手紙)では、私たち一人一人が神の愛に包まれた神の子であると、再び説かれます。この一節は文脈をよく踏まえて読まれなくてはなりません!(私はこの一節が文脈を無視して読まれているのを、よく聞きました。)私たちの神は懲罰する神ではありません。神は私たちに苦しみをお与えにはならないのです。苦しみは人間であることの一部にすぎません。このヘブライ人への手紙の箇所は、苦しみを役立てることを説いています。私たちは神の助けを求め、これにより愛情と優しさに満ちた神に出会い、私たちを強めてもらうのです。苦しみを通して私たちは人間として、クリスチャンとして、成熟していくのです。
 今日の福音書で言われている、「狭い戸口を通っていく」ということは、私たちは神が差し出してくれる助けと協力していく必要がある、ということを意味します。
 自分自身だけの、ストレスを強いられる一人ぼっちの努力ではなく、神との協力であるということをよく覚えておいてください。
 詩編117章2行を読んでください。この美しい、平和と命の言葉を、ゆっくりとかみしめてください。

金, 08/20/2010 - 12:48

 私たちは洗礼の際に、守護聖人の名前をいただきます。同様に、教会も献堂の際に、名前をいただきます。保土ヶ谷教会の守護聖人は、被昇天の聖母です。
 いにしえの頃から、キリスト教徒は、世の終わりの時に私たちにも起きることとして、聖母マリアが心も体も天へあげられた信じています。このことは西方教会では、聖母の被昇天、東方教会では聖母の眠りと言われています。
 私たちはマリアを崇敬しますが、真の尊敬は模倣を含むのです! マリアの一生のうち、特筆すべきは彼女の神への信頼です。詩篇139章18節の「神の計らいは限りなく、生涯私はその中に生きる」という一節は、喜びの時も苦しみの時も共に変わらないマリアの神への態度を要約しています。神の計らいを私たちは「摂理」と呼んでいます。これは神は私たちに対し、常に共に居る、そして私たちの面倒を常にみるという厳粛な誓いを立てているということです。
 マリアは神の力によってイエスを身ごもりました。しかし、他人からは未婚の母としてみなされたことでしょう!マリアは神を信頼しました。天から授かった子供はすきま風が吹く馬小屋で出産しなければなりませんでした。マリアは神を信頼しました。ヘロデ王が彼女の子供を殺害しようとするので外国であるエジプトへ逃れ、そこでしばらく暮らさなければなりませんでした。マリアは神を信頼しました。イエスが12歳の時、マリアはイエスを見失ってしまい、イエスの説明を理解することができませんでした。マリアは神を信頼しました。
 イエスが30歳の時、彼はナザレの友人や親戚縁者一同から絶縁されました。それでも、マリアはなお神を信頼したのです。そしてイエスは罪人として十字架上の死を迎えるのですが、母親として最も辛い夜を過ごした時も、やはりマリアは神を信頼しました。
 イエスの復活の後、マリアはできたばかりの教会の仲間たちと共に祈っていました。マリアは今も私たちとともに祈っています。
 私たちも、神が常に守ってくださるというマリアの神への信頼を見習いましょう。神は私たちを愛し、神の目に私たちは値高いのです。
 神の母聖マリア、今も死を迎える時も私たちのために祈ってください。アーメン。 

水, 08/11/2010 - 18:08

 昔のことですが、かつて私には対照的な二人の友人がいました。一人は約束をすぐに忘れてしまう人でした。駅で待ち合わせをしたのですが、やって来ず、一時間半待った後に電話をすると、「他に用ができた」などと言うような人でした。これにはまいりました。こんなことがしばしばあり、いつしか疎遠になりました。
 もう一人は全幅の信頼をおける人で、本を持ってくると言えば、彼は翌週必ずその本を持ってきました。また、10時半に会うと言えば、10時半に現れるのでした。私は彼を信頼することが出来ました。
 約束を守るということは、日常生活と友情を保つためには、とても大事なことです。約束が守られることで、安心感と安らぎがもたらされるのです。
 私たちの洗礼の時に、神ご自身は私たちに対して公式かつ厳粛に、約束をしてくださっています。それは、「私はいつもあなたと共に居る。私はあなたを常に守る」というものです。そして私たちに愛を注ぎながら、神はこの厳粛な約束を果たしてくださっています。今日の聖書朗読の箇所では、この約束は「永遠」であると言われています。これは、約束は無条件であるということです。私たちは時として神を忘れる時があるかもしれません、が、神は私たちを忘れたり約束を撤回したりはしないのです。このことを祈りの心を持って、じっくり考えてみましょう。このことは私たちの信仰の、まさに土台となるべきことなのです。今日読まれた知恵の書では「彼らはあなたの約束を知ってそれを信じていたので、動揺することなく安心していられた」とあります。また第二朗読で読まれたアブラハムのように、神の約束を信頼して、たとえ私たちがどこへ向かっているか知らずとも、人生の旅路に踏み出すのです。(実際、誰も将来のことなどわかりません!)
 そして不妊の女サラも、彼女に約束をした神は約束を守るであろうと信じていました。今日、私たちに対しても、神は同じようになさいます。
 私たちの面倒を見てくださる、という神の素晴らしい約束は、私たち側からの返事を必要としています。
 その返事とは次のようなものです。
 神よ、私はあなたを頼りとします。あなたはこんなにも私を愛してくださり、こんなにも頼りがいがあるので、私のすべてと私の未来をあなたの御手にゆだねます。(詩編33節)
 このような祈りにより、私たちの心の灯に火がともり、私たちは恐れではなく、自信と希望に満たされて、待つことができるのです。
 神からの約束を思いおこすことで、私たちは心の安らぎや安心感、そして楽しみを得ることができるのです。

月, 08/02/2010 - 16:40

 私は日本画家の東山魁夷が好きですが、とりわけ彼の「道」という絵に魅かれます。以前、肺炎で入院していた時に、この「道」が載った本をお見舞いとしてもらいました。それは私の人生のターニングポイントとなったのです。私は、自問自答しました。この人生の道の中で、私はどこに居るのか。この道はどこへ通じているのか。最後目的地はどこか。言い換えれば、人生の目的とは何か。

 これらは、今日の聖書朗読にも出てくる、私たちに投げかけられた非常に重要な命題そして挑戦です。旧約聖書コヘレトの言葉では、現世の名誉や世俗的な成功など物質的な財産では幸せになれないと語っています。これらはとてもはかないものです。聖パウロは「貪欲は偶像崇拝と同じです」と言っており、イエスも例え話の中で同じ事を繰り返しています。現世の財産は人生の道を歩む私たちを満足させることはない、現世の財産は死ぬ時には一緒に持って行くことはできない、とイエスは言っているのです。まったく、ハッとさせる考えではありませんか。
 
 現世の資産、名声、成功は移ろいやすいものです。朝日がさすと消えてしまう朝露のようにはかないものなのです。
 では、この人生を生きるに値するようにするものは何でしょうか。何が私たちの日常を味わい深いものにするのでしょうか? 唯一、神のみが私たちを満足させ、今私たちを幸せにし、そして、私たちの人生に真の平和をもたらすものなのです。

 聖アウグスチヌスは354年に北アフリカに生まれました。母モニカは敬虔なクリスチャンでしたが、アウグスチヌスは違いました。彼は自分自身の富、名声、快楽にしか関心がなかったのです。より収入を得るために、彼はカルタゴからローマへ、そしてミラノに移りました。しかし、33歳の時彼は人生を大きく変え、敬虔なクリスチャンとなりました。後年さらに神父となり、司教にまでなっています。かれの著書「告白録」に、かれは次の祈りを書いています。
 「神よ、あなたは私たちを造ったのですから、私たちの心はあなたに向かいます。ですからあなたの中にはいるまで、私たちの心は真の安らぎを得ることはできません。」
 唯一かつ永遠に続くことは、私たちと神との温かい関係です。
 この関係はこの世に生をうけたことに始まり、私たちが死んでも、永遠に続きます。
 私たちは、天国に宝を積みましょう。 これこそが、人生の旅路における目的です。 天の国が私たちの人生の、最終目的地なのです。

水, 05/05/2010 - 11:50

 5月9日から6月13日の主日のミサの説教は、6月20日に行われる堅信の準備としての講話(全6回)になります。

 左側のメニューの中から「ケンズ神父の説教」を選択し、「堅信の講話」へと進んでください。